・長徳三年(997)の夏は暑かった
都では物価が上がって、
暮らしにくいという
飢え死にする貧民も多い、
という噂だが、
ここ、中宮をお囲みする後宮では、
再び春が戻ったような花やぎだった
姫君はすくすく育っていらっしゃる
中宮のおん元へは、
主上からのご連絡が、
ひっきりなしにあり、
中宮の明るいお声がよく洩れる
殿上人の姿は、
夜昼、絶えることがなかった
上達部もよほど急ぎでない限り、
こちらへ参上なさって、
私たちを相手に、
おしゃべりを楽しんで行かれる
宮廷の社交界は、
中宮のいられる職の御曹司に、
移ってしまった
内裏よりはるかに開放的な、
暮らしは最適である
まだ姫宮がお小さいので、
内裏にお住まいになることは、
できないのだったが、
社交の面白さという点では、
こちらの方が自由だった
私のいちばん親しい男友達は、
経房の君をのぞいては、
藤原行成卿である
斉信の君が栄転なすったあと、
蔵人の頭になられた
この人は、
一条摂政・伊尹(これただ)公の、
お孫さんであるが、
祖父の摂政の大臣は早くに、
亡くなられ、しかも父君も、
行成の君が三つのとき、
はやり病で亡くなってしまわれた
そのため、
出世が遅れていらしたが、
才能のある方なので、
源俊賢(としかた)卿に、
みとめられて一足飛びの栄転で、
蔵人の頭に抜擢されなすった
異例の昇進、
と世間ではびっくりしたが、
それでも伊周(これちか)の君や、
隆家の君の場合と違って、
反感を抱く者はなかった
それに当代の能筆家としても、
評判の高い人で、
人々から一目おかれていられる
人々が噂するには、
「朝成の中納言が、
たたらねばよいが」
と笑いながらあてこするぐらい
行成卿のお家は代々、
「朝成の呪い」にたたられて、
短命だといわれている
もう二十何年も前のこと、
お祖父さんの伊尹の君と、
朝成中納言は蔵人の頭を争われた
家柄の低い朝成中納言は、
伊尹の君に、
「今回はご辞退下さい
今回なられなくとも、
そのうち必ず蔵人の頭は、
まわってきましょう
しかし私は今回外すともう、
その機会は永遠にございますまい
どうかこの度は家柄の低い、
私にお譲り願えませんか」
と乞われた
伊尹の君は、
「承知しました
お譲りしましょう」
と約束され、
朝成中納言は喜ばれたが、
いざふたを開けてみると、
蔵人の頭は伊尹の君であった
確約したにかかわらず、
伊尹の君は気が変り、
しかも朝成中納言に、
ひと言のことわりも、
なさらなかったので、
朝成どのは強く不快に思われ、
以来、不和であったが、
そのうち家来同士の争いがあって、
伊尹の君が、
「頭を越されて無念のあまり、
自分に無礼を働いた」
と怒っていられるという、
噂が伝わった
朝成卿はその釈明をせんものと、
一条邸へ参上された
暑いさかりであった
来訪を告げ中門で待っていたが、
長いことたつのに、
案内はない
貴人の邸を訪れた際は、
案内があるまで邸内に入れない
いまかいまかと待つうちに、
日は西へ傾き、
入日の暑さは堪えがたい
汗は滝のように流れ、
眼はくらむが、
誰もとりなす者はいない
(伊尹の奴め、
おれをあぶり殺そうという、
つもりか
来るのではなかった)
と思うと、
朝成卿の総身に、
ふつふつと憎悪と怨念が、
湧いてきた
そのうち、
夜になってしまったから、
今日はこれまでと去られたが、
(おのれ、おぼえておれ)
と物を握りしめられ、
それは音を立てて折れたという
それ以来、
朝成卿は怨念の鬼となって、
寝つかれ、
「伊尹の一族、
末長く呪い続ける
この一族に心寄せる者あれば、
それも呪おうぞ」
と叫んで狂い死にされた、
と伝えられる
伊尹公はそのせいか、
四十九のお若さで亡くなられ、
お子の行成卿の父君に至っては、
二十一、
その兄君も二十二で亡くなられる、
という短命で行成卿も、
つねに身をつつしんでいられる、
ということだ
こんな噂もある
左大臣の道長の君が、
夢を見られた
紫宸殿のうしろに誰か立っている
「誰だ」
と何度も問うと、
「朝成だ」
といった
夢の中ながら、
道長の君は恐ろしく思われたが、
「なぜこんな所に立っていられる」
と問われると、
「行成の参内を待っているので、
ございます」
というのであった
目が覚めて道長の君は、
不気味に思われ、
「今日は公事のある日、
行成は早くから参内するに、
違いない
朝成の悪霊に出会ったら、
気の毒である」
と早速手紙を書いて、
使者に持たせられた
しかしすでに、
入れ違いに行成の君は、
参内されていた
ところが何という、
運の強い人か、
参内するには必ず通らねばならぬ、
紫宸殿のうしろを通らず、
その日に限って、
藤壺と後涼殿のあいだから通って、
清涼殿の殿上の間へ上がられた
道長の君は驚かれて、
「どうされた
手紙はごらんにならなかったのか
急いで退出なさるがよい」
とすすめられたそうである
それを聞かれた行成の君は、
青くなられてひと言もいわれず、
そうこうと退出なさって、
物忌みにこもり、
祈祷させ、
しばらくは参内されなかった、
とか
男たちの権力をめぐる、
火花の散るような争闘が、
私には壮快だった
悪霊となった朝成も、
私には共感できて、
あわれむことや、
嗤うことはできない
権力を手に入れるためには、
男たちは何だってする
それは反面、
権力におもねり、
従うことである
朝成卿は現世での権力を、
断念してしまった
そうして異次元での、
権力者にになろうと、
現身を捨ててしまったのだ
(次回へ)