「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

19、わが町の歳月 尼崎 ①

2022年02月07日 09時00分50秒 | 田辺聖子・エッセー集










・福島から尼崎へ移ったのは、戦災で家を失ったからである。
尼崎は大阪から地続きであるが、行政的には兵庫県になる。

東京から来る編集者の手紙には、
「大阪府尼崎市」とあったが、これは間違い。

私が大阪の小説ばかり書いていたから、
大阪に住んでいるもの、という先入観念があったからだろう。

私の感じでいうと、尼崎も大阪言語圏のうちで、
武庫川を越して西宮市へ入ると、神戸弁になる。

そして、明石、姫路と神戸弁、播州弁と混ぜつつ、
やがて三石トンネルを抜けると、がぜん岡山弁になる。

空襲で罹災したのは、昭和二十年六月一日。
私は当時、樟蔭女専の国文科生で、その日は学校にいた。
空襲解除になって上六から歩いて帰ると、焼け野原になっていた。

「大阪大空襲」(大和書房)によると、
火災発生後、豪雨があり、昼なお暗くとあるが、
白昼というのに空は真っ暗だった。

火の粉が舞い狂い、
熱したトタン屋根や戸、障子が空をあおられていた。

ともあれ、曽祖母たちの「キタの大火」どころではない。
却火が大阪中をなめつくし、
町の暮らしは根こそぎ吹っ飛んでしまった。


~~~


・尼崎は不思議な町である。
とりとめのない町で、特徴はといわれても口ごもってしまう。

南の浜側は工業地帯、北部は農地と住宅地、
大阪と神戸の間の通過都市。

私はここに二十年ばかり住み、ここに居る時、芥川賞をもらった。
昭和三十九年である。

私はその後、尼崎を舞台にした小説をよく書くようになった。
つまり、このとりとめのない町のある部分が好きになったからである。

私の書く小説は取材に動き回る方ではないので、
材料がその辺に転がっている。自分をその中において、
朝晩、何年もかけてなじみ、ようく知っていないと書けない。

私が東京を書けないのは、そこに住んでいないからである。
男を書こうと思うと、その人と二~三年共棲みしないと書けない。

子供も育ててみないとダメ、ということになる。
私は、関西以外の地に住む人は書けないのである。
書いても、旅行者の目でみたものになってしまう。

尼崎は東京の人になじみ薄いので、
私が「尼崎に住んでいます」というと、
聞き間違えて「はあ、釜ヶ崎にねえ・・・」
とうなずく編集者が多かった。

当時、黒岩重吾氏が釜ヶ崎を舞台にした作品を発表していられて、
全国的に有名になっていたからである。

家は尼崎の端に近い、武庫川の側。
買い物には三和市場へ出かけた。

大阪から尼崎へ移った終戦直後、
商人の態度が荒っぽかったのには驚いた。

これは終戦直後の人心の荒廃という以上に、
地域差の方を強く感じた。

しかしやがて、戦後の波のうねりは大阪をも襲い、
大阪本来の良さも荒い流してしまった。

空襲とそれに続く焼け跡の闇市が、大阪商人の、
人あたりの良さを奪いつくした気がされる。

私は、出屋敷を舞台にいくつも小説を書いているが、
いちばん早い作品は「うたかた」である。
「うたかた」が私の第二の出発になった。

芥川賞をもらったが、純文学作品はやめてしまい、
以後は中間小説を書くようになった。

その皮切りが「うたかた」である。
それでもって私はある種の文芸評論家に、

「文学修業の辛さに堪え切れないで、堕落した落ちこぼれ作家」
というお墨付きをもらっている。

それ以後、ずっと落ちこぼれている次第。






          


(次回へ)

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