・私は関西圏の丸い輪の中から一歩も出たことのない世界で、
(ああ、面白かった)と思い(まあ、そんなトコとちゃいますか)
と思うものである。
小さい水たまりにじっと潜んでいる、
山椒魚の如き存在だな、と我ながら思う。
関西圏といっても、更に私の範囲は狭く、
大阪の西北部に生まれて、尼崎に住み、神戸に移り、
今は伊丹で、関西圏の輪の中を心もとなく漂泊している。
福島は狭いところなのに、天神社が三つもあり、
子供の私は今も残っている上の天神社に親しんでいた。
「天神さんは、ここから九州へ流されはったんや」
と私は祖父に教えられたが、町内の素封家の家には、
天神さんの小袖やお盆も残っているらしい。
天神さんは舟出に際し、
その当時、餓鬼島といっていたその辺の地名を忌まれて、
「福島に変えよ」とおっしゃったそうで、以来、福島になったという。
ついでにいうと、私の大阪体験は、
大阪人のいう「キタ」に限定されている。
「ミナミ」は全く勝手を知らない。
自分が迷子になってしまう。
子供のころは、父に連れられて、道頓堀、心斎橋となじんだ。
大劇の「春の踊り」は宝塚と共に少女時代の楽しみの一つであったのに、
やはり「ミナミ」は、私にはよその町のような気がする。
それは、そこに住んだことなく、
盛り場へ遊びにだけ行っていたからだろう。
・私の生まれた福島は、つつましく勤勉な、
そして遊ぶのも大好きな庶民の町であった。
昭和二十年の三月と六月、空襲ですっかり焼けてしまった。
現在はやたら広い道路がしらじらと南北に走り、
自動車屋、部分品専門店の並ぶ面白みのない町になってしまった。
昔は路面電車が真ん中を走り、
両側にいろんな商店が並んで楽しかった。
夏の天神祭りには、
いっせいに御神燈を吊るし、浅黄色のまん幕をめぐらし、
正月にはしめ縄に濃紺のまん幕を張る。
挨拶には「忙しおまっか?」「ぼちぼちだんな」と言い合う。
四季の行事を楽しむ庶民の暮らしがあった。
「ぼちぼちに行きまひょか」
町内では、春の花見、よく働きもするが、遊び方もしっかり遊んだ。
そういうのが大阪の庶民であって、
戦後、高度経済成長のときに流行ったがむしゃらな金儲うけ主義は、
普通の大阪人にはないのである。
与謝野晶子の歌に、
<老いぬらん去年今年(こぞをとどし)のただごとの
そのなつかしさ極まりもなし>
というのがあるが、
何年か前、私は福島を歩いた時、上の天神社辺り、
空襲にも焼け残って、昔さながらの様子に、
なつかしさは極まりもなかった。
福島は、メリヤス関係の店が多く、
卸問屋だとか、ボタンつけをしているとかの工場が多かった。
「莫大小・製造部」という看板は子供心に深く刻まれ、
「莫大小」を「メリヤス」と読むのだと、
小さい時から知っていた。
日本のメリヤス業は日清日露の戦争からこっち、
兵隊のシャツや靴下の需要が急増し、輸出も伸びて活気づいた。
福島には大きい紡績工場があったので、
下請けのメリヤス工場がひしめいていた。
・祖父母や父母の暮らしを見ていて、
私は昭和三年生まれだが、子供時代にも明治は色濃く残っていて、
ことに明治四十二年の「キタの大火」は、
曽祖母や祖父母の記憶に新しかった。
昭和三年のご退位のご大典、花電車、明治も大正も、
私の身辺に残されていた。
福島のごちゃごちゃした町の楽しさは、
私の人生の好みになり、志向を形作った気がする。