「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

18、わが街の歳月 福島

2022年02月06日 10時01分07秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私は関西圏の丸い輪の中から一歩も出たことのない世界で、
(ああ、面白かった)と思い(まあ、そんなトコとちゃいますか)
と思うものである。

小さい水たまりにじっと潜んでいる、
山椒魚の如き存在だな、と我ながら思う。

関西圏といっても、更に私の範囲は狭く、
大阪の西北部に生まれて、尼崎に住み、神戸に移り、
今は伊丹で、関西圏の輪の中を心もとなく漂泊している。

福島は狭いところなのに、天神社が三つもあり、
子供の私は今も残っている上の天神社に親しんでいた。

「天神さんは、ここから九州へ流されはったんや」
と私は祖父に教えられたが、町内の素封家の家には、
天神さんの小袖やお盆も残っているらしい。

天神さんは舟出に際し、
その当時、餓鬼島といっていたその辺の地名を忌まれて、
「福島に変えよ」とおっしゃったそうで、以来、福島になったという。

ついでにいうと、私の大阪体験は、
大阪人のいう「キタ」に限定されている。

「ミナミ」は全く勝手を知らない。
自分が迷子になってしまう。

子供のころは、父に連れられて、道頓堀、心斎橋となじんだ。
大劇の「春の踊り」は宝塚と共に少女時代の楽しみの一つであったのに、
やはり「ミナミ」は、私にはよその町のような気がする。

それは、そこに住んだことなく、
盛り場へ遊びにだけ行っていたからだろう。


・私の生まれた福島は、つつましく勤勉な、
そして遊ぶのも大好きな庶民の町であった。

昭和二十年の三月と六月、空襲ですっかり焼けてしまった。
現在はやたら広い道路がしらじらと南北に走り、
自動車屋、部分品専門店の並ぶ面白みのない町になってしまった。

昔は路面電車が真ん中を走り、
両側にいろんな商店が並んで楽しかった。

夏の天神祭りには、
いっせいに御神燈を吊るし、浅黄色のまん幕をめぐらし、
正月にはしめ縄に濃紺のまん幕を張る。

挨拶には「忙しおまっか?」「ぼちぼちだんな」と言い合う。
四季の行事を楽しむ庶民の暮らしがあった。

「ぼちぼちに行きまひょか」
町内では、春の花見、よく働きもするが、遊び方もしっかり遊んだ。

そういうのが大阪の庶民であって、
戦後、高度経済成長のときに流行ったがむしゃらな金儲うけ主義は、
普通の大阪人にはないのである。

与謝野晶子の歌に、

<老いぬらん去年今年(こぞをとどし)のただごとの
そのなつかしさ極まりもなし>

というのがあるが、
何年か前、私は福島を歩いた時、上の天神社辺り、
空襲にも焼け残って、昔さながらの様子に、
なつかしさは極まりもなかった。

福島は、メリヤス関係の店が多く、
卸問屋だとか、ボタンつけをしているとかの工場が多かった。

「莫大小・製造部」という看板は子供心に深く刻まれ、
「莫大小」を「メリヤス」と読むのだと、
小さい時から知っていた。

日本のメリヤス業は日清日露の戦争からこっち、
兵隊のシャツや靴下の需要が急増し、輸出も伸びて活気づいた。

福島には大きい紡績工場があったので、
下請けのメリヤス工場がひしめいていた。


・祖父母や父母の暮らしを見ていて、
私は昭和三年生まれだが、子供時代にも明治は色濃く残っていて、
ことに明治四十二年の「キタの大火」は、
曽祖母や祖父母の記憶に新しかった。

昭和三年のご退位のご大典、花電車、明治も大正も、
私の身辺に残されていた。

福島のごちゃごちゃした町の楽しさは、
私の人生の好みになり、志向を形作った気がする。






          







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