むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

18、私の見た自衛隊 ③

2022年05月23日 08時43分39秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私が海上自衛隊で接した左官・将官は、
たいへんすてきな紳士たちだった。

旧帝国海軍の士官だった人たちで、
率直であっさりしていて、
インテリジェンスがあって洗練された中年紳士ばかりである。

世間知らず、という世評もあるが、
少なくとも私としてはえせ文化人のいやらしさや、
金もうけしか考えない実業家などに比べて、
海風のようにさわやかな印象であった。

それは彼らと私が時代を同じくして、
(私のほうがちょっぴり後輩である)
生きてきた人種であるから理解できるのであろう。

しかし彼らはすでに四十代後半から五十半ばの年輩である。
海兵六十期後半から七十期前半の卒業生たちである。

そしてトップクラスの将官たちは、
次々と勇退してゆく年ごろとなる。

彼らが順おくりに昇進し、勇退したあとは、
純粋に戦後生まれの防衛大学出身者がトップとなる。

すでに防衛大の一ばん上が三佐までいっているから、
あと七、八年でトップクラスは防衛大出身者で占められる。

これは問題である。
当然の帰趨であるが、注目すべきことだと思う。

いまのトップクラスは終戦のとき、
せいぜい大尉で、小中尉クラスが多い。

歴戦の勇士であるが、
敗戦という挫折を経験し、
世界に冠たる帝国陸軍の落日を見た人たちである。

Z旗の堕ちるのをみた人の目を信じてもいいと思う。
彼らがいるかぎり、暴走の歯止めになりうる気がする。

防御抑止オンリーという、
武力における変則的なアンバランスを保ちうる、
唯一の「時代の証人」だと思う。

しかし純粋戦後っ子の防衛大生がトップになったとき、
そのときはどう変わるか、
誰も予測できない。

私は武力の本質にたちもどって、
攻撃と防衛という本来のバランスを取り返すのではないか、
と危惧する。

もはや歯止めになりうるものは何もないし、
誰もいない。

いまの将校たちは、
営外に出るときは、平服に着替えて出ていく。
そして社会の人の中へ入りまじり溶け込むのである。

しかし、将来、実戦も挫折も知らない世代の将星たちは、
もはやユニホームをプレーンに着替える気持ちの陰影も、
理由も持たぬであろう。

戦中派の迷妄といえばそうだが、
金筋、星、桜、イカリ、翼、サーベルが、
町に氾濫するのではあるまいか。
遠からずそうなりそうな気がする。

自衛隊の社会的ウエイトが重くなり、
優秀な子弟が送りこまれ、装備が充実した場合、
自衛隊の紳士たちは変貌せざるをえない。

その意味からいっても私は、
むしろ自衛隊の位置はいまのままのほうが賛成である。

幹部や自衛隊員は不満だろうが、
日かげものめいた、継子扱いのような自衛隊の位置が、
かえって社会の正常な発展からいくとのぞましいわけである。

何となれば、日本はあまりにも過去の、
軍国主義の悪しき遺産が多すぎるのである。

負債は返却しつくされていない。
堕ちたZ旗をとむらう時間は、
もっとたっぷりとられなければならない。

日本はなおしばらく、
苦役の時代を堪えねばならないと思う。

あまりにも早く復権した軍事力は、
外国から色メガネで見られても仕方がないと思う。

過去の亡霊はいまだに尾を曳き、
東南アジアや中国の土地のそこここにこびりついているのに、
日本の中で、自衛隊に大きな場を与えることはできない。

まして海外派兵とは言語道断であろう。
もしそれが自衛隊を動かすトップ、
(この場合は自衛隊自身のトップではなく、国防会議や内閣である)
の本音であるならば、
我々は自衛隊を持つこと自体、
断固拒否すべきである。

それから歴史は再びくり返すものであり、
あめが下にも新しきものなし、
と信じている私にしてみれば、
再び天皇と右翼と軍隊が結びつかぬとは、
どうしても保証しがたい気がする。

我々はその通路をたつべく、
たえず見張るべきだと思う。

最後に、率直に私の意見をいうならば、
私は一切の武器をもつことに反対であり、
戦うことに反対である。

私はどんな場合でも殺すよりは殺されるほうを選びたい。

しかしながら土壇場になった場合、
本能的に苦しまぎれの抵抗をしないとは言い切れない。

生きのびようとするとき、
人は苦しまぎれの悪事をする。

そして、いま世界の大国エゴイズムは、
小国を土足で蹂躙するようなあらわな侵攻によらないまでも、
目に見えない圧力でたえず侵犯しようとする。

小国は小国なりに苦しまぎれに抵抗せずにはいられない。

もし、自衛隊の存在が許されるとすれば、
まさしくその点にしかなく、
それゆえに、私はやはり、歯切れ悪くとも、
「自衛隊」とか「警備隊」とか呼びたい。

軍隊という名はその本質に反すると思う。

舞鶴の青い海を見ながら私の考えたのは、
次のようなことだった。

「武力を保つには節操はいらないが、
節操を保つには武力がいる」

しかし、ほんとうは、
人間が人間をそこなうことは、
どんな理由があっても許されてはならないのである。






          


(了)

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