・内裏には、
猫があまた飼われている
主上は動物がお好きでいらして、
猫も犬もお可愛がりに、
なっていらっしゃる
去年の秋、
中宮が三条の宮にいらしたころ、
主上のお可愛がりになっていた、
御猫が子を産んだ
女院や左大臣(道長の君)まで、
出産祝いをさしあげられた、
という噂で、
みんなはおかしがったけれど、
その中でひときわ美しいのは、
真っ白い猫である
これが主上のただいまの、
ご愛猫である
ちゃんと五位の位もいただいて、
「命婦のおとど」
と呼ばれている
この猫には人間の乳母がついて、
彼女は「馬の命婦」という人だが、
「命婦のおとど」に、
大事にかしずいていて、
それも私たちの笑いをさそう
犬好きか、
猫好きか
その論争も、
ただいまの私たちを楽しませる
のどかな争いである
主上のご愛犬は翁丸という名で、
これは褐色のむくむく太った、
元気のよい犬、
三月三日、頭の弁は、
面白い趣向で翁丸を、
飾り立てられた
あたまには柳の枝、
青々と葉のしげる、
やわらかい枝を輪にして飾り、
そこへ桃の花を挿し、
犬の腰に帯をして、
桜の枝を挿された
私たちが縁で、
やんやの喝采をするものだから、
翁丸は犬ながらに、
得意気な面持ちで、
意気揚々と行ったり来たりする
蔵人たちがはやすと、
翁丸は頭をたかくもたげ、
一声、高らかに吠えて、
おかしくも可愛い
「少納言は犬好きなのね
犬を見る目が、
猫を見るより熱心よ」
と中宮はからかわれる
主上がことのほか、
猫好きでいらっしゃるので、
私は遠慮して、
「いえ、それはその、
猫も好きでございますが」
と言いつくろっていた
しかしほんとうは、
犬の方が好きなのだ
またこの翁丸という犬、
人なつこくて可愛くってならない
「翁丸」
というと、
犬にも犬好きの人間の心情が、
よくわかるのか、
目を輝かせて走って来、
私の指を舐めようとする
何かを期待するように、
私の顔を見つめ、
はげしく尻尾を振り、
笑う
私の目には、
まさしく笑うように見える
ふしぎに、
そんな犬の姿は、
私には則光に重なってみえる
棟世も則光も遠くへ去って、
いるのにちがいないが、
棟世は私にとって、
心の支えでこれは別物、
私がジメジメした気分で、
落ち込まないで済むのも、
棟世の存在を意識しているせい
それに比べると則光は、
はるかに犬に似ている
則光は怒るだろうが、
「翁丸、おいで!」
というと、
こけつまろびつ喜んで、
走ってくる犬は、
さながら則光のいろんなときの、
表情に似ている
私を抛って遠くへ行った則光も、
いうなら、遊び歩き、
ほっつき歩いて、
帰る主家を忘れた犬のような、
気がする
中宮がお食事を召しあがるとき、
翁丸は壺庭にちょこんと坐り、
こちらを向いて控えている
おさがりを頂くことがあるので、
期待に目を輝かせている
中宮ご自身、
「翁丸におやり」
と仰せられることがある
猫と違って犬は、
殿上できないので、
中宮ご自身で、
犬をお抱きになることはない
その日もいい日和で、
猫の「命婦のおとど」は、
簀子の端の縁で眠っていた
乳母の馬の命婦が、
「それそれ、
そんな端近でお行儀のわるい
中へお入りなさい」
といった
猫は気持ちよく寝入っていて、
動かないので何気なく、
「翁丸が来ますよ、
それ、翁丸、
命婦のおとどをおどかしておやり」
というが早いか、
翁丸は高欄をこえて吠え、
猫にとびかかった
猫の、命婦のおとどは、
おどろくまいことか、
「ギャッ!」と飛び上がって、
御簾のうちへ走り込んだのだが、
そこは主上が朝げの食膳に、
向っていらっしゃる最中の場所
主上は、
「おお、どうしたのだ?」
とおどろかれて、
おびえまどう猫を、
おんふところに入れられ、
ご機嫌を損じられた
「誰か!」
と声高く召される
蔵人の忠隆らが急いで参上すると、
「翁丸は命婦をおどした
けしからぬことだ
打ちこらしめて、
犬島へつかわせ」
忠隆らは、
「はっ」
と答えて庭へ下りようとする
「すぐにだ、
ただいますぐ、だ」
主上は性急に仰せられて、
それでもまだ、
お気持ちが癒えないので、
「大体、乳母がいけない
乳母を替えよう
お前では安心ならない
すんでのことに、
命婦は翁丸に噛みつかれ、
命を落とすところであった
乳母としての職務怠慢ではないか」
「申し訳ございません」
馬の命婦は声も出ないで、
ひれ伏したまま、
わななきつつ御前をさがる
犬島なんて・・・
町はずれの川の中州は、
犬の捨て場所になっている
翁丸がそんなところへ
忠隆たちが翁丸を追い詰めている
あわれげな声があがる
滝口の侍がつかまえたらしかった
主上の仰せには、
誰もそむくことは出来ないものの、
急転する翁丸の運命に、
私は心が冷たくなってくる
おのずと湧いてくる涙を、
人に見られまいと、
顔をそむける
人間の運命の急転には、
気強く耐えられるけれど、
犬のそれには、
不憫がかかって泣けてくる
翁丸の姿が見えなくなって、
三、四日
中宮のお食事のとき、
壺庭にちょこんと坐り、
お下がりを頂こうと、
期待に満ちた顔を見せていた、
あの可愛い姿が見られない
同じ犬好きの小弁の君などと、
私はこっそり、
「淋しいわ・・・」
と言い交わしていた
犬といっても、
勅勘を受けた罪人だから、
かばうのは主上に、
楯付くことになる・・・
ところが三、四日たった日の昼頃、
犬がしきりに鳴く
(次回へ)