むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「27」 ③

2025年01月04日 09時44分35秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・翌朝見ると、
まだその犬は柱のそばに坐っている

やや元気になったようだが、
おどおどした目つき、
泥と土にまみれたその体は、
見覚えのないもの

「明るいところで見ると、
やはり、翁丸と違うようで、
ございますねえ・・・」

私はがっかりして、
中宮に申し上げる

中宮は、
朝の御手水をお使いになり、
お化粧をなすっていられる、
ところだった

御髪をくしけずる係りの人が、
終わってさがったあと、
中宮は私に御鏡を持たせられ、
合せ鏡でごらんになる

昨日の犬は、
物憂げにこちらを見ているが、
私は翁丸のことを、
思い出さずにはいられない

「翁丸はかわいそうなことに、
なりましたのね
昨日はわたくし胸が痛んで、
物も食べられなかったほどで、
ございます
あんなにひどく打たれて、
死ぬなんて・・・
打たれているときは、
どんなに苦しかったことで、
ございましょう
来世は幸福に生まれ変りますように」

中宮は犬好きでいらっしゃるので、
私は手放しで翁丸のことを、
悲しめるのだった

と、そのとき

坐っていた迷い犬が、
ぶるぶると身を震わせて、
起き上がり、
その目から涙をこぼしはじめた

犬が泣くなんて・・・

しかし迷い犬は、
地面に涙をこぼしているのである

私ははっとして、

「お前、
それじゃ翁丸なの、
やっぱりそうなの、
翁丸なの、
夕べは怖がって、
名乗らなかったのね、
わざとだまっていたのね」

と思わず叫んだ

中宮も驚かれて犬をご覧になる

私は御鏡を置いて、

「翁丸、
翁丸なの、
お前は!」

と叫ぶと、
翁丸はひれ伏して、
尻を上げ甘え鳴きをした

翁丸はキャウン、キャウンと、
甘えて鳴く

「よかった、よかった、
それにしても、
なんとしぶとく強い犬でしょ、
また昨日はどんなに呼んでも、
知らん顔をして、
人の気持ちを押しはかったりして、
お前はほんとに賢い犬だわ」

とほめると、
また鳴く

中宮も安心してお笑いになる

いっぺんに明るい気持ち

「手当てをしてやりなさい
食べものも与えて
主上にはわたくしから、
おゆるしがおりるよう、
お取りなししますよ」

そうおっしゃる言葉が、
理解できたように、
翁丸ははげしく尻尾を振り、

(よかった!
やっぱりおれはまだ、
可愛がられていたんだ
ここの御殿の人々は、
おれが嫌いじゃなかったんだ!)

というふうに、
全身で嬉しさを表現していた

御厠人の喜びようといったら!

すぐさま犬を水で洗ってやり、
古布でていねいに拭いて、
傷口には薬草の葉をもんで、
その青汁をつけてやるやら・・・

しかし何よりの翁丸の薬は、
愛情であるらしかった

人々の同情と関心が、
自身の身にあつまったのが、
わかったとみえて、
翁丸は安堵と嬉しさに、
目を輝かせ、
垂れていた耳も再び、
得意気に反って立ち、
やっともとの翁丸の面影が、
よみがえった

中宮は、
右近の内侍をお召しになって、
こうこうとお話になる

右近のびっくりぶり、
といったら

主上つきの女房の中には、
犬好きの者も多く、
その人々が次から次へと、
翁丸を見に来て、
喜んだり笑ったり

午前中はその騒ぎで、
あわただしい

主上がその取り込みを、
お耳になさらぬはずはない

「おどろいたね
翁丸が泣いたんだって?」

と北の二の対へ、
若々しい足取りでやって来られる

「少納言が話しかけると、
涙をこぼした、
ってほんとうなのか
犬にも心があるんだね」

とお笑いになる

主上つきの女房たちが、

「来世は何に生まれ変るのかしら、
と少納言がしみじみ申しますと、
にわかに身震いして涙を、
こぼしましたそうで」

と申しあげると主上は、

「『しみじみ』に縁遠い少納言が、
いつになく『しみじみ』いったのが、
こたえたのではないか」

と仰せられる

私もおかしくなって、

「それではわたくしは、
いかにもがさつ者で、
心なしのように聞こえますが」

とわざと拗ねて、
主上に申し上げる

「主上、
こんどは少納言が、
身をかくしてはいけませんから、
どうかそうおいじめ遊ばさないで」

と中宮が取りなされ、
主上のお笑い声と、
みんなの笑い声は、
春の空にうらうらとのぼる

翁丸はその笑い声で、
主上のご勘気も解けたのを、
察するごとく、
呼ばれるとそちらへ走り、
こちらで呼ばれると、
甘え鳴きをしてこたえ、
その顔は笑いをいっぱい、
浮べているのである

「まあ、でもよかった!
それにしても翁丸、
その顔の腫れたのを、
手当てしないとね」

と私がいうと、
右衛門の君はすかさず、

「少納言さんの犬好きが、
ついに正体見破られた、
というところね
翁丸の正体を見破ったのと同時に、
あなたが猫より犬好きだってことが、
はしなくも、
暴露されたということだわ」

などと、この人、
何かいうと棘のある言い方をする

壺庭をはさんだ、
向かいの台盤所から、
この騒ぎを聞きつけて、

「何でございますって?
翁丸が帰りましたとか
見せていただきましょう」

と忠隆が来ようとするらしい

「まあ、
とんでもない
早く翁丸をお隠し」

と私は叫び、

「そんな犬はおりませんよ」

と女官たちにいわせて、
忠隆を来させないようにする

女官と忠隆は押し問答している

「お隠しになってもだめです
いつまでもお隠しになれますまい
見つけたら勅命です
もう一度打ち懲らします」

なんて、
忠隆は図に乗って声高にいい、
それはまるでこちらの、
中宮方を見下しているよう

「よしよし、もういい、
翁丸はゆるすことにする」

と主上が笑いながら仰せられ、
そのお言葉を女房が、
いそいで蔵人に伝えにいく

忠隆の声が聞こえなくなり、
やっと私たちは安心して、
大きな声で、

「翁丸、
もう大丈夫よ
お許しが下りました
元気をお出し」

というと、
翁丸は主上に向かって、
あたまを垂れ、
胸を地面にこすりつけて、
甘え鳴きをするのであった






          


(次回へ)

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