むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

10、電車のある町

2022年05月06日 08時31分21秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私の育ったのは、
大阪は福島西通りと堂島大橋の中間なので、
電車通りに面していた。

電車道を横切るときの心得を父がよく話して聞かせたが、
その頃は車が少ないので、車の危険よりも、
電車の方が怖かったものである。

現在よりももっとスピードが出ていた。

福島は今もそうであるが、
メリヤス品の製造、卸問屋、小売りが多く、
私の小学生時代にも福島小学校付近に、
たくさんあった。

昭和十年前後か、小学二、三年生だった私は、
ある時、学校前で電車道を横断するとき、
電車にはねられかけたことがある。

間近でギューッという音がして電車は一瞬止まったが、
赤い車体がおそろしく巨大にそびえていた。

もちろん運転手さんは真っ赤な顔をつき出して、
「コラッ!」と怒鳴った。

「何をしてんのや!あほ!」

道のこちらでもあちらでも人々が立ち止まって見ていた。
私は恥ずかしいので、誰の話かというような顔をして、
歩道へノコノコ上がったら、
前のメリヤス屋の店員が半身をのりだし、
あわや交通事故、という期待に満ちた顔をしていたのに、
無事に歩道へ上がった私に、ありありと失望の表情を浮かべた。

七つ八つの私には、
ふしぎにその表情の意味がつかめたのである。

私が今でも、
福島あたりのメリヤス屋に親愛感を持っているのは、
そのせいである。

そのころの電車はたしか、
電車の前に大きなアミのようなものがついていて、
私はいつも母が天ぷらを揚げる杓子を想像していたが、
私の交通事故未遂以後、
ああなるほど、あれでひかれそうになった人を、
すくいあげるのだな、と子供心に納得した。

花電車というものほど、
子供心をときめかすものはなかった。

最初におぼえているのは、
小学校一年生ぐらいだったと思う。

あとで考え合わせても何のときだったか、
よくわからないが、
先生に引率されて氏神さまにおまいりし、
表の歩道に並んでいると、
幾台も花電車が並んで通った。

車体が見えないほど飾り立て、
造花や色モールや紙で作った金色の鳥が、
きらびやかに美しく、さまざまの趣向が一台ずつ変っていて、
一台、また一台とあらわれるたびに、
大人も子供も車道をはさんだ両側から、
歓声をあげるのだった。

「明日は花電車が出るぞ」

と大人にいわれると、
もう嬉しくて嬉しくて、浮かれ気分になったものである。

家中で大切にされていた曽祖母は、
外へ出たことがなかったので、
花電車の通るときは、道に面した部屋に陣取って、
子供のように格子にしがみつき、

「ハレ、まあ!」

としわくちゃの顔をよけいしわだらけにして、
喜んでいたものだ。

あんなに素朴に喜ばれたようなパレードを、
以後、私は見たことがない。

いまは戦災で焼けたのであるが、
昭和二十年までは、私の家は残っていて、
電車道に面したモルタル塗りの建物であった。

写真館であったので、
古い人はおぼえていられるかもしれない。

夜に二階の暗い部屋にいると、
電車の架線がスパークして、
青白い光芒が折々に部屋の中へかすめて入る。

夏の宵など、家族で「ひやしあめ」を飲んだりして、
子供が「あ、いなずま!」と叫ぶが、
それは電車のせいなのだ。

涼しい感じで、思えばなつかしい風趣である。

最近、あちこち旅して、
各市の市電をよく見るが、
私はなるべく電車やバスに乗って、
その町の空気にふれたいと思い、
あてずっぽうの土地感で乗り込んでいる。

その町に電車が走っているということは、
何かしら人々の心をくつろがせるものがある。

親しみやすい、取りつきやすい、
町の生活感情をくまなく照り返しているような、
内輪の表情がある。普段着の姿がある。

大阪の路面電車も、やがて消え去るとしたら、
どんなに淋しいことであろう。

どうにか残してほしいもの・・・
ほんの数か所でも人間くさい情緒を運んでくれる、
路面電車を残しておきたい。






          

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