・私の育ったのは、
大阪は福島西通りと堂島大橋の中間なので、
電車通りに面していた。
電車道を横切るときの心得を父がよく話して聞かせたが、
その頃は車が少ないので、車の危険よりも、
電車の方が怖かったものである。
現在よりももっとスピードが出ていた。
福島は今もそうであるが、
メリヤス品の製造、卸問屋、小売りが多く、
私の小学生時代にも福島小学校付近に、
たくさんあった。
昭和十年前後か、小学二、三年生だった私は、
ある時、学校前で電車道を横断するとき、
電車にはねられかけたことがある。
間近でギューッという音がして電車は一瞬止まったが、
赤い車体がおそろしく巨大にそびえていた。
もちろん運転手さんは真っ赤な顔をつき出して、
「コラッ!」と怒鳴った。
「何をしてんのや!あほ!」
道のこちらでもあちらでも人々が立ち止まって見ていた。
私は恥ずかしいので、誰の話かというような顔をして、
歩道へノコノコ上がったら、
前のメリヤス屋の店員が半身をのりだし、
あわや交通事故、という期待に満ちた顔をしていたのに、
無事に歩道へ上がった私に、ありありと失望の表情を浮かべた。
七つ八つの私には、
ふしぎにその表情の意味がつかめたのである。
私が今でも、
福島あたりのメリヤス屋に親愛感を持っているのは、
そのせいである。
そのころの電車はたしか、
電車の前に大きなアミのようなものがついていて、
私はいつも母が天ぷらを揚げる杓子を想像していたが、
私の交通事故未遂以後、
ああなるほど、あれでひかれそうになった人を、
すくいあげるのだな、と子供心に納得した。
花電車というものほど、
子供心をときめかすものはなかった。
最初におぼえているのは、
小学校一年生ぐらいだったと思う。
あとで考え合わせても何のときだったか、
よくわからないが、
先生に引率されて氏神さまにおまいりし、
表の歩道に並んでいると、
幾台も花電車が並んで通った。
車体が見えないほど飾り立て、
造花や色モールや紙で作った金色の鳥が、
きらびやかに美しく、さまざまの趣向が一台ずつ変っていて、
一台、また一台とあらわれるたびに、
大人も子供も車道をはさんだ両側から、
歓声をあげるのだった。
「明日は花電車が出るぞ」
と大人にいわれると、
もう嬉しくて嬉しくて、浮かれ気分になったものである。
家中で大切にされていた曽祖母は、
外へ出たことがなかったので、
花電車の通るときは、道に面した部屋に陣取って、
子供のように格子にしがみつき、
「ハレ、まあ!」
としわくちゃの顔をよけいしわだらけにして、
喜んでいたものだ。
あんなに素朴に喜ばれたようなパレードを、
以後、私は見たことがない。
いまは戦災で焼けたのであるが、
昭和二十年までは、私の家は残っていて、
電車道に面したモルタル塗りの建物であった。
写真館であったので、
古い人はおぼえていられるかもしれない。
夜に二階の暗い部屋にいると、
電車の架線がスパークして、
青白い光芒が折々に部屋の中へかすめて入る。
夏の宵など、家族で「ひやしあめ」を飲んだりして、
子供が「あ、いなずま!」と叫ぶが、
それは電車のせいなのだ。
涼しい感じで、思えばなつかしい風趣である。
最近、あちこち旅して、
各市の市電をよく見るが、
私はなるべく電車やバスに乗って、
その町の空気にふれたいと思い、
あてずっぽうの土地感で乗り込んでいる。
その町に電車が走っているということは、
何かしら人々の心をくつろがせるものがある。
親しみやすい、取りつきやすい、
町の生活感情をくまなく照り返しているような、
内輪の表情がある。普段着の姿がある。
大阪の路面電車も、やがて消え去るとしたら、
どんなに淋しいことであろう。
どうにか残してほしいもの・・・
ほんの数か所でも人間くさい情緒を運んでくれる、
路面電車を残しておきたい。