むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、手習 ⑭

2024年08月11日 08時47分05秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・薫の親しい女房、小宰相も、
不思議な事情で亡くなった人のことを、
思い出していた

その女人のことではないか、
と推量するがよくわからない

「その女人は、
生きていることを、
人に知られまいと、
思うようでございます
人目を避けておりますが、
何にしても不思議な事情で、
お救けたものですから、
お話した次第でございます」

中宮は小宰相に耳打ちなさる

「もしかして、
いつかの話に出た人では?
薫の君にお知らせしたいもの」

「まことに」

小宰相もうなずく

とはいっても、
そのひとも薫も、
人に知られたくないであろう、
またたしかに本人と、
確定したわけでもない

そのままになってしまった

一品の宮も、
すっかりご回復なさったので、
僧都は横川に帰ることになった

小野の山荘へ寄ると妹尼は、
恨んだ

「罪作りなことではありませんか
こんな若い身で尼にさせてしまって
私に相談もなさらなくて、
お恨みに思います」

などというが、
すべては済んでしまったことで、
恨み甲斐もなかった

僧都は浮舟にさとす

「御法服を新しくお作りに、
なさるがよい」

僧都は、
ご祈祷のお布施をして頂いてきた、
綾や羅、絹などを浮舟に与え、

「私が生きています間は、
お世話いたしましょう
何もご心配には及びませぬ」

僧都は浮舟に教える

「こんな山奥で、
仏の道にいそしむ人生を選ばれた身は、
もはや執着も煩悩も消え、
お心は自由になられるでしょう
恨めしいこと、
ひけめに思うことももはや、
なくなられましょう
命は草木の葉の薄いように、
はかないものです」

信頼する師僧の言葉は、
浮舟の身にしみ、
心は浄福という思いで、
いっぱいになった

「わたくしは出家したのだ
望ましい言葉、
聞きたかったことを、
心ゆくまでおっしゃった」

と嬉しかった

紅葉の下を、
色さまざまの狩衣を着た、
男たちがやってくる

それは中将であった

浮舟が出家した口惜しさ、
甲斐なき恨み言の一つも言おう、
として来たのである

「紅葉が美しいですね
姫君が出家なさったのは、
いかにも恨めしいのですが、
紅葉に惹かれてまいりました」

妹尼は涙もろくなっていて、

「山里は木枯らしばかり、
姫君は世を捨てられ、
あなたのお足をとどめるすべも、
もうございません」

涙声で返した

中将はそれでも、
まだ断念しきれない

「尼すがたになられたかたを、
ひと目見られないものでしょうか」

と強く要求する

「さあ、
勤行にいそしんおられます」

少将の尼は浮舟の様子を見に、
奥へ入った

浮舟は経を読んでいた

薄鈍色の綾の表着、
紅をを帯びた黄色のうちぎを着て、
ほっそりした姿、
花やかな顔立ちに、
髪は尼そぎのゆえに、
肩の下あたりで断ち切られているが、
わずらわしいまでに、
ふさふさしている

なんと豊かな黒髪
これを断ち切った勿体なさ

(まあ、お美しいお姿!)

少将の尼は涙ぐむ

ましてや懸想している男なら、
どんなであろう

ちょっと垣間見せてあげよう、
少将の尼は襖障子の掛金の穴を、
そっと中将に教える

(こんな美女とは思わなかった)

美しい浮舟を垣間見た中将は、
呆然とする

(しかしこれほどの美女が姿を消して、
捜さない者がいるだろうか
名の知れた者の娘なら、
噂になるはず 
不思議だ・・・)

中将は自分の執心をもてあまし、

(尼になった女なら、
興がさめるものだが、
それどころかかえって風情が増して、
心をそそられる
よし、人に隠れてわがものにしよう)

なお野心は消えない

それには妹尼との間柄を、
円滑にしておく必要があった

「私は昔の妻が忘れられず、
こうしてお訪ねするのですが、
今はほかにもう一つ、
私をここへ惹きつける原因が、
加わった思いです」

妹尼は中将の熱心に、
好色心が混じっていはせぬか、
一抹の不安がある

浮舟が世俗の人ならば、
中将と結ばれることを、
願いもしたが、
出家した今は、
中将の情熱に当惑し、
あやぶんでいる

「あなたが真面目な志で、
あの人を訪ねて下さいますなら、
ほんとに嬉しいことに存じます
私のいなくなったのちのことが、
かわいそうで」

妹尼は泣いた

中将は浮舟の身元を、
妹尼の縁辺であろううと、
想像したがなお合点がいかず

「将来のお世話は、
変らずにさせて頂くつもりです
ところで姫君を捜していられる方は、
ほんとにいらっしゃらないのですか
たとえば、夫とか婚約者とか
ちょっと気になります」

「世間の人とおつきあいなさる、
お暮しなら捜す人もいるでしょうけれど、
今は世を捨てて勤行ひとすじという毎日」

と妹尼はいった






          


(次回へ)

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