むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

31、若菜(下) ⑯

2024年03月03日 08時23分01秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏ははじめて、
女三の宮の物思わしげな風情、
沈んだお顔、
何もかもその理由がわかった。

何という情けない、
忌わしいことがおきたものだ。

これが人づてに聞いたのなら、
まさか、と信じられないが、
わが手で証拠をつかんでしまった。

しかも、
宮の場合は、
それならといって、
別れることも出来ない。

知らぬ顔を通して、
今まで通り妻として、
ねんごろに待遇しなければ、
いけないのだ。

形はそうだとしても、
もはや自分には、
隔てなく宮を、
いとしむことなど、
出来はしない。

宮は特別の方である。
ご身分も高く、
自分も大切にし、
気を遣ってきた。

そんな方を盗むとは、
また、大胆不敵な男である。

(私は柏木衛門督に、
見かえられたか。
この私が)

源氏は心外であり、
不快でもある。

だがそれを顔に出すことは出来ない。

おのずと暗く重い愁いの影が、
面をくまどっていく。

苦しみながら、
源氏はある夜、
愕然と悟ってはね起きた。

(故・父院の桐壺院は、
もしや、
今の自分の苦しみのように、
私と継母・藤壺の宮のことを、
ご存じでいて、
知らぬふりをなさって、
いられたのではないか)

と。

柏木を弾劾し、
責めるべき資格が、
自分にはあるのだろうか。

さらに、
すべて知りながら、
じっと耐えて、
終生、やさしく、
いたわってくださった故・父院の、
苦悩と煩悶を自分は何十年、
気付かなかった。

今、自分がその場に立たされて、
あからさまに難詰することが、
出来るかかどうか・・・

源氏は何気ない風でいるが、
日ごとに物思いの深くなる様子を、
紫の上は見て、
別の見方で解釈していた。

(やっと命をとりとめたわたくしを、
あわれんで二條院へ、
おいでになったのだけれど、
やはりあちらの宮さまが、
ご心配なのだ)

と思った。

「どうぞ、あちらへ、
いらして下さいまし」

紫の上は、
源氏にやさしくすすめる。

「わたくしはもう、
すっかり快くなりました。
六條院の宮さまこそ、
お具合が悪いと、
承っております」

源氏は、

「六條院へ帰るときは、
あなたと一緒に帰ろう。
そこでゆっくり養生すればいい」

というが、
紫の上は源氏の口調に隠された、
苦みには気がつかなかった。

「わたくしはも少しこちらで、
のんびりさせて下さいまし。
あなたはひと足先に、
お帰りになって、
宮さまのお気持ちを、
晴れさせてあげて下さいまし」

などといっているうちに、
日はまたたくうちに、
過ぎてゆく。

宮は、
源氏が来ない日が重なるのを、
以前なら源氏の薄情から、
とばかり考えていらしたが、
今は、
自分の過失のせいと、
お気付きになる。

(御父院、朱雀院の、
お耳に入ったら、
どうお思いになるかしら)

とお考えになると、
さすがに顔向けも、
ならぬように思われる。

柏木からは、
逢いたいという手紙が来るが、
小侍従はあれ以来、
それどころではなかった。

「お文が源氏の院のお手に、
入りましたのよ」

こうこうこういうわけで、
と柏木に知らせると、
彼もぎょっとした。

まして、
ああもはっきり、
人の名も紛れなく書いた、
手紙を源氏に見られたとは。

源氏に恥ずかしく、
きまり悪く、
申し訳なく、
朝夕、暑いころだというのに、
青年は鳥肌たつ思いであった。

(思えば、
院にはよく可愛がって頂いた、
身だった。
長い年月公私にわたって、
よく目をかけて下さり、
招かれて親しくまつわった。
心から敬愛していた。
こんな大それたことをして、
院に疎まれ、
憎まれては、
どうしてお顔を合わせられよう。
かといって、
ばったり六條院へ、
出入りしなくなってしまえば、
人目もあやしまれるだろうし、
院も、さてこそ、と、
合点なさるだろう・・・)

青年は進退に窮してしまい、
気分も悪くなって、
御所へも参内しない。

法的な制裁を受ける、
というのではないが、
自分の将来もこれで終わり、
と思われて情けなかった。






          


(次回へ)

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