「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、葵 ⑦

2023年08月26日 08時29分24秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・葵の上は、
急に胸がせきあげて苦しみ、
御所へ参内した人々の帰邸をまつ間もなく、
こときれたという。

邸の人々は狼狽し、
泣きさわいで、
うろうろするばかりだった。

比叡山の座主や、
聖たちを呼ぶことも出来ない。

もう大丈夫だろう、
と油断していた時に、
こんなことになったので、
みなみな悲しみに取り乱し、
邸のうちには慟哭の声が満ちた。

悲しみのあまり、
源氏も呆けたようになり、
浮世がうとましく、
あちこちからの弔問にも、
もの憂く味気ないばかりだった。

父の桐壺院も嘆かれて、
弔問の従者をつかわされた。

左大臣はなおも、

「生き返るかもしれない・・・」

と親心の闇は尽きるときなく、
葬送を見合わされていたが、
いつまで待ってもせんないことであった。

ついに鳥辺野に送った。

会葬の人々、
寺々の僧などで、
さしも広い鳥辺野は埋まった。

源氏は秋の有明の野に、
じっと立ち尽くしている。

彼の耳には、
まだ妻の最後の声が聞こえている。

源氏は深い悔恨にうちのめされていた。

(そのうちには、
とのんびりかまえて、
妻の心を解く努力もしないうちに、
彼女は亡き人になってしまった)

思い続けると、
源氏は辛くてたまらなかった。

ひまなく唇から洩れるのは、
しのびやかな経である。

小さな若宮を見ても、
源氏は涙ぐまれてならない。

それにしても、
この忘れ形見があることが、
今はせめてものなぐさ慰めだった。

左大臣は、

「こんな老齢になって、
若い者に先立たれて悲しい目をみようとは」

と涙にくれ、
まして母君の大宮は、
悲しみに沈んで起き上がることも、
お出来にならず、
お命もおぼつかなく見えた。

はかなく日はたってゆく。

七日ごとの法事も、
悲しいかぎりであった。

源氏は自邸の二條院にも帰らなかった。

紫の姫君が淋しがっているだろうと思ったが、
亡き妻に心淋しい日を送らせた、
自分ばかりが責められて、
今は仏への勤行にあけくれていた。

源氏は小さな忘れ形見がなければ、
出家したいと思うほどだった。

人との別れはいつも悲しいものを、
折しも秋のこととて、
思いはいっそう断ち切り難い。

ならわぬ一人寝の床に、
霧の中から文が届けられた。

咲きかけの菊の枝に、
喪の色の青鈍の紙をむすんである。

(心にくい文を・・・誰だろう?)

手にとってみると、
かの御息所の筆跡だった。

<人の世をあはれと聞くも露けきに
おくるる袖を思ひこそやれ>

(愛する人に先立たれたあなたのお悲しみは、
どんなでしょう)

というしらじらしい弔問が、
源氏にはうとましく思えた。

御息所の生霊が、
葵の上の命を縮めたということは、
源氏の密かな確信になっている。

御息所の怖ろしい本性を見た、
という事実を源氏は忘れないのである。

さりとて、
このままふっつりと交際を断つのも残酷だし、
あの高雅な女人の名誉を傷つけることにもなる、
と源氏は思い乱れた。

御息所の姫宮の斎宮は、
御潔斎のため左衛門の司にお入りになっている。

それゆえ、
喪でけがれたこちらからは、
御息所に返事をするわけにいかない。

しかし返事をしないのも、
つれないことだと源氏は思い返し、
紫の鈍色の紙にしたためた。

「長くご無沙汰しました。
いつもあなたのことは忘れていないのですが、
何分、この日頃、喪に服しておりますこととて。

<とまる身も消えしも同じ露の世に
心置くらん程ぞはかなき>

(生き残ったこの身も、
死んだ者も、
同じ露のような存在なのです。
どうかいちずに思いこまれませんように。
執念も憎しみもさらりとお忘れ下さい)」

御息所は源氏の返事を読んで、
胸をつかれた。

源氏がやはり、
御息所の生霊を悟っていたのだ。

御息所は、
わが身の呪われた宿命を責めているだけに、
源氏にいわれるとなおさら辛く、
心苦しかった。






          


(次回へ)

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