むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

8、 賢木(さかき) ①

2023年08月31日 07時32分36秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・六條御息所の娘は、
帝の代替りによって、
新斎宮となり伊勢下りが近くなった。

それにつけて、
母君である御息所の心細さが増すのであった。

世間では、
左大臣家の源氏の正妻・葵の上亡きいま、
御息所こそ、源氏の北の方よと噂し、
邸に仕える人々も心ときめかせていたのに、
却って源氏の訪れは絶えてしまった。

余人は知らず、御息所自身、
源氏が冷たくなった原因を知っている。

それで、未練を断ち切って、
伊勢へ下ってしまいたかった。

源氏の方では、
いよいよ御息所が去るとなると、
平静でいられない。

手紙を送るが、
御息所は返事もせず、
逢いもすまいと心に決めていた。

逢えばまた心が乱れるのは、
わかっていた。

御息所の住まいしている野の宮は、
神事のための潔斎の宮で、
けがれを忌むところだから、
男がたずねて行くような場所ではなく、
源氏も気にかかりつつ、
そのままになっていた。

それに近ごろ、
父君の桐壺院がご健康をそこねられて、
源氏も心休まらない。

そんなこんなで、
日は過ぎてゆく。

しかし、御息所がいとおしい。
足は重いが、野の宮を訪れることにした。

九月七日の頃なので、
伊勢下向は今日明日に迫っている。

青年の、

「ちょっとだけでもお目にかかりたいのです」

という手紙にはやはり迷った。

御簾をへだてて逢おうと思う。
これで最後、
これであの人ともお別れ。

そう思い決めた。

源氏が広々とした嵯峨野に分け入ると、
秋のあわれは野にみちていた。

花はすでに散り、
浅茅の原も枯れ枯れに、
途絶えがちの虫の音、
松風の音も荒々しい。

源氏は少ない供人に、
忍び姿の外出だったが、
心を用いた装いで、
それは秋深い野の景色に似つかわしい。

野の宮は、
小柴垣をかこいにして、
板葺きの家があちこちに建っている。

黒木の鳥居も神々しく、
神官たちがたむろしているのも、
神域らしい。

神にささげる供物のための、
神聖な火を守る火焼屋のみ、
ぽっと明るい。

女のもとへ忍んできた身には、
気の負ける思いである。

こんな淋しいところに、
あの人は物思わしい日を送っていたのかと、
源氏はあわれで、
胸がしめつけられた。

北の対に身をひそめておとなうと、
女房たちのひそやかな衣ずれの気配がした。

御息所は女房たちを取り次ぎにして、
自分は会おうとしない。

源氏は語気を強めた。

「今の私の身の上では、
世間へのはばかりもあって、
こういう忍び歩きは出来ないのです。
それを無理してやって参りました。
どうかよそよそしいお扱いはなさらず、
直接お目にかからせて下さい。
今宵こそ、日頃の思いを、
お話したいのです」

源氏の真面目で思い迫った態度に、
女房たちも心打たれた。

「ほんとうに、
大将の君を、
ああして外にお立たせするなんて、
お気の毒でございます」

御息所はまだ迷っていた。

この野の宮では人目も多く、
また斎宮であるわが娘にも思惑があり、
年甲斐もなく、
若い恋人を引き入れたと思われはせぬか、
という気恥ずかしさ、
さりとてつれなくあしらうことも出来ない。

なげきつつ、
ためらいつつ、
ため息をつきつつ、
静かに膝をすすめる御息所のたたずまいは、
源氏にとって魅力的だった。

花やかな夕月夜となった。
しかし二人の恋人は、
胸せまってものが言えなかった。

青年は、
折って手に持っていた榊の枝を、
御簾の下に差し入れた。

「この榊の葉の色のように、
私の心は変っていません。
だからこそ、
こうして神聖な場所もはばからず、
訪ねてきたのだ。
それをあなたは冷たくあしらわれる」

「榊は神さまの木ですわ。
あだめいてお手折りなさるなんて・・・」

御息所はつぶやいた。

野の宮の雰囲気は、
神事の場所だけに重々しく、
源氏は気押されつつも、
御簾の中へ身を入れた。

久しぶりの逢瀬は、
青年の心を昔に引き戻した。

思えば、
青年が欲するときに、
御息所に逢うことができ、
御息所が彼をより深く愛していたときは、
彼女の愛に慢心して、
かえりみなかった。

そうして、
彼女のすさましい嫉妬や怨念の本性を、
かいま見てからは心冷えて、
青年は離れていった。

しかし今、
こうして向き合ってみると、
昔の愛が立ち戻ってくる。

この年上の恋人の、
深い愛に気づかず、
それに狎れ、
心おごった日のことが、
くやしく思いだされる。






          



(次回へ)

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