<もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに 知る人もなし>
(都では春も逝ったというのに
この奥深い山中では
可憐な山桜がひっそりと
人に知られず咲いているではないか
桜よ 桜
おれもひとりだ
天地寂寞の山中
おまえよりほかに
なつかしむものはない
もろともに
いとしみ合おうよ)
・『金葉集』巻九・雑にある。
詞書に、
「大峰にておもひかけず
桜の花の咲きたるけるをみてよめる 僧正行尊」
として出ている。
大峰山は大和は吉野の主峰、
修験道の聖地で、今も女人禁制である。
行尊(1057~1135)は、
三条天皇の皇子・小一条院敦明親王の孫である。
敦明親王は後一条天皇の御代、
皇太子であったが、道長の圧迫で、
辞して小一条院となられた。
保身に汲々たる弱気な人であったが、
悲劇のプリンスにはちがいない。
その子、源基平の三男が行尊である。
十歳で父を失い、
十二歳、近江の園城寺で出家する。
十七歳で寺を出て、
諸国を修行してまわった。
山伏修験者としてほまれ高い。
白河・鳥羽・崇徳、三帝の護持僧として、
朝野の尊崇篤かった。
のち、延暦寺の座主、大僧正となった。
護持僧というのは、
加持祈祷によって病や災難を癒し、
祓うものである。
ところで大峰山の修験道というのは、
ずいぶん古い。
仏教公伝前の、
民間レベルでの大陸交流から、
密教や陰陽道が日本へもたらされ、
これが日本古来の民族宗教と融合して、
修験道をつくりあげたと推定される。
それはおそろしい荒行で、
断崖絶壁をのぞかせられるやら、
道なき崖をよじのぼり、
はいずり下ろされるやら、
しかし命がけの精進の甲斐あって、
帰ってきた男たちはすがすがしい顔つきで、
荒行の話をするのであった。
行尊は大峰の峰々を踏破して、
死にものぐるいの苦行を続けていた。
そういう修験者が、一瞬見た、桜の花。
それは美しく典雅で、
生きるよろこび、生の肯定そのものであった。
それに感動する行尊は、
なかなかすじのいい坊さんであったと思われる。
(次回へ)