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・エレベーターを待つ間も、
夫人はしゃべり続ける
「お一人住まいですと、
心細くおなりになることは、
ございませんか、
娘が気が利かないものですから、
行き届かずに、
お気に召さないと存じますけど、
どうぞ何でもどしどし、
叱って教えてやってくださいませ
まあ、年とったお姑さまを、
一人で住まわせて、
娘たちも何を考えているんでしょう
申し訳ございませんわ
お姑さまのお気持ちを思うと、
私、何と申しあげていいか、
いえ、わかります
おっしゃりたいことも、
色々おありでしょう
毎日さぞお淋しいことでしょうねえ
私がお近くでしたら、
毎日でもお伺いして、
おなぐさめしたいのですけど・・・」
(黙れ、黙れ、このすかたん婆
こんなおしゃべり婆に毎日来られたら、
上ったりだ)
おまけに四十過ぎた嫁に、
どしどし叱ってやれるものかどうか、
考えてみるがよい
「いえ、私はもう、
一人が気楽でいいもんですから」
と私は努力していう
このおしゃべり婆の出現で、
今日はパーになってしまった
今日はお習字をしようと、
思っていたのだ
この前、
いい筆と紙が手に入ったので、
墨を物色していたが、
昨日、青墨のいいのが入ったからと、
「ふでや」の若い衆が持ってきてくれた
さっそくためしたくて、
私はうずうずしていたところ
日本趣味はいやといっても、
これは別である
お花仲間の竹下夫人同様、
なぜ老婦人は私を退屈させるのであろう
これは家庭婦人のせいか、
とも思うが、
しかし仕事を持っているからといって、
話が面白いとも限らない
仕事を持って年食った婆さんは、
いよいよ独断偏見、傍若無人、
専横僭越になるもんである
そこへくると、
男の方が面白いことが多い
私は多分に男性的要素が、
あるのかもしれないが、
男は年寄りになっても、
カラッとして面白い人が多い
この間、
私は元番頭の前沢を、
奈良の老人ホームに見舞いに行った
前沢番頭は私と共に、
会社の危機、人生の危機を、
乗り越えてくれた仲間である
私より若いのだが、
十年ほど前に奥さんを亡くし、
一人息子は東京で所帯を持っているので、
今は有料ホームへ入っている
私はこの番頭に、
退職金もうんと弾んだつもりである
今は老けて、
私より若いのに年上に見えるが、
まだ元気である
二上山が見える、
のんびりした奈良の郊外で、
景色のよいホームで暮らして、
「命が延びた気ぃします」
と喜んでいた
息子は一年に一度くらい、
会いにくるといい、
そのとき孫を見るのが、
楽しみだそうである
手先の器用な人で、
あけびの蔓で籠など編む、
内職をしていた
じっとしているのが嫌いらしい
籠を編んでいないときは、
石を磨いている
梅花石というのだそうだ
石の台も見事に作って、
楽しそうであった
私が持っていった、
料理屋の松花堂弁当をよろこんで、
少しばかりの酒をあたため、
二人で宴会をする
そうして出て来る話題は、
もはや貸借対照表や、
税理士との打ち合わせ、
銀行で割ってもらう手形や、
社員のボーナスの捻出について、
などではない
まして、
同じことばかりくり返す、
死ぬほど退屈な無駄な虚礼の挨拶など、
ではない
また前沢が私を呼ぶのも、
「専務さん」ではなく、
「奥さん」になっている
私と前沢番頭は、
いうなら戦友同士であって、
いまは退役仲間である
なつかしい
前沢は昔の話をする
しかしそれは私には、
はじめて聞く話である
前沢は勤めているあいだは、
決してそういう話をしなかった
「ワタエは、
死んだ女房は田舎から貰いましてごあす」
「あんた、岡山でしたなあ」
「へえ
もう五十年前になりまんなあ
女房は西洋風にいうたら、
金婚式待たんと、
死によりましたけど・・・
ウチの村には若集宿、
いうのがおまして、
独りもんは夜、
そこへ集まります
ワタエは早うから、
大阪へ丁稚に行ったもんやさかい、
婚礼するいうて国へ帰ったら、
その晩から若集宿へ泊まらされました
先輩が初夜の心得を、
教えるのでござりま
ワタエ、
大阪でそらちょっとは遊んでますけど、
そんなん商売女でっしゃろ、
素人は初めてでごあすがな」
前沢は酒に弱いので、
猪口に三杯くらいで赤くなっている
そうして、
ボツボツしゃべる
そして気持ちよく笑える
愚痴も自慢も昔の回顧趣味もない
前沢としゃべっているのは、
細木老人よりは面白く、
かつ、嫁の母親たちや竹下夫人、
なんかとしゃべるよりも、
はるかに楽しい
前沢はバスの停留所まで送ってくれた
その途中、ちょっとよろけて、
私が支えてやらなければ、
膝をつくところであった
「この頃、
ときどきこないして、
足ももつれますねん」
「あんた、
私より五つも若いやないの、
元気出さな」
「へえ
しかし奥さんは、
お元気でよろしごあんなあ
いつまでもお達者できれいで、
とうないお若う見えはります
結構なことでごあすわ」
前沢の言葉には、
古い船場言葉がまじっている
それも私にはなつかしいものである
しかも私をほめたたえ、
いい気持にさせてくれる
女はいくつになっても、
ほめられたいものである
だから前沢を見舞いに訪れるときは、
いそいそしているが、
嫁のお袋なんてのは、
逃げ出したくなるのである
女や婆さんは、
決して他の同性をほめないし、
死ぬほど私を退屈させる
そういうわけで、
私はうんざりするこの縁者を、
エレベーターにやっと乗せ、
うやうやしくお辞儀したものの、
内心は足で蹴りこむ思いであった
ホッとして、
私は廊下を折れ曲がり、
階段に近い私の部屋へ戻った
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