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・まだその時期でないので、
左大臣邸の人々が油断していると、
にわかに葵の上は産気づいた。
邸内にはいよいよ祈祷の声が高くなる。
しかし葵の上についている、
執念深い物の怪は一向に離れない。
こんなことは珍しい、と、
修験者たちもいっそう力をこめて祈ると、
やっと調伏されたのか、
辛そうな泣き声をあげ、
葵の上の口を借りて、
「少し祈祷をゆるめて下さい。
源氏の君に申し上げたいことがございます」
といった。
やっぱり何かわけのある物の怪だろうと、
人々は葵の上の臥床に近い、
几帳のうちへ源氏を入れた。
まるで最期のような葵の上の様子なので、
源氏に言い置くこともあるのだろうと、
父の左大臣も母宮も席をはずされた。
葵の上は苦し気に臥していた。
出産のときの習わしで、
白一色の衣装に着替えているが、
頬が上気して薄紅に美しく、
黒髪は一つに引き結んで、
着物の横に添えてある。
こういう、
うちとけたくつろいだ姿でいてこそ、
この人は愛らしく艶に見える、
と源氏は思った。
葵の上は、
もしやこと切れるのではないか、
と思うと源氏の目に涙が浮かんだ。
「気をたしかに・・
私に悲しい思いをさせないでくれ」
妻の手を取ると、
ふだんは打ち解けず視線をそらすばかりの妻が、
ひたと源氏を見て、
ほろほろと涙を流す。
残してゆく親のことを思うのか、
また、自分と夫婦の縁の浅かったことを、
名残り惜しく思うのかと源氏は悲しかった。
「思いつめてはいけない。
いまによくなる。
大丈夫だ、病ではないのだから、
負けてはいけないよ」
源氏は力づけるように、
手をにぎりしめてささやいた。
「私がついているから、
どんなことになっても、夫婦は夫婦だ。
みんなあなたを愛してる・・・
安心して病に勝とう・・・いいね」
となぐさめると、
葵の上は深々と息を吸い込み、
細い声でゆっくりいった。
「いいえ、そのことではございません。
あまり調伏がきつうございますので、
しばらくお祈りをやめて頂こうと、
お願いしたかったのです。
こんなところへ迷ってくるなんて、
思いもかけぬことでした。
物思う人の魂は、
現し身をはなれて宙を飛ぶ、
ということはあるのでございますね」
なつかしそうに、
<嘆きわび 空にみだるるわが魂を
結びとどめよ 下がひのつま>
という声、その様子、
それは全く妻ではない。
みるみる御息所の変貌してゆく。
源氏を見つめてにっこりほほ笑むさま、
かの御息所その人である。
源氏は総身に水を浴びたようにぞっとした。
「あなたはどなただ。
私には判らぬ。
名をいわれよ」
と源氏がいうと、
「申し上げるまでもございますまい。
おわかりでいらっしゃるくせに・・・」
という声も顔も、
もはやまがう方なき御息所であった。
源氏にあるのは、
今は、御息所に対する恐怖と嫌悪の念のみ。
源氏は戦慄した。
まるで縛られたように身が動かなかった。
どれほどの時間が経ったものか、
それとも一瞬のことか、
几帳の外では、
「いかがなされました」
と女房の声がする。
御息所の顔になった妻を見せたくない、
と源氏は胸がとどろいたが、
面影はいつか消えて、
葵の上がそこにいた。
几帳のうちの声がやんだので、
「少しお楽になられたのかしら」
母宮が産湯を持って来られ、
女房たちが抱き起した。
と、まもなくお産が始まった。
男君だった。
「よかった、よかった」
両親も源氏も、
嬉しさは限りなく、
邸内にはいっぺんに喜びの声がどよめいた。
ある限りの願を立てたせいか、
後産も平らかに終わったので、
比叡山の座主や名僧たちも、
ほっとして邸を退出した。
両親も源氏も、
邸の人々もやっと胸をなでおろした。
桐壺院をはじめ、
親王たち、上達部から贈られた、
産養いのお祝いが並んだ。
男君なので、
作法がさまざまあり、
みんなはめでたく酔った。
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(次回へ)