「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

5、葵 ⑤

2023年08月24日 08時24分47秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・まだその時期でないので、
左大臣邸の人々が油断していると、
にわかに葵の上は産気づいた。

邸内にはいよいよ祈祷の声が高くなる。

しかし葵の上についている、
執念深い物の怪は一向に離れない。

こんなことは珍しい、と、
修験者たちもいっそう力をこめて祈ると、
やっと調伏されたのか、
辛そうな泣き声をあげ、
葵の上の口を借りて、

「少し祈祷をゆるめて下さい。
源氏の君に申し上げたいことがございます」

といった。

やっぱり何かわけのある物の怪だろうと、
人々は葵の上の臥床に近い、
几帳のうちへ源氏を入れた。

まるで最期のような葵の上の様子なので、
源氏に言い置くこともあるのだろうと、
父の左大臣も母宮も席をはずされた。

葵の上は苦し気に臥していた。

出産のときの習わしで、
白一色の衣装に着替えているが、
頬が上気して薄紅に美しく、
黒髪は一つに引き結んで、
着物の横に添えてある。

こういう、
うちとけたくつろいだ姿でいてこそ、
この人は愛らしく艶に見える、
と源氏は思った。

葵の上は、
もしやこと切れるのではないか、
と思うと源氏の目に涙が浮かんだ。

「気をたしかに・・
私に悲しい思いをさせないでくれ」

妻の手を取ると、
ふだんは打ち解けず視線をそらすばかりの妻が、
ひたと源氏を見て、
ほろほろと涙を流す。

残してゆく親のことを思うのか、
また、自分と夫婦の縁の浅かったことを、
名残り惜しく思うのかと源氏は悲しかった。

「思いつめてはいけない。
いまによくなる。
大丈夫だ、病ではないのだから、
負けてはいけないよ」

源氏は力づけるように、
手をにぎりしめてささやいた。

「私がついているから、
どんなことになっても、夫婦は夫婦だ。
みんなあなたを愛してる・・・
安心して病に勝とう・・・いいね」

となぐさめると、
葵の上は深々と息を吸い込み、
細い声でゆっくりいった。

「いいえ、そのことではございません。
あまり調伏がきつうございますので、
しばらくお祈りをやめて頂こうと、
お願いしたかったのです。
こんなところへ迷ってくるなんて、
思いもかけぬことでした。
物思う人の魂は、
現し身をはなれて宙を飛ぶ、
ということはあるのでございますね」

なつかしそうに、

<嘆きわび 空にみだるるわが魂を
結びとどめよ 下がひのつま>

という声、その様子、
それは全く妻ではない。

みるみる御息所の変貌してゆく。

源氏を見つめてにっこりほほ笑むさま、
かの御息所その人である。

源氏は総身に水を浴びたようにぞっとした。

「あなたはどなただ。
私には判らぬ。
名をいわれよ」

と源氏がいうと、

「申し上げるまでもございますまい。
おわかりでいらっしゃるくせに・・・」

という声も顔も、
もはやまがう方なき御息所であった。

源氏にあるのは、
今は、御息所に対する恐怖と嫌悪の念のみ。

源氏は戦慄した。
まるで縛られたように身が動かなかった。

どれほどの時間が経ったものか、
それとも一瞬のことか、
几帳の外では、

「いかがなされました」

と女房の声がする。

御息所の顔になった妻を見せたくない、
と源氏は胸がとどろいたが、
面影はいつか消えて、
葵の上がそこにいた。

几帳のうちの声がやんだので、

「少しお楽になられたのかしら」

母宮が産湯を持って来られ、
女房たちが抱き起した。

と、まもなくお産が始まった。
男君だった。

「よかった、よかった」

両親も源氏も、
嬉しさは限りなく、
邸内にはいっぺんに喜びの声がどよめいた。

ある限りの願を立てたせいか、
後産も平らかに終わったので、
比叡山の座主や名僧たちも、
ほっとして邸を退出した。

両親も源氏も、
邸の人々もやっと胸をなでおろした。

桐壺院をはじめ、
親王たち、上達部から贈られた、
産養いのお祝いが並んだ。

男君なので、
作法がさまざまあり、
みんなはめでたく酔った。






          


(次回へ)

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