むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

7、葵 ③ 

2023年08月22日 15時35分46秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・日が高くなって出かけたので、
もうすき間もなく物見車が並んでいて、
何輌もの車を連ねてきた、
左大臣家の一行は場所がなかった。

やっと、身分ありげな女房車のあたり、
その辺の車をのけさせることにした。

その中にのかぬ車があった。

少し古びた網代車の、
しかし下すだれの上品なさま、
内なる人は奥に引きこもって、
ほのかに袖口や裾などの、
清らかな色がこぼれて見えるだけ。

その車の供は権高に、

「手を触れるな。
このお車は、のけさせてよいものではない。
無礼を働くな」

頑としてのかない。

そのよしありげな車の主は、
誰あろう、六条御息所なのだった。

物思いのなぐさめにもと、
思い立って忍んで来たのだが、
左大臣家の従者たちにもわかってしまった。

左大臣家の供人の中には、
源氏の家人もまじっているので、
御息所を気の毒に思ったが、
しかし葵の上は源氏の正妻であり、
どちらにつくこともできない。

とうとう左大臣家の供人は、
車を何台もたてならべてしまったので、
御息所の車はうしろへ押しやられてしまった。

それも残念だが、
御息所はわが忍び姿を見あらわされたことが、
悔しくてならない。

聞くまいとしても、
向こうの従者の心無いののしり声は、
耳に入った。

左大臣家ではあんな卑しい下々の者までが、
正妻であることを鼻にかけて、
わが身を数ある情人の一人と思い、
貶めているのだ。

御息所は悔しさとせつなさで、
身も震えるばかり。

車の轅を据える台も、
みなへし折られてしまって、
みっともないことだった。

高雅な趣味人の御息所とすれば、
堪えがたい恥ずかしさである。

もう行列は見ないで帰ろうとしたが、
車の抜け出るひまもなく、
そのうち、

「来たぞ、来たぞ」

人々のどよめきが渡ってくる。

さすがに「にくいあの男」の姿を、
ひと目見ようと待たれるのも、
恋する身の弱さであった。

源氏は、
後方に押しやられている御息所の車など、
むろん気づかないから、
つれなく過ぎてゆく。

源氏はそ知らぬ顔をして去ってゆく。

しかし、左大臣家の一行はわかるので、
源氏はまじめに重々しく通ってゆく。

供人たちは葵の上の車の前は、
かしこまって敬意を表しつつ、
過ぎてゆく。

御息所はそれを見るにつけても、
屈辱感に心は蝕まれる。

折しも、
式部卿の宮が朝顔の姫君と共に、
桟敷から行列をご覧になっていらした。

「あの源氏の大将の君は、
そなたに思いをかけて文をよこすと聞くが・・・
こんな美しい公達ぶりを見ては、
物堅いそなたの心も、
とけるのではないか」

「長年、お文をお寄せ下さるまめやかさも、
もったいのう存じますが、
でも、わたくしはそれゆえにこそ、
あの方と現し身の上で、
愛を契ったりするのは避けよう、
と決心いたしました。
こんな男女の愛もあるのです・・・
わたくしは充分、
あの方と愛を交わし合っています。
お文のやりとりで・・・
わたくしは生涯、
それを貫きとうございます」

朝顔の姫君は、
静かに父宮にそう答え、
聡明な澄んだ瞳を、
去りゆく源氏の行列にあてていた。

源氏は、
車争いの一件を従者の一人から聞いて、
御息所を気の毒にいとおしくも思った。

それにしても、
葵の上も、あまりに思いやりが、
足らぬではないか、
と源氏は不満に思った。

重々しい身分の貴婦人でありながら、
やさしい情愛に欠け、
自身は悪意はないのに、
結果として御息所に思いがけぬ屈辱を、
与えることになってしまった。

夫にゆかりある婦人、
と思えば、さりげなくいたわり、
思いやりをわかちあうべきであろうものを。

葵の上は、
そこまで人柄が練れていないので、
心くばりが冷たく、
それにならって下々の者まで、
御息所に狼藉を働いたにちがいない。

御息所は繊細で、
傷つきやすい感受性の、
たしなみふかい女人なので、
どんなに辛い思いをしただろうと、
源氏は同情した。

さっそく六條邸を訪れたが、

「斎宮がまだ邸にいられますので、
神へのはばかりもございますれば」

ということで、
御息所は会うのを拒んだ。

その気持ちもわからなくはないが・・・

(なんだってまた、
こうも気むずかしい女が多いのだ。
どちらもこちらも、
かどの多い女ばかり・・・)

源氏はむなしく帰る車の中で、
嘆息が出るばかり。






          


(次回へ)

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