「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、葵 ④

2023年08月23日 09時03分54秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・六條御息所はあけくれ、
物思いが深まってゆく。

ことにうとましいのは、
この頃、ふわふわとわが心が、
身から離れていってしまうような、
おぼつかなさであった。

御息所はそれを、
物思いがこうじての病のせいと思った。

葵の上には物の怪がとりついて、
苦しんでいるのを左大臣邸では心配していた。

熟練した修験者たちが熱心に祈祷するが、
さまざまの物の怪は、
執念部深くとりついて離れない。

葵の上はその物の怪に苦しめられ、
しくしくと泣いているので、
どうなることかと、
両親も邸の者たちも恐れ、
狼狽している。

源氏もさすがに妻のことなので、
気づかいもただならず、
ことに懐妊中という大事な身ゆえ、
気がかりで御修法をさせたりしていた。

桐壺院からもお見舞いがひまなくあって、
お心にかけて下さる。

世間の人々も葵の上の病を案じ、
関心を寄せた。

六條御息所はそれを聞くにつけても、
ただならぬ嫉妬と憎悪に心は燃えた。

今までは葵の上に対して競争心はなかった。

だが、あの車争いという、
ごくささやかな事件が引き金となって、
御息所の胸の業火は、
一気に燃え上がったのだった。

左大臣邸の人々は、
まさか、そんなことになっていようとは、
夢にも思っていなかった。

源氏は、御息所が病に臥し、
娘の斎宮をはばかって、
別邸に移り、
ひっそりと静養していると聞いた。

そちらも気になるので、
見舞いに出かけてみると、
御息所はふだんでも口少なの女なのが、
いっそうやつれて、
うち沈んでいた。

それを見ると、
源氏もしみじみと、
この女がいとしくなる。

「あなたのことは忘れたことはない。
誓って」

源氏は御息所の手を取り、
握りしめながらいう。

「そうおっしゃっても、
わたくしが伊勢へ下るのを、
お止ににはならないのでございましょう?」

源氏は一瞬、口をつぐんだが、

「私のような者に、
愛想をつかして去られぬのは尤もだ、
と思わぬわけにはいかない。
今はやっぱり、
数ならぬ私でも、
末々まで変わらぬ心でいて下さるのが、
縁というものです」

とあいまいな言い方をした。

源氏は御息所と持つ、
屈折した複雑な愛の時間を、
重苦しく感じはじめている。

どっちつかずの返事を源氏にさせるのを、
御息所はそれを直感で知った。

二人の別れを意味する伊勢行きを、
男が必死に反対してくれたら、
御息所はどんなに嬉しかろう。

また、
いさぎよく承知してくれたら、
このしぶとい煩悩からきっぱりと、
逃れられるのだ。

いっときは苦しいかもしれないけれど。

源氏のやさしさからかもしれないけれど、
そんな優柔不断な返事をされると、
迷い多い女心はよけいに迷ってしまう。

たがいに打ち解けず、
しっくりしない夜を過ごし、
未明に源氏は帰っていった。

朝霧にまぎれて帰ってゆく、
美しいの青年の姿を見ると、
御息所はまた思い乱れる。

ほんとうに彼を手放して、
遠くへ行けるのか、と。

しかし今度は、
彼の正妻で身分高い女人に、
彼のはじめての子が生まれるのだ。

どうせ都にとどまっても、
源氏の心は葵の上で占められるだろう。

葵の上の容態は重くなっていった。

物の怪がついて離れないのを、

「六條御息所の生霊か、
もしくは御息所の亡き父の霊ではあるまいか」

と世上では噂していた。

源氏と深い仲にある御息所は、
こうしたとき、
もっとも世の人の疑いを招きやすい、
立場にあった。

御息所はその噂を聞いて、
堪えられぬ思いを味わった。

彼女は、
わが身の不運を嘆きこそすれ、
人の身を悪しかれ、と呪う心など、
さらさらないつもりであった。

ねたみ憎しみこそすれ、
それを力にして、
人をそこなおうとは、
誇り高い彼女には、
思いもそめぬことであった。

しかし、御息所は不安である。

物思いがこうじると、
魂が現し身を抜け出し、
あくがれ出ると聞くけれど、
そうかもしれぬ、
とひそかに思い当たることがあった。

この年ごろ、
辛い思いはしつくしてきたけれど、
あの車争いの日からこっちのような、
惑乱はまだ知らなかった。

あの時、
葵の上にさげすまれ、
おとしめられたという屈辱感が、
御息所の心に深い刻み目をつけたせいだろうか。

うとうととまどろんでいる時の夢に、
かの葵の上とおぼしき美女が、
美しい姿でものにもたれている所へ行って、
自分がその美女を押し倒している。

夢の中の自分は、
自分であって、常の自分ではない。

美しい姫君を打ちすえたり、
黒髪をつかんで引きずりまわしたり、
胸元をつかんで烈しくゆさぶったり、
逃げようとする姫君の裾を踏んで、
引き起こし、平手打ちをする。

とうてい現実の自分のすることではなかった。
そんな夢をしばしば見た。

御息所は絶望した。
魂がわが身を離れてゆくのだろうか。

(なんという罪深い宿世のわたくしだろう。
これも、つれない男を恋した罪だ)

と源氏を思い切ろうとするが、
それは却って思いの深まさってゆくことでもあった。

斎宮は九月には野の宮にお移りになる。

その準備もさまざまあるが、
母君の御息所がこのさまなので、
邸の人々は心配してしきりに祈祷していた。

御息所はぼんやりと臥せって、
はかばかしくない病状である。

源氏は御息所も気にかかるが、
葵の上のことも気がかりで、
心の休まるときもなかった。






          


(次回へ)

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