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・六條御息所はあけくれ、
物思いが深まってゆく。
ことにうとましいのは、
この頃、ふわふわとわが心が、
身から離れていってしまうような、
おぼつかなさであった。
御息所はそれを、
物思いがこうじての病のせいと思った。
葵の上には物の怪がとりついて、
苦しんでいるのを左大臣邸では心配していた。
熟練した修験者たちが熱心に祈祷するが、
さまざまの物の怪は、
執念部深くとりついて離れない。
葵の上はその物の怪に苦しめられ、
しくしくと泣いているので、
どうなることかと、
両親も邸の者たちも恐れ、
狼狽している。
源氏もさすがに妻のことなので、
気づかいもただならず、
ことに懐妊中という大事な身ゆえ、
気がかりで御修法をさせたりしていた。
桐壺院からもお見舞いがひまなくあって、
お心にかけて下さる。
世間の人々も葵の上の病を案じ、
関心を寄せた。
六條御息所はそれを聞くにつけても、
ただならぬ嫉妬と憎悪に心は燃えた。
今までは葵の上に対して競争心はなかった。
だが、あの車争いという、
ごくささやかな事件が引き金となって、
御息所の胸の業火は、
一気に燃え上がったのだった。
左大臣邸の人々は、
まさか、そんなことになっていようとは、
夢にも思っていなかった。
源氏は、御息所が病に臥し、
娘の斎宮をはばかって、
別邸に移り、
ひっそりと静養していると聞いた。
そちらも気になるので、
見舞いに出かけてみると、
御息所はふだんでも口少なの女なのが、
いっそうやつれて、
うち沈んでいた。
それを見ると、
源氏もしみじみと、
この女がいとしくなる。
「あなたのことは忘れたことはない。
誓って」
源氏は御息所の手を取り、
握りしめながらいう。
「そうおっしゃっても、
わたくしが伊勢へ下るのを、
お止ににはならないのでございましょう?」
源氏は一瞬、口をつぐんだが、
「私のような者に、
愛想をつかして去られぬのは尤もだ、
と思わぬわけにはいかない。
今はやっぱり、
数ならぬ私でも、
末々まで変わらぬ心でいて下さるのが、
縁というものです」
とあいまいな言い方をした。
源氏は御息所と持つ、
屈折した複雑な愛の時間を、
重苦しく感じはじめている。
どっちつかずの返事を源氏にさせるのを、
御息所はそれを直感で知った。
二人の別れを意味する伊勢行きを、
男が必死に反対してくれたら、
御息所はどんなに嬉しかろう。
また、
いさぎよく承知してくれたら、
このしぶとい煩悩からきっぱりと、
逃れられるのだ。
いっときは苦しいかもしれないけれど。
源氏のやさしさからかもしれないけれど、
そんな優柔不断な返事をされると、
迷い多い女心はよけいに迷ってしまう。
たがいに打ち解けず、
しっくりしない夜を過ごし、
未明に源氏は帰っていった。
朝霧にまぎれて帰ってゆく、
美しいの青年の姿を見ると、
御息所はまた思い乱れる。
ほんとうに彼を手放して、
遠くへ行けるのか、と。
しかし今度は、
彼の正妻で身分高い女人に、
彼のはじめての子が生まれるのだ。
どうせ都にとどまっても、
源氏の心は葵の上で占められるだろう。
葵の上の容態は重くなっていった。
物の怪がついて離れないのを、
「六條御息所の生霊か、
もしくは御息所の亡き父の霊ではあるまいか」
と世上では噂していた。
源氏と深い仲にある御息所は、
こうしたとき、
もっとも世の人の疑いを招きやすい、
立場にあった。
御息所はその噂を聞いて、
堪えられぬ思いを味わった。
彼女は、
わが身の不運を嘆きこそすれ、
人の身を悪しかれ、と呪う心など、
さらさらないつもりであった。
ねたみ憎しみこそすれ、
それを力にして、
人をそこなおうとは、
誇り高い彼女には、
思いもそめぬことであった。
しかし、御息所は不安である。
物思いがこうじると、
魂が現し身を抜け出し、
あくがれ出ると聞くけれど、
そうかもしれぬ、
とひそかに思い当たることがあった。
この年ごろ、
辛い思いはしつくしてきたけれど、
あの車争いの日からこっちのような、
惑乱はまだ知らなかった。
あの時、
葵の上にさげすまれ、
おとしめられたという屈辱感が、
御息所の心に深い刻み目をつけたせいだろうか。
うとうととまどろんでいる時の夢に、
かの葵の上とおぼしき美女が、
美しい姿でものにもたれている所へ行って、
自分がその美女を押し倒している。
夢の中の自分は、
自分であって、常の自分ではない。
美しい姫君を打ちすえたり、
黒髪をつかんで引きずりまわしたり、
胸元をつかんで烈しくゆさぶったり、
逃げようとする姫君の裾を踏んで、
引き起こし、平手打ちをする。
とうてい現実の自分のすることではなかった。
そんな夢をしばしば見た。
御息所は絶望した。
魂がわが身を離れてゆくのだろうか。
(なんという罪深い宿世のわたくしだろう。
これも、つれない男を恋した罪だ)
と源氏を思い切ろうとするが、
それは却って思いの深まさってゆくことでもあった。
斎宮は九月には野の宮にお移りになる。
その準備もさまざまあるが、
母君の御息所がこのさまなので、
邸の人々は心配してしきりに祈祷していた。
御息所はぼんやりと臥せって、
はかばかしくない病状である。
源氏は御息所も気にかかるが、
葵の上のことも気がかりで、
心の休まるときもなかった。
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(次回へ)