・世の人々はどんなに嗤っているであろうか、
御息所は貴婦人としての誇りを、
踏みにじられた気がしていた。
前東宮妃という身分も名誉も地に落ちて、
泥にまみれた気がする。
(あの人ときっぱり別れて、
伊勢へ下ろうか?・・・)
(もしそうすれば、
都へ還る日はいつのことかわからない。
あの人と二度と会えないかもしれない。
わたくしはそれに堪える力があるだろうか?)
そんな時にも、
噂は伝わってくる。
「源氏の大将の北の方は、
ご懐妊だそうでございます」
「左大臣家では、
たいへんなお喜びで、
もう今から安産のご祈祷を、
はじめられているとか・・・」
ひそやかに身辺にささめく噂話は、
そのまま、心に降りつむ、
まがまがしい暗い雪のように、
御息所には感じられた。
それは御息所の恋をとじこめ、
心のすみずみまでを凍らせる。
嫉妬と愛執につかれて、
彼女は伊勢はおろか、
もっと遠い国へ行ってしまいたいと思う。
また、こういう不安定な恋だからこそ、
都を去れないと思う。
もし、源氏がほんとうに彼女を愛している、
との確信を得られたならば、
御息所は喜んで即座に都を捨てることができるのに・・・
愛されていると信じる女は、
男と別れることができるのだ。
いちばん別れにくいのは、
相手の心がつかめないときなのだ・・・
さて、ここに御息所の恋の苦しみを、
ひそかに察している女性がいた。
式部卿の宮の姫君である。
式部卿の宮は、
桐壺院や亡くなられた前東宮とは、
御同胞(ごきょうだい)でいらっしゃる。
その宮には姫君がいらして、
美女の聞こえたかい。
源氏はかねて、
式部卿の宮の姫君に懸想して、
文を届けて言い寄っていた。
美しく、心ざま深い姫君、
どうかして会いたいと思うのだった。
いつぞや朝顔の花につけて文を送ってから、
源氏はその姫を「朝顔」の姫、
と呼んでいた。
朝顔の姫君は、
いつも源氏にはさりげない返事ばかり返していた。
何かの折に、
美貌の源氏を垣間見る時は、
乙女らしい心さわぎを覚えぬではないが、
源氏の数ある恋人の一人として、
指折られるようなことは決してするまい、
と乙女らしい潔癖さで、
わが身をいましめていた。
源氏と契った女人たちが、
それぞれ苦しむさまを、
風の便りに聞くたび、
姫君は、自分はその轍を踏むまい、
と思った。
六条御息所の苦悩に同情しながら、
姫君は自分は違う人生を選ぼう、
と決心していた。
といって、
きっぱりと痛烈な返事を書いて、
源氏に恥をかかせる、
というような人柄ではなかった。
源氏の方ではそれゆえになお、
朝顔の姫君が印象深く心にのこる。
ここ幾年か、
源氏と朝顔の姫君の間には、
文通のみの、恋とも友情ともつかぬ、
一種の親愛感が通っているのであった。
そのころ、賀茂の斎院も替られて、
弘徽殿の大后の第三皇女が、
新斎院になられた。
桐壺院も大后もことのほか、
愛していられた姫君なので、
神に仕える身になられたのを、
心苦しく思われたが、
ほかに適当な内親王がいられないので、
よんどころなかった。
儀式など、ひときわ盛んに行われる。
斎院の御禊の日、
特別の勅命で源氏もお供した。
この一行の行列を見ようと、
世間の人々は物見車を出そうと、
かねて用意している。
一條大路は早くから空いたところもなく、
大混雑である。
左大臣邸の葵の上は、
もともと物見に出たりしない上に、
懐妊中で気分もすぐれず、
外出するつもりはなかったが、
若い女房たちが、
「せっかくのお殿さま(源氏)の晴れ姿を、
北の方さまがご覧にならない、
なんて残念です」
などと言うので、
母君の大宮が、
「みんなもああいうのだから、
行ってらっしゃい」
とすすめられ、
急に車の用意をいいつけて、
葵の上は出かけることになった。
(次回へ)