むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

7、葵 ②

2023年08月21日 08時40分04秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・世の人々はどんなに嗤っているであろうか、
御息所は貴婦人としての誇りを、
踏みにじられた気がしていた。

前東宮妃という身分も名誉も地に落ちて、
泥にまみれた気がする。

(あの人ときっぱり別れて、
伊勢へ下ろうか?・・・)

(もしそうすれば、
都へ還る日はいつのことかわからない。
あの人と二度と会えないかもしれない。
わたくしはそれに堪える力があるだろうか?)

そんな時にも、
噂は伝わってくる。

「源氏の大将の北の方は、
ご懐妊だそうでございます」

「左大臣家では、
たいへんなお喜びで、
もう今から安産のご祈祷を、
はじめられているとか・・・」

ひそやかに身辺にささめく噂話は、
そのまま、心に降りつむ、
まがまがしい暗い雪のように、
御息所には感じられた。

それは御息所の恋をとじこめ、
心のすみずみまでを凍らせる。

嫉妬と愛執につかれて、
彼女は伊勢はおろか、
もっと遠い国へ行ってしまいたいと思う。

また、こういう不安定な恋だからこそ、
都を去れないと思う。

もし、源氏がほんとうに彼女を愛している、
との確信を得られたならば、
御息所は喜んで即座に都を捨てることができるのに・・・

愛されていると信じる女は、
男と別れることができるのだ。

いちばん別れにくいのは、
相手の心がつかめないときなのだ・・・

さて、ここに御息所の恋の苦しみを、
ひそかに察している女性がいた。

式部卿の宮の姫君である。

式部卿の宮は、
桐壺院や亡くなられた前東宮とは、
御同胞(ごきょうだい)でいらっしゃる。

その宮には姫君がいらして、
美女の聞こえたかい。

源氏はかねて、
式部卿の宮の姫君に懸想して、
文を届けて言い寄っていた。

美しく、心ざま深い姫君、
どうかして会いたいと思うのだった。

いつぞや朝顔の花につけて文を送ってから、
源氏はその姫を「朝顔」の姫、
と呼んでいた。

朝顔の姫君は、
いつも源氏にはさりげない返事ばかり返していた。

何かの折に、
美貌の源氏を垣間見る時は、
乙女らしい心さわぎを覚えぬではないが、
源氏の数ある恋人の一人として、
指折られるようなことは決してするまい、
と乙女らしい潔癖さで、
わが身をいましめていた。

源氏と契った女人たちが、
それぞれ苦しむさまを、
風の便りに聞くたび、
姫君は、自分はその轍を踏むまい、
と思った。

六条御息所の苦悩に同情しながら、
姫君は自分は違う人生を選ぼう、
と決心していた。

といって、
きっぱりと痛烈な返事を書いて、
源氏に恥をかかせる、
というような人柄ではなかった。

源氏の方ではそれゆえになお、
朝顔の姫君が印象深く心にのこる。

ここ幾年か、
源氏と朝顔の姫君の間には、
文通のみの、恋とも友情ともつかぬ、
一種の親愛感が通っているのであった。

そのころ、賀茂の斎院も替られて、
弘徽殿の大后の第三皇女が、
新斎院になられた。

桐壺院も大后もことのほか、
愛していられた姫君なので、
神に仕える身になられたのを、
心苦しく思われたが、
ほかに適当な内親王がいられないので、
よんどころなかった。

儀式など、ひときわ盛んに行われる。

斎院の御禊の日、
特別の勅命で源氏もお供した。

この一行の行列を見ようと、
世間の人々は物見車を出そうと、
かねて用意している。

一條大路は早くから空いたところもなく、
大混雑である。

左大臣邸の葵の上は、
もともと物見に出たりしない上に、
懐妊中で気分もすぐれず、
外出するつもりはなかったが、
若い女房たちが、

「せっかくのお殿さま(源氏)の晴れ姿を、
北の方さまがご覧にならない、
なんて残念です」

などと言うので、
母君の大宮が、

「みんなもああいうのだから、
行ってらっしゃい」

とすすめられ、
急に車の用意をいいつけて、
葵の上は出かけることになった。






          


(次回へ)

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