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感想

バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

全体的に舞台な街構造

2007年07月18日 | おわら風の盆

 8月の暑い夏も終わりを告げ、時折秋風が吹きはじめる、風の盆初日に暦が変わった時間、諏訪町から上新町への縦の通路を一人の地方が胡弓1本で流していました。静寂な深夜の空気の中、胡弓の豊かな音色が両脇に建つ家のトタンの壁面に共鳴し、一際大きな音となり、響き渡っていました。また先日のおわら演技発表大会の当日、早朝に曳山会館の駐車場に車を止めたところ、エンジンの音がやはり、まわりの建物に反響し、先ほどまで止めていた静かな広々とした川原にいたときよりも遙かに大きなエンジン音がしていました。また、遠くで散歩中に世間話をしている方の話声も良く聞こえます。そのとき成る程と思ったのですが、八尾の町内はいずれも、このように音が良く響く、構造になっています。それは建物の造りや石段や狭い道路などがうまく絡み合っていることに由来していますが、それだけに八尾には、通りの数だけ劇場や舞台があり、壮大な構造の石垣とこの丘の上の劇場・舞台群が一つの大きな町並みを形成していることが分かります。もちろん意図してこういったものを造ったものではありませんが、八尾という馬の背状になっている狭い土地を巧み利用した町造りが行われたのは300年ほど前の米屋少兵衛の時代からですが、それ以来連綿を現在に至るまで改良が加えられ現在に至っています。そして11ある町内に夫々自前の公民館を持ち、各町競うように演ずるようになると、基本的には自町内での演奏・演舞が中心になることから、町のどこでも(雨さえ降らなければ)おわらが演じられるようになりましたが、またそこは前述の人工的ではあるが、人為的でない公共の通路であったり広場でもある劇場・舞台において行われるようになっています。近年のおわらブームにより、沢山の見物客が訪れるようになりましたが、そういった構造があるせいか、おわらの音色や歌声は、人込みにより音がかき消されることも多いですが、普通の都市の大きな通りで行われるよりも遥かによく聞えてきます。

 そういった意味においても、おわらは屋外で行われるのを鑑賞することが正しい見方、聴きかたであり、昼の風情ある佇まいの中での町流しや、夜の11時頃まで行われる正規行事としての総流しなど大変魅力のある演奏・演技ですが、今回の演技発表大会のように室内で行われるおわらも外で行われる正規行事よりも見る側からすると味わいが少ないようにも思っていましたが、おわら踊りそのもの優美さは室内外を問いませんし、本来は室内で弾くべき三味線・胡弓などを無理やり外に持ち出して演奏していることを考えると、正統は室内演奏に部がありそうです。

 限られた大きさの舞台の中での演技は各町内それぞれの工夫や趣向がありますが、各町内の中でもまた地方、男子、女子踊り夫々の創意工夫や修練があり、その結果の発表であるこの機会を見ることができ大変良かったと思いました。午後1時から始まり夕方の5時過ぎまで飽きることなく、また席を立つこともなくおわらを聞いていることが大変楽しかったです。

 発表大会が始まる前、町内の家の中からとても心地よい三味線の音色が聞えてきていました。しばらく聞えていた音色は歩くことにより、後ろから聞えてくるようになりましたが、遠く離れていてもいつまでも頭の後ろで三味線が鳴り響いているような気がしていました。演技発表大会中は三味線の音は前から聞えていましたが、家への帰途(約170Km)の途中ではまた後ろからの音の記憶が蘇り、音色が聞えていましたし、帰ってきた今も、思い出したように時折その音が後ろから聞えてくるような気がします。

町民広場から禅寺橋を渡り、西町のゲートをくぐり坂道を上がってくるとこの場所に到達します。 

このような狭く、壁に囲まれた道路が多く、良く音が反響し透ります。 

 井田川と西町方面

サルビア・ガラニチカ(耐寒性はそれほど強い方ではないですが、大きく育っていました)

 

※おわら演技発表大会は沢山の方が出演し、観客の方も大勢いらっしゃいますが、全部通して見る人はおわら関係者はもちろんですが、その他は変わり者か、物好き(笑)がほとんどで「家の孫や子供が出てるから見る」「よその支部は見ない」というのが一般的だと事前に教えてくださった方がいましたが、その通りでした……

※ようやくこちらの写真で演技発表会ネタは終了いたします。7月8日から10日もかかりましたが、ここまでご覧くださりありがとうございました。次はいつ行くか未定です。(風の盆はもちろん予約済みですが)

コメント (8)
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路地裏では

2007年07月18日 | おわら風の盆

 今は使われることが無くなった味噌釜を見つけました。今はもう自家醸造するお宅はほとんどありませんが、昭和20年代までは、こちらの大釜で大豆を煮て、味噌を作ります。その後各家庭で作られなくなり、隣組の共同作業として味噌玉つくりをする地域もありました。いずれにせよ、手間のかかる作業ですが、村に人が沢山いたからこそできた文化です。こちらの釜は遠目ですが、まだ使えそうでした。

そして、苔むした石段と石垣と石の暗渠。流れる水路のU字溝は比較的新しそうですが、石段と石垣はかなり古そうで、昔からこのような構造をしていたことが分かります。ここは井田川から直登する斜面の一部ですが、小さな路地まで石畳で固められています。

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