5月4日、千葉県の幕張メッセで行われた9条世界会議に行ってきました。この日はオープニングで、午後1時30分からのイベントホールでのセッションが目当てでした。のこのこと開始時間頃に幕張メッセに到着してみると、そこには長蛇の列。どうやら9条世界会議に集まってきた皆さんが、入場できず順番待ちをしているらしい。幕張メッセの真ん中よりちょっと北にあるイベントホールの入り口から、最南端の交差点をすぎるまで、距離にして300メートル以上、しかも4列縦隊くらいで並んでいらっしゃるのです。
平和のイベントに、この日本で、こんなに人が・・と、我が目を疑いました。でも事実は揺るぎようもなく、どうやら7000人収容のイベントホールに入りきれない人が3000人外に並んでいたようです。全国各地から来られた人、中には貸し切りバスで到着した団体の皆さんもいらっしゃるとか。
これはもう入れないと観念した私は、きくちゆみさんの平和省プロジェクトなどがブースを出しているコンベンション会場の方に向かいました。こちらも100を超える市民団体の展示を収容するには少し狭すぎる会場で、すでに関係者だけで熱気にあふれかえっていました。
平和関係の団体だけでなく、エコロジーや脱原発の団体もあり、あちらこちらで友人知人と久しぶりの再会を果たしました。その中でたまたまですが、新しい出会いとなったのが東京大空襲の訴訟団の皆さん。かねてより知己のKさんに出会い、促されて座ったテーブルが訴訟団の皆さんが集まられていたテーブルだったのです。
Kさん自身も東京大空襲訴訟の原告で、少しくらいの話は聞いていたのですが、何せ生まれる前の出来事、そんなに詳しくは把握していませんでした。訴訟団は、この被害の実態を調査し、被災をした人たちへの補償と救済を求めています。戦地での戦死者や軍人軍属には手厚い恩給が支給され、数十万人の原爆の被災者にも不十分ながら被爆者援護法ができています。しかし何百万人という東京大空襲の被災者は、これまで何の措置もとられず放置されてきたのです。考えてみれば、そのこと自体、何という国の無為無策であろうかと思います。
東京大空襲は1945年3月10日の東京下町の一般市民を狙った米軍の無差別爆撃をさします。2時間半で死者10万人以上、被災者100万人にのぼったといいます。引き続いて4月、5月と山の手の爆撃が行われ、死者はさらに10万人、被災者は300万人を超え、東京の60%が廃墟と化したものです。
多くの人は直接弾にあたって亡くなるより火災によって焼き殺されました。大きな火柱が上がり、それが風に煽られて、大きな火の玉となって飛んで、また次の町を焼き尽くしたという話は聞いたことがあります。その火焔地獄を作り出したものは焼夷弾と呼ばれていますが、実はベトナムで使われ、いまイラクでも使われている「ナパーム弾」のことだそうです。
中に油が入っていて、それが一度飛び散って、そこで発火するのだと。つまりいっぺんにあちらこちらに火をつけるのです。私は焼夷弾というのは、明かりとして攻撃目標を見えやすくするものかと思っていました。本当は焼き尽くすためのものだったのです。
この訴訟がはじまったことが功を奏してか、テレビでも東京大空襲のことが取り上げられるようになったといいます。日本テレビとTBSでドラマ化されて、今年の3月10日に放送されています。TBSのドラマはまだ以下のURLであらすじを追えるようです。
http://www.tbs.co.jp/program/dramasp_20080310.html
さて話は、この原告団の皆さんに弁護団の原田弁護士も加わり、なぜか村山政権の話に。
私が現党首の元政策秘書であるとKさんが紹介したあたりから、その伏線ができたのか、Kさんと一緒にやっている「平和への結集」の大きな成果が衆院山口2区の補選結果と、私がすらすらと解説したあたりからそうなったのか、回路は定かではないのですが、「社会党」の二つの大きな失敗として一つは村山さんが総理になったとたん自衛隊を合憲と認め、安保条約を容認したこと、もう一つは小選挙区制が成立したときの土井衆議院議長の不可解な斡旋だという指摘がありました。
私にとっても、まさにそうだなと合点が行くところです。
村山元総理の方針転換については、よくなぜ国会議員たちが必死で抵抗しなかったんだ・・ということを言われます。まあ、私は議員ではなく秘書(当時は秋葉忠利さんの秘書)だったわけですが、方針転換について議員に相談があったという記憶はありません。ある日突然、社会党所属議員も知らされて唖然としたのが実際ではと思います。
村山総理誕生の陰の立役者は秋葉さんでしたので、私は秋葉さんがとうぜん官邸に入るものと思っていました。しかし秋葉さんには何の役職も与えられず、せめて総理補佐官として官邸で官僚とのやり取りにあたるという希望もすべてブロックされ、彼は怒って広島に帰ってしまいました。秋葉さんが官邸に入っていたら歴史が変わっていただろう・・と思います。
土井議長の不可解な斡旋もびっくりしました。小選挙区制は本会議で否決され、本当は成立していなかったのです。それを演出したのは、社会党の秋葉、金田チームと自民党の亀井(静香)、白川チームのタッグでした。私は裏方で、自民党的政界工作の一端をかいま見ていました。本会議で成立を阻止し、数寄屋橋の勝利の街頭宣伝をしているところに電話が入り、取って返してみたら不可解な議長斡旋となっていました。
不可解な・・と書いたのは、土井さんも実はこちらのチームのメンバー同様だったからです。小選挙区制を成立させないということは土井さんの目標でもあったはずで、その土井さんがなぜ・・という思いです。
Kさんは、このときの興味深い話を教えてくれました。この斡旋のあと、土井議長側近であった岩垂さんの話として、なんでそんなことを・・と電話をした岩垂さんに土井さんが「騙された」と泣き崩れたというのです。
「誰に」騙されたのか・・。日本の官僚の巧妙な手練手管を、土井さんはどうか自分の心の中に秘めておかないで、歴史の教訓としてまとめ残してほしいというのが、この日の結論となりました。
村山さんについても同じです。いったい官邸で何があったのか・・是非教訓化してほしいということです。
この話の中で、官邸に秘書官で入っていたKOさんはいまどうしているんだろうねえ・・という話が出ました。彼ならいろいろ知っているのではと。
そうしたら、この日の帰り際、コンベンション会場の入り口近くのソファーで腰掛けてパソコンを広げていた私に声を掛ける人があり、見上げるとなんとKOさん。どうも長らく海外留学をしていたとか。もう60歳半ばをすぎていらっしゃるのですが、まだまだ学習意欲盛んという感じでした。くだんの話を少し向けてみましたが、予想通り、「政党間の話はそんなに簡単じゃあないよー」で逃げられてしまいました。
不思議なことがあるもんだなあと思いましたが、それほどにこの9条世界会議にはいろんな人が来ていたということでしょう。
ちなみに5日.6日は行けませんでしたが横浜市民テレビが生中継をしていました。
http://www.yokohama.citv.org/
記録で4日のイベントホールの内容も見ることができましたし、本日のまとめ会議の模様はライブで見ることができました。
どうも長くなりましたので、今日はこの辺で。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
平和のイベントに、この日本で、こんなに人が・・と、我が目を疑いました。でも事実は揺るぎようもなく、どうやら7000人収容のイベントホールに入りきれない人が3000人外に並んでいたようです。全国各地から来られた人、中には貸し切りバスで到着した団体の皆さんもいらっしゃるとか。
これはもう入れないと観念した私は、きくちゆみさんの平和省プロジェクトなどがブースを出しているコンベンション会場の方に向かいました。こちらも100を超える市民団体の展示を収容するには少し狭すぎる会場で、すでに関係者だけで熱気にあふれかえっていました。
平和関係の団体だけでなく、エコロジーや脱原発の団体もあり、あちらこちらで友人知人と久しぶりの再会を果たしました。その中でたまたまですが、新しい出会いとなったのが東京大空襲の訴訟団の皆さん。かねてより知己のKさんに出会い、促されて座ったテーブルが訴訟団の皆さんが集まられていたテーブルだったのです。
Kさん自身も東京大空襲訴訟の原告で、少しくらいの話は聞いていたのですが、何せ生まれる前の出来事、そんなに詳しくは把握していませんでした。訴訟団は、この被害の実態を調査し、被災をした人たちへの補償と救済を求めています。戦地での戦死者や軍人軍属には手厚い恩給が支給され、数十万人の原爆の被災者にも不十分ながら被爆者援護法ができています。しかし何百万人という東京大空襲の被災者は、これまで何の措置もとられず放置されてきたのです。考えてみれば、そのこと自体、何という国の無為無策であろうかと思います。
東京大空襲は1945年3月10日の東京下町の一般市民を狙った米軍の無差別爆撃をさします。2時間半で死者10万人以上、被災者100万人にのぼったといいます。引き続いて4月、5月と山の手の爆撃が行われ、死者はさらに10万人、被災者は300万人を超え、東京の60%が廃墟と化したものです。
多くの人は直接弾にあたって亡くなるより火災によって焼き殺されました。大きな火柱が上がり、それが風に煽られて、大きな火の玉となって飛んで、また次の町を焼き尽くしたという話は聞いたことがあります。その火焔地獄を作り出したものは焼夷弾と呼ばれていますが、実はベトナムで使われ、いまイラクでも使われている「ナパーム弾」のことだそうです。
中に油が入っていて、それが一度飛び散って、そこで発火するのだと。つまりいっぺんにあちらこちらに火をつけるのです。私は焼夷弾というのは、明かりとして攻撃目標を見えやすくするものかと思っていました。本当は焼き尽くすためのものだったのです。
この訴訟がはじまったことが功を奏してか、テレビでも東京大空襲のことが取り上げられるようになったといいます。日本テレビとTBSでドラマ化されて、今年の3月10日に放送されています。TBSのドラマはまだ以下のURLであらすじを追えるようです。
http://www.tbs.co.jp/program/dramasp_20080310.html
さて話は、この原告団の皆さんに弁護団の原田弁護士も加わり、なぜか村山政権の話に。
私が現党首の元政策秘書であるとKさんが紹介したあたりから、その伏線ができたのか、Kさんと一緒にやっている「平和への結集」の大きな成果が衆院山口2区の補選結果と、私がすらすらと解説したあたりからそうなったのか、回路は定かではないのですが、「社会党」の二つの大きな失敗として一つは村山さんが総理になったとたん自衛隊を合憲と認め、安保条約を容認したこと、もう一つは小選挙区制が成立したときの土井衆議院議長の不可解な斡旋だという指摘がありました。
私にとっても、まさにそうだなと合点が行くところです。
村山元総理の方針転換については、よくなぜ国会議員たちが必死で抵抗しなかったんだ・・ということを言われます。まあ、私は議員ではなく秘書(当時は秋葉忠利さんの秘書)だったわけですが、方針転換について議員に相談があったという記憶はありません。ある日突然、社会党所属議員も知らされて唖然としたのが実際ではと思います。
村山総理誕生の陰の立役者は秋葉さんでしたので、私は秋葉さんがとうぜん官邸に入るものと思っていました。しかし秋葉さんには何の役職も与えられず、せめて総理補佐官として官邸で官僚とのやり取りにあたるという希望もすべてブロックされ、彼は怒って広島に帰ってしまいました。秋葉さんが官邸に入っていたら歴史が変わっていただろう・・と思います。
土井議長の不可解な斡旋もびっくりしました。小選挙区制は本会議で否決され、本当は成立していなかったのです。それを演出したのは、社会党の秋葉、金田チームと自民党の亀井(静香)、白川チームのタッグでした。私は裏方で、自民党的政界工作の一端をかいま見ていました。本会議で成立を阻止し、数寄屋橋の勝利の街頭宣伝をしているところに電話が入り、取って返してみたら不可解な議長斡旋となっていました。
不可解な・・と書いたのは、土井さんも実はこちらのチームのメンバー同様だったからです。小選挙区制を成立させないということは土井さんの目標でもあったはずで、その土井さんがなぜ・・という思いです。
Kさんは、このときの興味深い話を教えてくれました。この斡旋のあと、土井議長側近であった岩垂さんの話として、なんでそんなことを・・と電話をした岩垂さんに土井さんが「騙された」と泣き崩れたというのです。
「誰に」騙されたのか・・。日本の官僚の巧妙な手練手管を、土井さんはどうか自分の心の中に秘めておかないで、歴史の教訓としてまとめ残してほしいというのが、この日の結論となりました。
村山さんについても同じです。いったい官邸で何があったのか・・是非教訓化してほしいということです。
この話の中で、官邸に秘書官で入っていたKOさんはいまどうしているんだろうねえ・・という話が出ました。彼ならいろいろ知っているのではと。
そうしたら、この日の帰り際、コンベンション会場の入り口近くのソファーで腰掛けてパソコンを広げていた私に声を掛ける人があり、見上げるとなんとKOさん。どうも長らく海外留学をしていたとか。もう60歳半ばをすぎていらっしゃるのですが、まだまだ学習意欲盛んという感じでした。くだんの話を少し向けてみましたが、予想通り、「政党間の話はそんなに簡単じゃあないよー」で逃げられてしまいました。
不思議なことがあるもんだなあと思いましたが、それほどにこの9条世界会議にはいろんな人が来ていたということでしょう。
ちなみに5日.6日は行けませんでしたが横浜市民テレビが生中継をしていました。
http://www.yokohama.citv.org/
記録で4日のイベントホールの内容も見ることができましたし、本日のまとめ会議の模様はライブで見ることができました。
どうも長くなりましたので、今日はこの辺で。
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