僕はこの20年間、ポルトガルの風景ばかりを描いてきた。
ポルトガルに移り住んでも18年にもなる。思えば長い年月である。
当初はこれほど長く描きつづけるとも思ってはいなかったし、これほど長く住みつづけるとも思っていなかった。ふり返るとあっと言う間の年月でもあった。
でも決してポルトガルでなければならないと言うこともなかったと思うし、別の国でも良かったのだろうと思う。
たまたまポルトガルという国を選んだにすぎない。
そのたまたまが幸いしてこれほど長くなったのだろうと思う。
もちろん、絵は風景でなければならないということもない。静物画でもよいし、人物画でも良い。或いは抽象画でも良かったのかも知れない。
風景画というのは単なる写生ではない。
その風景を借りて自己表現の手段なのだろうと思う。
人それぞれ表現方法が違う。
例えば友人と、或いは父と一緒に写生に出かけても、描きたいポイントが違う。
切り取り方が違う。色彩が違う。空気が違う。
同じ場所の筈が違った絵が出来上がってくる。それが個性なのだろうと思う。
コローはどこから見てもコローだし、バルビゾン派のテオドール・ルソーとドービニーは構図の取りかたも色彩も独自。
印象派のピサロ、シスレー、モネ、ブーダンが同じ場所を描いてもそれぞれが違う。
野獣派ではマルケとヴラマンクが同じフランスを描いているのに温度差が20度ほどもある。
さらにユトリロ、ビュッフェ、コタボとその個性は広がる。
サインを見なくても一目瞭然、誰の作品かが判る。
僕は何度も同じ場所を描く。
20年前に描いた風景を再び、三たび描く。
でも明らかに表現が違う。その都度違っている。違った作品が出来上がってくる。
20年の歳月が、時代の移り変わりが、心境の変化が絵に作用してくる。
描きたいと思う風景の前に立った時、あらかじめその出来上がりが想像できる。
いや、「この風景はこの様に描きたい」などと考える。でもいざ描き始めてみると想像とは全く違う方向に走ってしまう。まるでもう一人の自分が居る様に思うことすらある。それが面白いし心地よい。
油彩というのは僕の場合、比較的ゆっくりのペースで描く。
乾き具合などを確かめながら描きすすめていく。
眺めている時間も長い。
1日の作業を終えたとき、明日の作業が見えてくる。
早く朝が来ないかと楽しみになる。その繰り返しで20年が経ってしまった。
もちろん、1日中アトリエに篭っていると言うこともない。
本を読んだり、パソコンの前に居たり、料理を手伝ったり。
でも24時間いつも、今、描いている絵のことを考えている。
迷うことも多い。
以前に出した色を出したいと思う。
なかなか出なくて苦労する。苦労している途中で違う色を発見する。
焼き物を眺めたり、古い織物を見たり、ローマ時代の遺跡を訪れたりして心動かされる。
絵に迷いが生じる。その迷いが新たな一歩となる。
住みはじめた当初は「雨が降れば静物画を描こう」そしていずれ「人物画も」などとも思っていた。それがなかなか風景画から抜け出せないでいる。それどころかますますのめりこんでいる。
そして常にポルトガルの風景の中に、自分自身の新たな道を模索しているのだ。
VIT
(この文は2008年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)
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