2005/10/23(日)晴れ時々曇り/Caen-Bayeux-Cherbourg
朝は朝食前から露天市を見て回った。なるほど、昨日のオンフルールの朝市よりも遥かに大規模であった。ポルトガルの露天市に似て衣類や靴などもたくさん出ている。違うのは海産物や生鮮野菜などの店も多く、見事に飾り付けられていることだ。以前と違って、今は統一通貨ユーロなので、高いのか、安いのかが一目瞭然よく判る。
34.カーンの露天市と泊ったホテル
昨日、オンフルールで買ったパエリア屋さんも店を出していた。オンフルールでは大鍋が2つだったのが、ここでは4つも作っていた。マダムも僕たちに気付いたらしく、驚いて笑顔を見せていた。
カーンの駅までは20分程を歩いた。途中金ぴかのジャンヌ・ダルクの銅像があった。
35.ジャンヌ・ダルク像
バイユーでは王妃マチルダのタピストリー [Tapisserie de la Reine Mathilde] を見る。
幅50センチで、長さは70メートルもあるタピストリーだ。
1077年に作られた織物(刺繍)で、ノルマンディー公ウイリアム征服王のイングランド征服を描いた、いわば戦国絵巻物だ。日本語の解説もあって歩くに従って物語りは進んでついつい引き込まれて行く。色彩も良く絵も表現も面白い。
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36.
バイユー駅でサンドウィッチを買って乗ろうと思っていたのに、店は閉まっている。
バイユー駅からシェルブール行き列車に乗ったのは僕たち2人だけであった。
シェルブールに着いて駅を出た所に地図があったが、判りにくい地図で方角も判らない。
しかたがないのでタクシーに乗った。中心地の適当なホテルに止めてくれるように頼んだ。安そうなホテルの前で止まった。先にも幾つかホテルの看板が見える。
どれも2つ星だがその中で一番良さそうなホテルを聞いてみることにした。2部屋が空いていて、何れも港に面した角部屋である。安いほうは屋根裏部屋で窓が斜めに向いていた。窓の大きい高いほうに決めたがパリなどに比べると随分と安い。
ホテルのフロントで美術館の場所を聞いたら、「どの美術館ですか?」背が高くてフランス人と言うより北欧人の様な宿の主人であった。英語を話すが少し北欧訛りの様に聞こえる。そして律儀な性格らしく的確に教えてくれる。
トマ・アンリ美術館 [Musee Thomas Henry Cherbourg] の一階はガランとして廃屋の様であった。
37.シェルブール「トマ・アンリ美術館」入口
そこに居た人に「美術館の入口は上ですか?」と尋ねたら「うん」と頷いた。どうやらアルコール依存症の人の様である。
ここでも入場無料であった。
ただし半分は工事中で観ることが出来ないのだそうだ。
ミレーの勉強時代の肖像画がたくさんあった。その全てをデジカメに収めた。若い少女の肖像画はミレーの最初の奥さんと書いてある。名前は「Paurine ONO」という人だ。
38.ミレーの最初の奥さんONO像
その人の兄の「Amando ONO」という人の肖像画もある。
美術館の受付の人に「<ONO>と言うのはノルマンディーの名前ですか?」と聞いてみたら「いや、その名前はノルマンディーにはありません」という。
「ONOは日本人の名前にはあるのですよ」と言ってみた。
どことなくこの肖像画には、ほんの少し東洋人的な面影も感じられるが気のせいだろうか?。
『1838年から1840年にかけては、毎年グリュシーへ幾週かを過ごしに行っては、近親の者の肖像画を描いた。けれどもシェルブールの市当局が不規則に払っていた三百フランの不快な年金をついに失うことになった。その原因は、死んだばかりの市長の肖像画をあまりにも写実的に描いたので、それが敬意を失するとされたからであった。ところが一方では、この事件のために起こった騒ぎと、1840年のサロンに彼の最初の出品たる肖像画が出て、それが成功したためとで、郷里の若い人びとの同情がいっせいに彼に集まった。ある若い娘が彼に恋して、二人は1841年11月に結婚した。この幸福はミレーにとって新しい悲しみのもとともなった。妻は身体が弱かった。いっしょに過ごした数年のあいだ、絶えず病気になっていた。二人の生活は苦しかった。1842年には彼の画がサロンに落選した。毎日のこと生活のためにもがかねばならなかった。可哀そうな妻は弱くてそれに抗しきれなかった。そして1844年の4月、長患いのあげくに死んだ。ミレーはふたたび孤独になった。』
ロマン・ロラン著「ミレー」より
39.ミレー自画像
そんな話をしていると、知らないまに先ほどのアルコール依存症のおじさんが受付に入っている。
受付の女性はそのおじさんにもその話題を振り向けて、丁寧に対応しているところをみると、この人はこの美術館の館長さんなのかも知れない。
失礼なことを思ってしまった。人は外見で判断してはいけない。
美術館カタログを買いたいと思ってその旨申し込むと、「本当にそのカタログで良いのですか?もう一度よく見て下さい。」と念を押される。
確かに本物を前にして印刷だから色は悪い。でもはるばる来た記念だし、めったに買えるものでもない。「はい、お願いします。」と言うと、横にいた館長さんが以前の企画展のポスター3種類をくるくると巻いておまけをしてくれた。つくづく外見で人を判断してはいけない。
考えてみると今日は昼食を取っていない。
ホテルの側のブラッセリ-で、若いカップルがムウルを食べているのが見えたのでその店に入った。
ポルトガルではこの様な時間には食事は出来ないが、フランスは便利である。
ムール貝の一つずつに小さな蟹が入っていた。ポンフリもたっぷり付いていてお腹は満腹になる。
2005/10/24(月)曇り時々雨/Cherbourg-Greville-Gruchy-Beaumont-cherbourg
きょうは朝からレンタカーをして、いよいよミレーの生れ故郷を訪れる日だ。
実は昨日、ホテルに置いてあった観光パンフレットを見て心躍らせているのだ。
僕はミレーの生れ故郷がどのような雰囲気のところか?と、ミレーの描いたグレヴィルの教会だけを見ることが出来れば、それで良いと思っていた。
ところがその観光パンフレットには<ミレーの生家>が載っているではないか。
とにかくその家が残されていて、そこまでは行く事が出来る筈だ。
しかもシェルブールからそれ程遠くはない。
レンタカー屋は2軒あった。両方の値段を聞いて安いほうで借りた。クルマはマツダ・デミオのディーゼル車だ。
標識通りに行けば難なくグレヴィルに着いた。
雨がまた少し降り出していた。
道端に駐車スペースがあったのでクルマを停めて、傘を持って歩いてみることにした。
角を曲ったところすぐにグレヴィルの教会があった。何と小さい村だ。その前の広場にはミレーの銅像も建てられていた。
そのロータリー広場に「グリュシー」への標識も目に付いた。
40.ミレーの銅像とグレヴィルの教会
41.「グレヴィルの教会」ミレー/オルセー美術館
グレヴィルからグリュシーへは歩いても行くことができるほどの近さであった。公園の様な駐車場があった。
その中心に、やはりミレーの銅像があった。
クルマを駐車して歩いて行くとすぐにミレーの生家と書いたプレートが付いた建物があったが、扉は閉ざされていた。見ることが出来るのか?いつなら見ることが出来るのか?全く表示されていない。
村を抜けて、断崖の海岸まで行ってみた。
雨に濡れて滑りそうで危ない。
ミレーが子供の時に5,6隻もの船が一度に難破して、死体の山が出来たという海岸だ。今でも海路の難所とのことであるが、沖合いに船が見える。
ミレーの生家はあきらめて戻ることにした。
戻る前にそのグリュシーの役場のあるボーモンに行ってみる事にした。そこでお昼を食べるのも悪くはないと思ったのだ。
ボーモンに着くと市役所とその横にツーリスト・インフォメーションが目に付いた。何か情報があるかも知れない。
42.ボーモンの村役場
「今、グリュシーに行ってきたところですが、ミレーの家は閉まっていた。」と言うと、「はい、あそこは午後からだけ開きます。」と言った。よくぞこのインフォメーションを訪れたものだ。午後から引き返すと観る事が出来るわけだ。
ついでにお昼を食べるレストランを聞いたら、すぐ側に郷土料理の店があった。ここでも牡蠣の付いた定食を頼んだ。
43.鴨のオレンジ煮込み
44.白身魚のシードル煮込み
ノルマンディーでは牡蠣だけよりも前菜に牡蠣付きの定食をやっている店が多い。
食事が終わって早速グリュシーに引き返した。
ミレーの生家 [Maison Natale de J.F.Miller] の筋向いの建物に受付の看板が出ていた。入場料を払うと先ずその建物の奥で10分程のミレーのビデオを見せてくれる。見終わったら受付のマダムに連れられてミレーの生家に行き鍵を開けてくれた。あとは自由に見れば良い。とのことであった。
45.ミレーの生家
ミレーが描いたバターを作る道具なども展示されていて、なかなか良い雰囲気がある。石造り2階建ての大きな建物でとても貧農ではなかった様だ。
46.1階食堂
厳粛な素朴さの中に重厚さと品格を併せ持ち、いかにも少年ミレーが育つに相応しい環境であったように感じた。
でも今回の旅でも、まさかミレーの生家を見ることが出来るとは思ってもみなかった。ここまで来て初めて判った事なのだ。
47.2階作業場
47.寝室
48.ミレーの絵の具箱
49.藁の敷かれた木靴
50.玄関
51.ミレーに大きな影響を与えた祖母の写真
52.生家向い、ミレーが描いた牛乳集荷台
明日はパリに戻る日だ。
シェルブールからパリまでの時刻表は来る時に貰って来ていたが、複雑で明日はどれがあって、どれがないのかがはっきりしない。
ホテルのムッシューに聞いてみることにした。
ル・アーブルでは失敗したから今回は慎重にしたいものだ。
「これに乗りたいのだけど明日はありますか?」と尋ねてみた。
注意書きを読んで「これは明日は大丈夫」と太鼓判を押してくれた。ここのご主人はいかにも北欧人的で慎重で律儀で的確な人の様だから全面的に信用した。それにしても、パリ行きの本数は意外と少ない。
夕食前のひと時、シェルブールの街を散歩した。
また少し雨が降り始めた。
僕の折りたたみ傘が少し具合が悪くなっている。
この傘は以前マルセイユの<モノプリ>で買った物で、軽くて色も気に入っていたので旅行にはいつも持参していた。日本に帰る時も何度も一緒だった。
そう言えばMUZが今持っている緑色の折りたたみ傘もオルレアンで買ったものだ。
考えてみると良くフランスで傘を買う。そんな雨の時期にフランスを旅するのだからだろう。
衣料品スーパーに入って雨傘を見てみる事にした。
マルセイユの物ほど気に入った物は見あたらなかったが、軽くて安いのを1本買うことにした。
まさに<シェルブールの雨傘>である。
自慢したくなる様な雨傘ではないが、これから又いろんなところに一緒に旅することになるのかも知れない。
2005/10/25(水)曇り時々晴れ一時小雨/Cherbourg-Paris
朝に、昨日に見ていたメルカドに行ってみることにした。行ってみると、もうやっていない。どこかに移転したのだろう。劇場前の広場に出ていた露天市を見て歩いた。
53.劇場前広場の朝市
美味しそうなノルマンディーチーズがたくさん出ていて買って帰りたかったが、今回は美術館のカタログをたくさん買ってリュックが随分と重くなっているので諦めた。
ホテルに戻る事にした。
54.シェルブールで泊ったホテル
同じ道を歩くよりも別の道をと思って、中が駐車場になっているところを抜けて行こうとした。入ろうとしたらベルが鳴った。セキュリティーがしてあるのだろうか?やはりこの道は駄目か?と思って元の道に戻って歩いたがまだベルが鳴っている。
「ああ、側を歩いている人の携帯か?」と思ったが、違う。MUZの携帯が鳴っているのだ。
携帯は数年前に日本で買ってきた物だ。海外でしか使えない物で、おまけにメールはローマ字でしか打てない。あまり使ったことはないが、昨年クルマが故障した時には役に立った。
そんな万が一の時のために買ったものだからそれで良いのだが…。
この携帯に掛ってきたのは、もしかしたらこれが初めてである。
それは大阪・高槻の妹からであった。父が入院して手術をするというものであった。
詳しくは妹も判らない。妹は学校の教師をしているが、今はまだ学校で今から病院に向かう。着いて詳しいことが判ったら又電話する。とのことであった。
妹のところから病院までは恐らく1時間はかかるのだろう。
父には兄が付き添っている。その兄から妹へ連絡が入って、妹から僕に連絡をしてくれたのだ。
とにかく僕にはパリ行きの列車が発車しないことには動きが取れない。次の電話を待つしかないのだ。
急遽日本に帰ることも視野に入れておかなければならない。
55.シェルブール駅
シェルブールの駅に早い目に行った。
その携帯を使って日本行きの航空券のことなどを調べてみた。
明日の「全日空」なら少しだけ空席がある。とのことであったのでそれを押えておいてもらうことにした。
シェルブールからパリに向かう列車の中に、今度は兄から電話がかかった。
手術は順調に成功した。とのことであったが、この際日本に帰ることにした。
なにしろ父は94歳と高齢だし、高齢の手術だから術後も心配である。
ポルトガルから日本に戻るよりもパリからならそれだけ近い。
パリのオペラ近くのエージェンシーで航空券を買って、サンミッシェルのホテルにリュックを降ろした。ポルトガルに戻る航空券は捨てることになった。
そして予定通り自分が出品しているル・サロン [Le Salon] のヴェルニサージュ(開会)に出かけた。
56.僕の作品とベルニサージュで混みあうル・サロン2005の会場
2005/10/26(水)曇り時々晴れ/Paris-Sannois-Paris-日本
日本行きの飛行機は夜8時発だから今日は一日ゆっくりとある。
出来たら行くつもりであったユトリロ美術館に行くことにした。
パリからRERでサンノアという郊外にある。
サンノアの次の終点駅がアルジャントウイというところで、印象派のモネ、ピサロ、シスレーなどいろんな画家が絵にしている場所だ。
サンノアの駅から中心の方に歩いて、そのうち「ユトリロ美術館」の道路標識でも見つかるだろう。と思って歩き出した。
ユトリロ美術館の標識は一向になかった。
お巡りさんが居たので尋ねると、道路を挟んで目の前だという。尋ねたあとにそこにユトリロ美術館の標識があるのに気付いた。
57.ユトリロ美術館
古いサンノア村役場がユトリロ美術館 [Musee Utrillo] であった。
1階には15~6点の各時代の油彩画の展示があった。
地階に下りるとユトリロのアトリエが再現されていて、使い古しの絵具の盛り上がったパレットに描いた絵が3~4枚もあり、それが面白かった。
別の部屋にはユトリロの母、スザンヌ・バラドンの力強いデッサンや油彩画も観ることができた。一度スザンヌ・バラドンの作品をまとめて観てみたいものだ。
ユトリロ美術館の隣にはモダンなガラス張りの市庁舎があった。かねてより来たい来たいと思っていたが、来てみると簡単に来る事が出来た。以前に一度、途中まで来た事があるが、路線工事中で断念したことがある。その時は切符を払い戻した。
58.この旅で買い求めた美術館カタログ/上左より/ル・サロン、マルロー美術館、ルーアン美術館、バイユーのタピストリー、ブーダン美術館、トマ・アンリ美術館、マルロー美術館、カーン美術館
時間が余ったのでパリに戻りオルセーに行く事にした。
サンノアからRER(C)ライン一本で行ける。
サンノアの駅前でサンドウィッチを買ってRERに乗った。
アラブ人がやっているサンドウィッチ屋でカバブが主なメニューだが普通のものを注文した。
ポンフリもたっぷり入ってボリューム満点だ。
電車は空いていた。隣のボックス席に座っている若い娘のところに乞食がやって来て小銭をせがんだ。娘は強く首を横に振った。
サンドウィッチを食べている僕たちのところには遠慮したのか?来ないで行ってしまった。
オルセー美術館 [Musee d'Orsay] では入場するのに行列していた。
こんなのは初めてである。
先ずは一昨日見てきたミレーの「グレヴィルの教会」だ。
その一点をだけ観るだけで満足であったが、急ぎ足でひととおり観て廻った。
そしてホテルにリュックを取りに戻ってリュクサンブール駅からド・ゴール空港へ向かった。ド・ゴール行きのRER(B)ラインはラッシュであった。
それに成田までの全日空も満席であった。眠ることは出来ずに映画を4本も観てしまった。
VIT
(この文は2005年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)
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