日本では通りの名前と住所は必ずしも一致しないのでやっかいだ。
タクシーに乗って住所を言っても行ってくれない。
その点、欧米では通りの名前がそのまま住所になっているから、一目瞭然。
例えば「ヴァスコ・ダ・ガマ通り15番地」という住所は一つの入り口しかない。
「御堂筋」は北の大阪駅から南下してなんばの髙島屋が終点。
それは誰でもが知っているが、御堂筋という住所は恐らくないのかもしれない。
逆に「銀座通り」に面していなくても銀座何丁目何番地という住所は存在する。
パリのラファイエット通り何番地という住所だと必ず、ラファイエット通りに面している。
タクシーの運転手に「ラファイエット通りまで」と言っても、「ラファイエットのどちらまで?」とか「何番地まで?」とか必ず聞かれる。
番地によって随分と道順が違ってくるから、聞くまでは発車できないのだ。
ニューヨークのブロードウエーはマンハッタンを南北に貫いている長い通りだ。
同じようにタクシーの運転手に「ブロードウエーまで」と言っても、運転手は困ってしまう。
「ミュージカルを観たいから」と言えば「ああ何番地くらいのところ」とすぐにわかる。
ブロードウエーもアップタウンまで行くとハーレムのあたりを越してしまい、とんでもないところまで貫いている。恐らくマンハッタンで一番長い道だ。
ポルトガルも日本と違い他の欧米とほぼ同じやりかただ。
番地は向かいどうしで偶数と奇数になっているから判りやすい。
そして市の中心に近いほうから番地が始まる。
道の名前には人の名前が良く使われている。
その土地に功績を残した人の名であったり、歴史上有名な人物であったり、詩人、文学者、音楽家、画家、医者、政治家、軍人など様々だ。それに聖職者、聖人を忘れてはならない。
01.「サン・フランシスコ・ザビエル通り」の表示
02.「ヴァスコ・ダ・ガマ通り」
03.「ヴァスコ・ダ・ガマ通り」の表示板
セトゥーバルにはヴァスコ・ダ・ガマ通りやサン・フランシスコ・ザビエル通りなどもあるが、知人のご主人の名前と同じ通り名があるので聞いてみると、そのご主人のお父さんの名前とのことであった。教育者としてセトゥーバルに功績を残した人らしい。
その他に、モザンビーク通り、アンゴラ通り、ギネ・ビサウ通り、ブラジル通りなどかつての植民地などの名前もある。
フランスのグレ・シュル・ロワンには日本の近代絵画に大きな功績を残した「黒田清輝通り」がある。しばらくはこの地に住み、この地で描いた作品が東京の国立近代美術館や国立博物館などに多く残されているし、教科書などでもお馴染みの絵ばかりだ。
04.「黒田清輝通り」の表示板
05.黒田清輝が住んでいたグレ・シュル・ロアンの家
ポルトガルで面白いのは祭日が通り名になっていること。
それも「革命記念日通り」とか「共和国制定通り」とかと言うのではなくて、「4月25日通り」とか「10月5日通り」という祭日の日にちが名前。
他にも「8月1日通り」「3月28日通り」「12月1日通り」「5月1日通り」などいろいろとある。
06.「10月5日通り」の表示板
07.「5月1日通り」
08.「5月1日通り」の表示板
普段、祭日とは関係のない生活をしている者にとって、うっかり祭日を忘れて買い物に出かけたりする。
店が閉まっていて「ああそうか、今日はシンコ・デ・オウトブロ(10月5日)か~」などと気付く時もある。
日本では土地名が替わることがあって、それについては賛否両論あるようだが、ポルトガルでも通り名は時代によって替わることもあるらしい。革命や政変によっても替わる。通り表示には小さく旧名も書かれている。
先日、ジョゼ・モゥリーニョがイングランド・プレミア・サッカーチーム、チェルシーの監督を辞めた。チェルシーから莫大な違約金が支払われて話題にもなったし、次の動向も注目されている。世界で一級クラスとの誉れも高い監督であるが、セトゥーバルの出身である。
我が家から少し下った下町あたりに生家があるらしい。
たぶんサッカークラブのカフェをやっている家だろうと思う。
その通りは「城に沿った道」という通り名になっているが、城には沿っていないように思う。
或いは「城と並行に走る道」と訳せるだろうか?
確かに城とは並行かも知れないが、城からは少し遠いし無理な命名ではなかろうか?それに城にちなんだ名前は他にも多くて紛らわしい。そしてスペルが長ったらしい。
これはいずれ名前が替わる?替わると思う。「ジョゼ・モゥリーニョ通り」に。
ロンドンではシャーロック・ホームズにゆかりの地名を訪ね歩くツアーがあるらしい。いかにも実在の人物であったかの様な…。事件現場を見て歩く。観光客も探偵気分になるのか、ロンドンらしく可笑しい。
「ゴッホの手紙」に出てくる番地を訪ね歩くのは興味深い。殆どが恐らくそのままのかたちで残っていて、100年前にタイムスリップする。
バルザック、ゾラ、カミュなどの小説にも実際にある通り名、番地が出てくる。小説を読みながら地図を調べたりする。パリではいつも泊るホテルの近所が小説の舞台になっていたりすることもある。地方の都市などは今度行ったら通ってみよう。などと思う。
日本でも万葉集に出てくる地名がどこなのか研究の対象になっている。
僕が生まれ育った今川はその時代「息長(おきなが)川」と言って万葉集などにも歌われている。
『鳰鳥(にほどり)の 息長川は絶えぬとも 君に語らむ 言(こと)尽きめやも』 (万葉集4458番)
『百済(くだら)野の 息長川の 都鳥 とぶべき人は 昔なりけり』 国香 (拾遣和歌集)
『まだ知らぬ旅寝に 息長川と契らせ給ふより ほかのことなし』 (源氏物語・第四帖夕顔の巻)
その後、度重なる大和川の氾濫を防ぐため、現在の様に堺浦へまっすぐ流れを逃した。その結果、息長川は新大和川によって分断され、今はすっかり新しくなったと言う意味で「今川」と名前が替わったらしい。宝永元年(1704年)の付け替えである。これはあくまでも説で本当のところはもっと研究を進めなければならないらしい。(「田辺寄席」世話人会発行、「寄合酒」04.1.18発行より)
僕たちが子供のころの今川はメタンガスがぶくぶくと噴出すどぶ川であった。今も下水用水路なのだろうが、現代の濾過技術で少しは水が澄んできているのだろう。大きな鯉が泳いでいて、コンクリートで固められた護岸の淵から、たくさんのホームレスの人たちが日がな一日、釣り糸を垂らしている。
鳰鳥(にほどり=かいつぶり)が遊ぶ川に戻すには無理だろうし、息長川の名前を復活させるというのにも無理がある。いまや今川で歴史は流れている。
昔のままという地名は大切にしたいが、新しく出来た地名もたくさんある。
全国各地に「緑ヶ丘」というたぐいの地名がたくさんでき、「ああ山を切り開いて出来た新興住宅地だな」などとすぐわかるのが何か寂しい。
VIT
(この文は2007年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)
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