武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

015. 石膏像とそのオリジナル大理石像

2018-10-13 | 独言(ひとりごと)

 石膏デッサンと言うものをもうかれこれ30年くらいはしていない。
 最初は高校一年生の時「大顔面の面取り」から始まって普通の「大顔面」、そして「アグリッパ」「ヴィーナス」「ブルータス」と描いていったように記憶している。
 それを繰り返し繰り返しやっていく。
 時々「闘士像」「モリエール」「アリアンス」「カラカラ像」といったものもやる。
 高校美術部にも結構いろんな石膏像があったわけだ。
 いろんな石膏像があったにもかかわらず、3年間「大顔面」しか描かなかった先輩がいた。
 他の石膏像を描いている現場を見たことがないし、油彩を描いている姿も記憶にない。
 「顔が大顔面に似てきている」と皆からひやかされていた。

 高校を出て天王寺美術館の半地下にある研究所でも随分と石膏デッサンはやった。
 高校にあった以外の石膏像もたくさんあったがどれも薄汚れていて描けるものは限られていた。
 そして東京高円寺のフォルム洋画研究所。
 ここはいつも人であふれていて僕は隅っこの場所しか確保できずに、いつもいつも遠くからの「ブルータス」しか描けなかった。

 それから大学に入ってからも課題として少しは描かされた。
 その時も「大顔面の面取り」から始まった。
 基礎の基礎からと言う訳だ。

 それ以来全く石膏デッサンはしていない。
 普通、学校とか研究所でないとなかなか石膏は描けない。
 それは石膏像がないからだ。

 石膏デッサンは絵画の基礎。
 ということが言われているから絵を描こうとする人ならたいていはやっているはずだ。
 美術大学の入学試験にも必ず出るから受験をする人はかなりの練習をする。
 東京に居た時は特に周りの人たちは東京芸大を目指している人ばかりで熱心さも相当のもので随分刺激にもなった。
 僕は高校を出て当初大学に進学する気持ちはなかったのだが、基礎だと思っていたこともあるし、描くのは嫌いではなかったので受験とは関係のない気持で描いていた。

 ところが高校を出て一年目に東京芸大を受験した。
 受験したといっても全くのひやかしで、どんな雰囲気なのかを味わってみるだけの受験であった。
 こういうふとどきな人間が居るから東京芸大の受験倍率が上るのだ。
 石膏デッサンで僕に割り当てられた場所は50人程入る部屋のど真ん中で、僕のイーゼルのすぐ前に大きなぼやっとした石膏像が近すぎる位置に見上げるようにして視界いっぱいにあった。
 それまでに描いた事も見た事もない像である。
 しかも手垢で汚れ、てかてかに光って、どこから光線が当っているのかも解らず、それまでやってきたデッサンとは全く異質なものでとても絵にはならないまま時間切れとなった。
 その時の石膏像は何であったのかも未だに判らない。

 その次の年に大阪芸大を受験した。
 その時はまっさらの「アグリッパ」であった。
 これは僕は何度も描いていたし、すらすらと描けたのだと思う。
 もう随分昔のことなのでどんな角度から、どの程度うまくいったのか全く憶えていない、が合格したのだから巧くいったのだろう。

 その「アグリッパ」の大理石原型はパリのルーブル美術館にある。
 「ミロのヴィーナス」とはそれ程遠くない部屋にあるが、ガラ-ンとしたところにあってうっかりすると見過ごしてしまう。
 全く人だかりはないし、監視もあまり居ない場所だから触ったりして感触を確かめることも可能だ。
 そっくりの「アグリッパ」はフィレンツェのウフィツィ美術館にもあるが、これは胸像の衣服の部分までもあり、やはり石膏像の原型はルーブルのものに間違いはない。
 でも顔の肉付きや表情などは全く瓜二つである。

 たくさんありすぎて何処のが原型か見当がつかないのは「シーザー像」「カラカラ像」である。
 ヨーロッパならどこの博物館にでもあるといっても過言ではないくらいたくさんある。
 どれをみても「あっシーザーだ」「あっカラカラだっ」とすぐに判る。
 広大なローマ帝国の隅々にまでその皇帝の姿、形を知らしめる目的で彫られ、各地に配置されたのであろうか?

 「ミロのヴィーナス」がルーブルにあるのは誰でも知っていることだが、やはりこの場所にはいつも人だかりが絶えない。
 高校にあった石膏の「ミロのヴィーナス胸像」は僕にとって描きづらい苦手な胸像であった。
 「ミロのヴィーナスの面取り」はもっと苦手であった。

 「ミロのヴィーナス」は僕たちが高校生の時にルーブルから離れて本物が日本にやってきた。
 京都の美術館は連日、美術館を何周にも取り巻く行列で、やっと「ミロのヴィーナス」までたどり着いたとしても立ち止まって観ることは許されなかった。
 ルーブルでもこの場所はいつも人が絶えないが一日中観ていても誰も文句は言わない。

 石膏の「闘士像」も頭の部分だけのものが一般的だが、ルーブルにあるのは全身像である。
 「ニケのヴィーナス」はルーブルのものも頭部だけで石膏像とそっくりそのままあばた顔の大きな頭である。

 フィレンツェのウフィツィ美術館の回廊の突き当たりにはレースのカーテンを透してドゥオーモのクーポラが間直に見える。
 そのレースのカーテンの前に「ラオコーン像」がある。
 でもこれは大理石には違いないがオリジナルではない様な気がする。
 「ラオコーン像」もいくつかの美術館で見た。
 確かに石膏像の原型だと思われるものをどこかの美術館で見ているが、もしかしたらローマのバティカン美術館だったかもしれない。

 石膏像の原型というとギリシャ彫刻、古代ローマ彫刻ともう一つの時代、やはりルネサンス時代のミケランジェロであろう。

 高校生の時「昼」「夜」と題されたメディチ家の墓の素晴らしいデッサンを眺めてはため息をついていた。
 眺めていたのは「アトリエ別冊」のデッサン教則本である。
 東京芸大に入るにはこういうデッサンが出来なければ駄目なのかと思っていた。
 たぶんその石膏像の全体像が東京芸大にはあったのだろう。
 大きなものだから何処にでもあるというしろ物ではない。

 そのオリジナルはフィレンツェのメディチ家礼拝堂の新聖器室にある。
 「昼」「夜」の男女の像。その上に「ジュリアンの像」が一体となっている。
 「ジュリアン」も全身坐像であるが、日本で見る石膏像は胸像が普通である。
 そしてそれに対する位置に「ロレンツェⅡ世の像」。
 それには「曙」と題された女性像と「黄昏」の男性像が一体となっている。
 それほど広いとは言えないが、この新聖器室自体もミケランジェロの設計である。
 そしてその壁にはミケランジェロの落書きが残されている。

 大きすぎて誰も手がけることが出来なくて、放置されていた大理石からミケランジェロは「ダヴィデ像」を彫り出した。
 これはフィレンツェのアカデミア美術館にある。
 まことに巨大な大理石像である。

 この像が完成した当時ミケランジェロはこの「ダヴィデ像」を美術館などの屋内ではなく広場に設置されることを望んだ。
 1504年1月25日にフィリッポ・リッピ、ボッティチェリ、ペルジーノそしてレオナルド・ダ・ヴィンチが加わっている美術家委員会が「ダヴィデ像」の置き場所について討議した。
 そしてミケランジェロの希望に従って市政庁舎の前に建立と決定した。

 その市政庁舎の前には今、その「ダヴィデ像」のコピーが設置されている。
 そしてもう一体、フィレンツェの街を一望できるアルノ川対岸の丘の上、その名もミケランジェロ広場にもそのコピーがある。
 いずれも実物と同じ巨大な大理石像である。
 そして本物は今、ミケランジェロが設置を拒んだ美術館の中にある。

 そのアカデミア美術館の「ダヴィデ像」の周りには大学生くらいの20人ばかりの若者がベンチに座ったり床にうずくまったりしてスケッチブックに鉛筆やサインペンを走らせていた。
 まあまあというのも何人か居たが大半は下手糞であった。
 「どういうグループか?」と尋ねてみるとどうやら美学生ではなくて医学生ということであった。
 それにしても本物のミケランジェロを課外授業でデッサン出来るとは羨ましい限りである。
 やはりイタリアならではかもしれない。

 そう言えば父が昔アルバイトで「服飾専門学校」に石膏デッサンを教えに行っていたこともあった。
 いろんな分野の基礎となるのだろう。

 このアカデミア美術館には「ダヴィデ像」の他にノミの跡が生々しい未完成のミケランジェロがたくさんある。
 これらもすごい迫力である。
 未完成の像がならんだ隅っこに「奴隷像」があった。

 ミケランジェロで見逃せないのがやはりフィレンツェのバルジェッロ国立博物館である。
 若い男性像の「バッカス」と円形のレリーフ風の彫刻「聖家族」
 共に美しい真っ白の大理石像である。

 その同じ部屋に「ブルータス」がある。
 これはまさしく我らが学生時代に親しく描いた石膏像の原型である。
 大きさもノミの跡までもそっくりそのままで、形はそっくりであるが色が違う。色がなんとも美しい。
 透明感のある飴色の大理石はルネサンスというよりも、もっと遠く初期ローマ時代の、あるいはギリシャ時代の深さを伝えている。

 そのバルジェッロ国立博物館の2階には、ミケランジェロの先輩格にあたるドナテッロの「聖ジョルジョ像」がある。
 これも石膏像の多くは胸像であるが、オリジナルは全身立像である。
 しかも背後にゴシック風の”壁がん飾り”と一体になった像である。

 これはこの博物館で見る前にフィレンツェの通りで見かけた。
 ヴェッキオ橋とドゥオーモを結ぶ繁華な通りの中間あたり、かつての穀物倉庫跡オルサンミケーレ教会の外側に他の彫刻たちと並んでやはり”壁がん飾り”と一体となった「聖ジョルジョ像」が通りの喧騒をよそに遠くを見晴るかしていた。
 当時はこの場所にオリジナルがあったのだろう。今はコピーである。

 石膏像の原型ともなると、それなりに偉大な彫刻家が彫ったか、歴史的にも芸術的にも優れた作品ばかりであるだろうけれど案外と旅のガイドブックなどには出ていなくて、見つけた時は「あっ、こんなところにあったのか」と感激してしまう。
 そしてその都度デッサンに熱中していた若き日のことが甦る。

 それにしても未だ「大顔面」のオリジナルには出逢っていないような気がする。
 果たして何処にあの大きな顔は隠れているのだろうか? VIT

 その後、検索で簡単に見つかったのだが「大顔面」のオリジナルは『ルーブル美術館』にあるそうだ。2世紀頃の大理石像で、マルクス・アウレリウス・アントニヌスと共同でローマ皇帝を務めたウキウス・ウェルズ帝(130~169年)という人物の半面だそうです。

 『ルーブル美術館』なら観ている筈だが大理石像の1部分で気が付かなかったのかもしれない。VIT

 

 

(この文は2003年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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