026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行(上)よりの続き
2004/10/03(日)晴れ/Nancy-Strasbourg
ナンシーから少し足を延ばしてストラスブールにも行った。
ストラスブールでは街の中心、グーテンベルグ広場にすぐの「ホテル・グーテンベルグ」に予約を取っておいた。
部屋は屋根裏部屋で窓からはカテドラルとグーテンベルグ広場もよく見える。
広場ではメリーゴーランドが廻って子供たちが楽しそうにはしゃいでいる。
その隣にグーテンベルグの銅像も見える。
グーテンベルグは印刷術を発明した人物だ。
この街にも暮らしたことがあるとのことである。
36.37.ホテルの窓から見えるカテドラルとグーテンベルグ広場の夜景/グーテンベルグの像
早速カテドラルの横にある、観光案内所に行った。
美術館や遊覧船にも乗れるストラスブール・パスを買い求めようとすると「今日は日曜日なので美術館は全て無料ですよ」と言う。
「あとは遊覧船くらいだから個別にチケットを買った方がお徳です。」
それは良いことを聞いた。今日中に美術館を全て観てしまおう。
先ずは「近代・現代美術館」[Musée d'Art Moderne et Contemporain] に急いだ。
一番古いのがモネ (1840-1926) でゴーギャン (1848-1903)、ボナール (1867-1947)、ヴィヤール (1868-1940) などあり、キュビズムやカンディンスキー (1866-1944) の展示。
それにアルプ [Jean Arp 1886-1966] は平面、レリーフ、立体を含めかなりまとまったコレクションがあった。
その他、大半は写真、映像、コンピュータなどを使った超現代美術の展示であった。
38.39.Victor Brauner(1903Roumanie-1966Paris)/アルプ(1886-1966)の部屋
埃と鳩の糞まみれになった彫刻が雑然と置かれている屋根付きの古い橋を渡って次は「ストラスブール美術館」[Musée des Beaux-Arts de Strasbourg] へと向った。
最初、駅に着いた時にポスターを見て「あれっ」と思ったのだが、この美術館でドラクロア展が開催されているのだ。
美術館に着くと行列が出来ていた。
入場券を無料で貰って列に並んだ。
ポスターにはルーブルにある「民衆を導く自由の女神」が印刷されている。
いつもルーブルで観ているので、それは観なくても常設の展示を観たいと思っているのだが。列は一つしかない。
入場制限をしている様だが、比較的すぐに入れた。
入るとドラクロアではなくてイタリアのイコンなどからの展示から始まり、フィリッポ・リッピ (1406?-1469) やボッチチェリ (1445-1510) それにラファエロ (1483-1520) などもあり、やがてドラクロア (1798-1863) の「民衆を導く自由の女神」の前に出た。
他にドラクロアは小さいのが2点ほどしかなかった。
あとはコロー (1796-1875) やドービニー (1817-1878) も一点ありその時代までの展示であった。
外に出るともうほとんど行列はなく2~3人が並んでいるだけであった。
40.41.42.ドラクロア展のポスターとカテドラル/ラファエロ(1483-1520)/ボッチチェリ(1445-1510)
「装飾美術館」[Musée des Arts Décoratifs] と「考古学博物館」[Musée Archéologique] にも入った。
パリのとは違ってここの装飾美術館にはアールヌーボーはない。
2004/10/04(月)晴れ時々曇り/Strasbourg
朝からコロンバージュ(木骨煉瓦造りの建物)が美しい「プティ・フランス」を散策。
その後、運河巡りの観光船に乗った。
ストラスブールの運河は水量が非常に多くアルプスに近いことを感じさせる。
途中2箇所で水門がある。
船が水門の中に入ると後ろの門が閉まり、水位が上がるのを待つ。
水位が上がれば前の水門が開き前へ進む。
今は観光客の為の乗り物だがかつてヨーロッパでは交通、運搬の重要な仕組みだったのが判る。
そしてパナマ運河はこの方式で造られたのだ。
ゴーギャンもその肉体労働に従事した事があるというエピソードを思い出していた。
コロンバージュの間を抜け天井ぎりぎりの石橋を幾つも用心深くくぐり、やがてガラス張りの大きな建築物の前に出た。
EU(ヨーロッパ議会)本部ビルだ。
今、その議長はポルトガルの前首相ドラン・バロッソが勤めている。
43.44.45.プティ・フランスのコロンバージュの家並とハクチョウが遊ぶ運河
今日は美術館は休館日で一軒だけ「アルザス博物館」[Musée Alsacien] を見逃してしまったと思っていた。
その隣で昼食を済ませ入口のショーウィンドーを何となく見ていると、今日は午後から開館と出ていたのでさっそく入った。
古いコロンバージュの建物で、昔使っていたいろんな道具類が職業別に展示してあって興味深いものであった。
焼き物は繊細なフランス的な物ではなく、どちらかと言うとどっしりとしたドイツ的な物が多くてやはりここはドイツに近いことを感じさせる。
46.47.アルザス博物館入口/薬局の展示
2004/10/05(火)晴れ時々曇り/Strasbourg-Paris
ストラスブールを9時51分発の列車に乗る。
パリに着くのは14時である。
僅か5日間の違いなのに車窓を流れる紅葉は進んでいる様に思える。
今日は火曜日なのでパリのほとんどの美術館は休館日である。
昨年訪れた時はあいにく工事中で観る事が出来なかった、市立近代美術館 [Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris] に行ってみる事にした。
ここだけは月曜日が休館日なので今日は開いている筈だ。
ナビ派とエコール・ド・パリの作品が充実している美術館である。
行ってみると驚いたことに未だ工事中で閉鎖されていた。
工事はいつ終るとも知れない。
そのメトロ入口の向かいにある東洋美術館 [Musée Guimet] に明かりが見えたので行ってみたがやはり休館日であった。
その前を [Luxembourg] と表示したバスが走ったので、帰りはメトロではなくその次のバスを待つ事にした。
バスはエッフェル塔の真下を通りやがて見知らぬ町並を抜けモンパルナスも過ぎて終点ルクサンブールに到着した。
パリではメトロが便利だがたまにはバスも気持が良いなと感じた。
48.秋のルクサンブール公園
2004/10/06(水)晴れ/Paris
ホテルから歩いて15分程のサン・ジェルマン・デ・プレのすぐ裏手にドラクロア美術館がある。
この美術館にはもう6~7回は通っている。
通っていると言っても入った事はない。
余程縁がないのか、いつも工事中であったり、昼休みであったりで上手く入れたためしがない。
今日も案の定閉まっていた。
でも張り紙があって「今、企画展の入れ替え中で明日9時30分に開館」とあった。
サンジェルマン・デ・プレの一つ手前オデオンからバスに乗りパッシー地区に行ってみることにした。
パッシー地区にはアールヌーボーの創始者ベルギーのヴィクトル・オルタ (1861-1947) に触発された建築家・エクトル・ギマール [Hector Guimard 1867-1942] とその一派が手がけた建物が幾つか集っている。
ギマールは後に地下鉄公団から依頼を受けてメトロの入口のデザインや公園のベンチなどのデザインをしたことでも知られている。
バスはいつも右手にエッフェル塔を等間隔に見ながら進んだ。
セーヌを渡ってラジオ・フランスのモダンな建物が見えたところで降りた。
降りたところに一軒のカフェがある。
いきなりアールヌーボー風のガラスのひさしのある建物だ。
6つ7つのアールヌーボー建築を巡ってお昼はこのカフェで昼食にした。
ギャルソンの本日のお勧めはドイツ風のウインナとキノコとジャガイモのソテー。
これが案外旨かった。
このあたりのカフェでは観光客は殆んどいなく、ラジオ・フランスなどで働くビジネスマンたちの昼食場所になっている様であった。
49.50.51.52.お昼を食べたアールヌーボーのガラスのひさしのあるカフェ/ギマール一派設計のパッシー地区のアールヌーボー建築3軒
帰りも同じ番号のバスが丁度来たのでそれに飛び乗った。
行き先はオテル・ド・ヴィレ [Hotel de Ville] とある。
その終点の少し手前で降りればルーブルである。
ル・サロンは夜に行けば良いのでその前にルーブル [Musée du Louvre] を観ることにした。
53.54.55.「モロッコのユダヤ結婚式」ドラクロア(1798-1863)/ドラクロアの自画像/「食卓」モンティセリ(1824-1886)
一旦ホテルに戻り今年から会場がバンサンヌの森に移ったル・サロン [Le Salon] の会場へ向かった。
かつてこのバンサンヌの森とブローニュの森にあったオートキャンプ場で4ヶ月を暮らしたことがある。
1月の雪の積もる中で、ワーゲンのバスの中とはいえキャンプ暮らしであった。
そのキャンプ場からアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)に通っていた。
ロウソクを灯して宿題をしたものである。それがひとかけらも身に付いていないのが情けない。
帰りには毎日美術館を観て、バンサンヌの駅前パン屋で夕食用に一本のパリジャン(フランスパン)を買う。
駅からキャンプ場に帰り着くまでにパリジャンはかじって殆んどなくなり、夕食まではとても持たなかった。
その旨かったことは今でも忘れられない語り草になっている。
春になって動き出せる日が待ち遠しかった。
そのバンサンヌが今年の会場である。
56.ル・サロン2004の僕の作品「CIDADE」100F
僕の作品は今年も入口に近い比較的良い場所に掛けられていて満足であった。
2004/10/07(木)晴れ/Paris-Lisbon-Setubal
飛行機の時間までは半日がたっぷりある。
ドラクロア美術館 [Musée Delacroix] へは開館時間の少し前に着いた。
20歳そこそこの若い日本人女性が1人、既に門の前で開くのを待っていた。
今日が企画展の初日だと言うのに9時半の開場時に入ったのは日本人の3人だけであった。
彼女も前日に下調べをして今日に臨んだ様である。
「昨日はルーブルに行ってドラクロアを観てきた」と言っていたから余程ドラクロアファンなのかも知れない。
明日には日本に帰るのだそうだ。
今日一日だけのタイミングでドラクロア美術館に入れたのは幸運だ。
でも代表作の一つである「民衆を導く自由の女神」をルーブルで観ることが出来なかったのは不運と言わざるを得ない。
「僕たちはストラスブールでそれを無料で観てきた」とは教えなかった。
ドラクロア美術館にドラクロアは1点もなかった。
企画展は 「Piotr Michalowski」 という画家の展示であった。
ドラクロアに似ていたので弟子筋にあたる画家なのかも知れない。
ドラクロアは晩年ここにアトリエを持ち最後までこの地で制作をしていた。
作品は一点もないがパレットや画材などが展示されている。
思っていたよりもモダンなアトリエに少々驚いた。
57.ドラクロアのアトリエ
こんなパリのど真ん中であのようなイスラム的な絵が描けたものだとも感心して見ていた。
一室目を観ている時に日本人夫妻らしき人が受付に来ていた様だ。
この美術館には日本人しか来ないのだろうか?
或いは朝早くから美術館を訪れるのは日本人位しかいないのか。
でもその夫妻はドラクロアはないと聞かされて帰って行った。
58.59.サンジェルマン・デ・プレにあるアールヌーボーブラッセリー「Le Petit Zanc」/佐伯祐三(1898-1928)がパリに着いて最初に泊まったホテル「グランゾンム」
今回の旅ではアールヌーボーを中心に観るつもりでそれなりに下調べもして臨んだが、振り返って考えてみると当初漠然と考えていた「ミレー (1814-1875)、テオドール・ルソー (1812-1867)、コロー (1796-1875)、ドービニー (1817-1878)、ドラクロア (1798-1863)」といった時代の絵にも引き付けられていた様に思う。
僕の中でどの様に整理をつければ良いのか多いに動揺している。
VIT
(この文は2004年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)
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