気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(21) 春清・宗清は金毘羅宮へ六角形青銅燈籠を元禄9年頃奉献した

2024-11-17 08:46:50 | 趣味歴史推論
 五代春清らは、石燈籠に続いて、金毘羅宮へ六角形青銅燈籠と八角形青銅燈籠を奉献した。この内、六角形燈籠は奉献年月日が不明である。この原因は、宝永3年(1706)奉献の八角形と対でなされたので記されなかったのではないかと郷土史家真鍋充親は推測している。1) 筆者は六角形・八角形と異なる燈籠が対になるのはおかしいのではないか、奉献年は異なるのではないか、奉献年は記されていたのではないかという疑問を持ったので、これらを明らかにすべく検討した。
 春清らの奉献した六角形青銅燈籠は、金毘羅庶民信仰資料集(以下資料集という)の通し番号W-255であり、御本宮へ向かって右脇の柵の中にある。 別子銅山外財中・泉屋吉左衛門が奉献した青銅燈籠と並んでいる。
柵の中には入れないので、外からの観察しかできないが、竿に銘文は見えなかった。→写1
六角形青銅燈籠W-255の銘文は、資料集(1984)の記載によるしかない。1984年には読めたのである。
        
   火袋  四面*  ㊎          *三面の誤り
   竿 正面上部  金毘羅大権現
   竿 背面下部  豫州天満浦
           寺尾善三春清
           同 九兵衛尉宗清 
           同 十郎右衛門

  
 燈籠・基礎は青銅製、基壇は花崗岩製。青銅本体の高さ(254+(宝珠追加分)=約280cm。
 1984年当時、宝珠は欠損していたが、現在は玉形に炎が付いた宝珠が最上部に付けられている。
  
1. 銘文はなぜ読めないか、見える面は資料のどの面に当たるのかを解明する。
 資料集W-255は、サイズや正面図、銘文が詳しく示されている。→図
この図と写1とを詳しく比較した。
言葉の定義:正面は「金毘羅大権現」の面、背面は「豫州天満浦 寺尾ら」の面を指す(資料集の定義)。写1で見て、表(おもて)は観察者に見える中央面を指し、裏(うら)は観察できない裏中央面を指しななめ十字の透かし彫りのある壁に面する。
(1)正面は裏であることを証明する。
参考にするのは①中台の神獣 ②基礎の獅子 ③火袋の㊎ ④笠下のキント雲 の模様の違いである。なお各部は回して取り付けられる可能性もあるが、以下の検討の結果、1984年と現在の間ではなかったとして問題なかった。
① 中台の格狭間(こうざま)には、向かって(以下全て向かってで記す)左前向きの麒麟と右向きに振り返る龍の2種が交互になっている。図でわかるように正面は龍である。表は麒麟であり、6面で交互の獣となるので、裏は龍となるはずである。よって正面=裏である。
② 基礎の格狭間の獣絵は3種あり、表は左足の大きな振り返りの獅子である。3種あることから、対面である裏は、表と同じとなるはずである。正面は左足の大きな振り返り獅子である。よって正面=裏である。
③ 火袋の㊎ 表には㊎はなく、両脇に㊎がある。六面なので、対面である裏に㊎があるはずである。正面に㊎がある。よって正面=裏である。
④ 笠下のキント雲 
表には、雲はなく、両脇に雲がある。六面なので、対面である裏には雲があるはずである。正面に雲がある。よって正面=裏である。
 以上のことから、正面=裏である。すなわち裏に「金毘羅大権現」の銘があり、表に「豫州天満浦 寺尾ら」の銘があるはずである。
(2)表にあるはずの「豫州天満浦 寺尾ら」の銘を探す
少し角度を変えて撮った表の数個の画像を、パソコン上で拡大して字を探した。その結果、「豫」の字が読めた。即ち背面のあるべき所に、「豫」の字があったのである。それを□で囲んだ。→写2
「州天満浦」や三人の氏名に相当する場所には、字があったらしいことはわかるが、読めなかった。
この結果、正面=裏であること、寄進者の銘が背面にあったが、1984年には読めたものが、現在はほとんど読めなくなっていることがわかった。裏に回り込んで、正面「金毘羅大権現」の銘を確認したいものである。
 では奉献年月日はどの面にあるか。寺尾が宝永3年奉献した八角形青銅燈籠には、金毘羅大権現の両脇に年と月日が記されているので、それと同じ可能性が高い。すなわち正面に記されている。
(3)なぜ銘文がほとんど消えてしまったのか。
 青銅燈籠の主銘文は凸である。1984年には奉献者名は読めて、資料集に記載された。その後、欠損していた宝珠を付ける操作をしたが、この時に表面を磨いて奉献者名を消したのであろう。意図的かどうかは分らないが、非常に残念なことをしてくれたものである。他の多数の青銅燈籠の銘は、皆はっきりしっかり読めるので、経年劣化が原因ではない。となると意図してきれいに消して見栄えが良くなるようにしたとしか考えにくい。隣に立つ別子銅山外財中・泉屋吉左衛門の燈籠の脇役として考えられたのではないか。青銅燈籠は寺社の所有物であるが、奉献者名は消さないでほしい。少なくとも奉献者を記した立て札を早急に立てるべきである。 
奉献年月日も同様なことが、1984年以前に行われたと推定する。今からでも、正面「金毘羅大権現」の両脇を詳しく丁寧に探せば、年月日が分る可能性が高い。

2. 六角形青銅燈籠W-255は、宝永3年奉献の八角形青銅燈籠W-283と対で製作奉献されたのではないことを証明する。
(1)資料集から 境内に現存する青銅燈籠の全て39基を調べた。その内訳は、以下のようになる。
江戸期  32基 内訳 対のもの-----11対 (22基)----内訳 六角形 8対(16基)
                            八角形 3対(6基)
           単独もの ----------(10基)----内訳 六角形  (7基)
                            八角形  (3基)
明治期  7基 内訳 対のもの-----3対  (6基)-----内訳 六角形 3対(6基)
                            八角形 0
           単独もの---------- (1基)-----内訳 六角形 1対(1基)
                            八角形 0
対のものの詳細は、以下の通りである。
 江戸期の11対は、W-13a,b  W-117a,b  W-212a,b  W-243a,b  W-252a,b  W-253a,b  W-254a,b  W-256a,b  W-266a,b  W-280-a,b  W-291a,b
 明治期の8対は、W-241a,b  W-260a,b  W-261a,b
 対のものは、全て同形で同じ大きさである。また対のa,b の両方に奉献年月日があった。八角形と六角形で対になったものはなかった。またW-255以外の38基には、全て奉献年月日があった。
 以上のことから、W-255 とW-283は、同形でないので対で奉献されたものではない。W-255に奉献年月日はあったと推定される。
(2)銘文の違い
      六角形(W-255)            八角形(W-283)
    竿正面上部  金毘羅大権現       竿正面上部  金毘羅大権現
           --------                 奉献
           --------                 宝永三丙戌年十月吉日
    竿背面下部  豫州天満浦        竿正面下部  豫州天満村願主
           寺尾善三春清              寺尾善三春清
           同 九兵衛尉宗清            同 九兵衛尉宗清
           同 十郎右衛門             同 十郎右衛門尉貞清
                        竿背面下部  請負人
                               大坂備後町境筋
                               舛屋甚兵衛
                               細工人大坂
                               松井太兵衛
 ① 天満浦と天満村とで異なる。
 ② 六角形では「十郎右衛門」であるが、八角形は「十郎右衛門尉貞清」と、尉(じょう)の官位を持ったので、六角形より後である。また役に付いたので二代目貞清の名をもらったのであろう。
(1)(2)より、六角形(W-255)は、八角形(W-283)より早く製作奉献されたと結論する。また六角形(W-255)は、単独で製作奉献されたので、奉献年月日の銘は必ずある。

3.  六角形燈籠(W-255)はいつ奉献されたのか。筆者は元禄9年(1696)頃と推定するが、その根拠は以下のとおりである。
(1) 金毘羅宮の青銅燈籠を古い順に並べると以下の通りである。
  ① 元禄9年(1696)奉献者 豫州宇摩郡中之庄村坂上半兵衛尉正閑ら(W-267)
  ② 元禄10年(1697)奉献者 別子銅山外財中・大坂住泉屋吉左衛門(W-256a,b)
  ③ 宝永3年(1706)奉献者 豫州天満村寺尾善三春清ら(W-283)
  ④ 宝暦5年(1755)奉献者 万人講 講元大坂河内屋伊予兵衛 基盤に約100人の名(W-270)
 W-255は、元禄10年別子銅山外財中・泉屋吉左衛門奉献の1対の内の一基と並んで、本宮脇の柵の中に建っている。別子銅山の1対が奉献された時には、既にW-255 は存在したので、別子銅山の一基と組み合わせたのではないだろうか。寺尾の六角形燈籠は最古の奉献燈籠だったのではないか。別子銅山の1対より古く奉献されたことが重要であると認識され、本宮脇柵の中に残されたのではなかろうか。別子銅山の奉献が早ければ、その1対が本宮脇に設置されてもおかしくない。その方が大きくより立派に見える。そしてW-255はより遠い所に置かれたはずである。よってW-255は別子銅山奉献の元禄10年の前年すなわち元禄9年に、中之庄村坂上半兵衛正閑の燈籠W-267と同時期になされたと推理する。
(2) 元禄9年W-267の奉献者は中之庄村の坂上半兵衛尉正閑・同半右衛門尉正清・同伊之助である。中之庄村は天満村の東10km余りにあり、坂上半兵衛尉正閑と寺尾善三春清は宇摩郡の庄屋同志であり、姻戚である。この時には、春清は当主を宗清に譲っていたことが、宗清に九兵衛が付いていることから分る。坂上家・寺尾家双方の後継ぎも「尉」の官位を持ち、同じような状況である。両人は示し合わせて、あるいは競うようにして、青銅燈籠を初めて金毘羅宮に奉献することを考えたと推理する。春清は、既に元禄7年(1694)に石燈籠を奉献しているが、別子銅山による物流の繁栄を感謝して、さらに青銅燈籠W-255を奉献したのではないか。そして、宝永3年(1706)には、粗銅はもう天満を通らなくなっていたが、今後の廻船業・地元産業の発展を願って二基目の青銅燈籠W-283を奉献したのではないだろうか。

まとめ
1. 五代春清・六代宗清・十郎右衛門は金毘羅宮へ六角形青銅燈籠を元禄9年頃奉献した。これは奉献された青銅燈籠の最古に相当するものであろう。
2. この燈籠は、宝永3年の燈籠と対で奉献されたのではないこと、それより古いことを示した。


金刀比羅宮へのお願い
燈籠W-255の奉献者名が消されてしまっているので、それを記した立て札を立ててほしい。
燈籠W-255の奉献年月日があるはずなので、早急に読み取って立て札に記してほしい。 
 
注 引用文献
1. 真鍋充親「伊予の金毘羅信仰と常夜燈の持つ秘密」「ことひら」No.41 p251(琴平山文化会 昭和61 1986)
2. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p204 御本宮まわりの燈籠W-255(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図
3. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p268 印南敏秀「解説 境内の燈籠」(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション

図 六角形青銅燈籠W-255(金毘羅庶民信仰資料集第3巻p204より)


写1 寺尾春清・宗清・十郎右衛門が奉献した六角形青銅燈籠


写2 六角形青銅燈籠竿下部の拡大 「豫」の字を囲む

天満村寺尾九兵衛(20)春清が金毘羅宮へ元禄7年に石燈籠を奉献した

2024-11-10 10:16:06 | 趣味歴史推論
 五代寺尾九兵衛春清は、元禄4年別子銅山開坑時の天満村大庄屋であり、歴代当主では最重要人物である。しかしその働きについて、古文書や記録の中にはほとんど見つからない。しかし銅山開坑から、粗銅の積出港が新居浜に代わる元禄15年までの12年間、天満村の役割を十分に発揮したことは間違いない。大きな事故や事件があれば記録に残るだろうが、それがないということは物流経営が上手くなされていたことを示している。記録がないので、春清らの働きを遺物によって見ていきたい。
 春清が金毘羅宮へ奉献した石灯籠が、琴平町公会堂の前庭に残っている。この公会堂は、金刀比羅宮の石段の始まりの左手約100m離れた所に昭和9年に建造された。→写1 
石燈籠の旧設置位置は不明であるが、金毘羅宮へ奉納されたことは間違いないとのことである。1)
 高さ{(宝珠+請花+火袋)88cm+(火袋台+竿+台)108cm=}196cm、円形の竿と火袋台はしっかりしており、刻字もはっきり読み取れる。→写2、写3
石燈籠(1694)
  元禄七戌年   予州宇摩郡天満村
  奉寄進        寺尾氏春清
  十月吉日


検討と考察
1. 銘が彫られた竿石とその上の火袋台石は花崗岩であるが、火袋は竿石と石材質が異なり、地震などで破損したので、別の石燈籠の火袋を取り込んだと思われる。台石は円形で火袋台石の四角形と異なりデザインも異なるが、石材質は同じ様なので本来のものだろうか。宝珠石(玉石)、請花、笠石も、本来のものかは判別し難い。銘が彫られた竿石とその上の火袋台石のデザインは、三代成清が天満村八幡宮へ延宝9年(1681)寄進した石燈籠に酷似している。2)成清の石灯籠も材質は花崗岩で、下台も含めて180cm(6尺)であったので、大きさもほぼ同じである。
2. 元禄7年は、金毘羅の石燈籠では7番目に古く、それまでの6対は全て高松藩主松平頼重寄進のものであった。3)この石燈籠は、大名以外では最も古く、讃岐国以外では、初めての奉納物である。1)
3. 寺尾九兵衛春清がなぜこの時期に寄進したのか。  
 別子銅山は開坑以降急激に産出量を増やしていたが、元禄7年4月に大火災があり132人が焼け死んだ。その半年後に奉献していることから推測すると、別子銅山の復興と天満村と寺尾家の無事を祈願したのであろう。
4. なぜ金毘羅宮に寄進したのか。
 元禄時代の金毘羅宮はどんな様子であったのか、金毘羅大権現とはなにかを調べ始めたら、金刀比羅宮(現在は神社であり、その正式な名称)の歴史は、修験道・仏教・神道が絡み合っており、権力争いもあり、非常に複雑であることを知った。筆者は、史料に基づき論じている池内敏樹のライブドアブログ「瀬戸の海から」を妥当なものと考えたので、そこから主に引用させていただいた。4)5)
・「正徳5年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納」
これが、金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりとのことである。
 塩飽諸島は江戸時代当初から、幕府領であり、官米の廻船操業で繁栄した。丸尾家は瀬戸内随一の豪商とうたわれた。寛文12年(1672)河村瑞賢が出羽酒田より江戸に官米を廻送し西回り航路を開く時にその任にあたったのが塩飽の廻船である。延宝3年(1675)には牛島だけで28名の船持が75艘、総積石数48750石に及ぶ廻船を持っていた。正徳3年(1713)には塩飽諸島に472艘の廻船があり、そのうち200石以上1500石積までのものが112艘であった。6) その華々しい塩飽牛島の丸尾家が奉納したのは正徳5年(1715)と寺尾九兵衛の奉納より後なのである。元禄時代に金毘羅大権現が海上守護神、船の神として広く信仰されているのであれば、象頭山に近い塩飽諸島の廻船問屋から燈籠などの奉献が数多くなされていてもよいはずである。塩飽の船人は住吉神社を古くから信仰していたので乗り換えなかったのである。
 そうすると、寺尾九兵衛が金毘羅大権現を海上守護神として信仰し奉献した初めての人であるといえるのではないか。特に、寺尾九兵衛の後の青銅燈籠奉献は、廻船操業で海の安全と繁栄を願ったからであろう。
塩田康夫によれば、銅廻船の天満浦から大坂への航路は、天満浦→箱浦→塩飽本島の泊(とまり)→牛窓→室津→明石→大坂と考えられる。7) 箱浦から泊の間の船上から象頭山が見えたので、金毘羅宮へ奉献したのだろうか。

まとめ
1. 五代寺尾九兵衛春清が金毘羅宮へ元禄7年に石燈籠を奉献した。
2. 大名以外では最も古く、讃岐国以外では、初めての奉納物である。
3. 春清は金毘羅大権現を海上守護神として奉献した初めての人ではないか。


注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p346「印南敏秀 境外(旧領内)の石燈籠」(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション 
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(13)天満神社の鳥居と三代成清寄進の石燈籠」(2024.9.22)
3. 松平頼重は讃岐国高松藩の初代藩主(元和8年~元禄8年(1622~1695))で徳川光圀の同母兄である。6対の石燈籠は寛文8年-延宝3年(1668-1675)に奉献された。
4. 池内敏樹ライブドアブログ「瀬戸の島から」>金毘羅大権現形成史
5. 金刀比羅宮の歴史(ブログ「瀬戸の島から」を参考にして作成した筆者のメモである)
・金毘羅大権現の一番古い史料とされる金毘羅堂の棟札(元亀4年=天正元年(1573)記之)によれば、「真言宗象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とある。すなわち宥雅は、象頭山に金毘羅神という「流行神」(はやりがみ)を招来して、この山を盛大にすることを目論んだ。しかし追われ歴史から抹殺された。その後の宥盛らは、歴代藩主の保護を受け、新興勢力の金光院が権勢を高め松尾寺を支配するようになった。慶安元年(1648)に幕府から朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった。そして、神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展した。
・明治元年の神仏分離令により、廃仏毀釈が起こり、本山は全て神社「金刀比羅宮」(祭神は大物主、崇徳帝)となり、真言宗象頭山松尾寺(金毘羅大権現)は、本山から追い出され、域外に残った。
・公式見解では、「金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。」
・「お参り」という大義名分をもつ旅行(個人と団体)「こんぴらまいり」を企画して全国に流行らせ、山と地域を繁栄させた。「お伊勢まいり」と並ぶ。
・金毘羅信仰を全国に広めたのは修験者だったであろう。また民間の金毘羅信仰は、「病気平癒」や「疫病よけ」であり、修験者により祈祷がなされた。ただ修験道としては、石鎚山の方が古く、強かった。民間の金毘羅信仰も元禄以降のことである。
・瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉神社や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになったのは、19世紀になってからであろう。塩飽諸島では、難波の住吉神社を信仰していた。
6. 金毘羅庶民信仰資料集第1巻p42「田村善次郎 金毘羅信仰について」(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和57年 1982) web.国会図書館デジタルコレクション
塩飽の廻船に関する元の文献は「柚木学「近世海運史の研究」(1979)」である。
7. 塩田康夫「海のあらがね道」「山村文化」7号p23(山村研究会 平成9年1997)

写1 琴平町公会堂


写2 春清寄進の石燈籠

写3 石燈籠の竿部拡大 


写4 金刀比羅宮境内変遷図(金毘羅庶民信仰資料集第1巻p20より抜粋)

天満村寺尾九兵衛(19) 別子粗銅が運ばれた天満村の道

2024-11-03 08:24:56 | 趣味歴史推論
 別子銅山の粗銅が運ばれた天満村の道は十分解明されていない。最初の報告は坪井利一郎「第一次泉屋道」(2009)であり、その地図には泉屋道とランドマークが示されている。1)筆者はこれを参考にして検討した。ここで筆者の説を提示したい。
二つの区域に分けて検討する。
1. A(出店)からD(公民館近く)までの経路
2. 天満浦近くの経路と銅廻船に積むまでの経路
 粗銅が運ばれた道を推定する手順として
 ① 元禄時代にその道は存在したか。
 ② その道は粗銅を運ぶのに、使われたか。
の2点から検討する。
 まず元禄時代にその道が存在したことを証明することは、当時の詳細な地図がないので難しい。現在の道端にある地蔵・常夜燈・小神社・石碑は全て元禄より後に建てられたものであるから、証明に全く役に立たない。そうすると結局、一般的な道の成り立ちからの推測と地名と口伝などによるしかない。
 参考にする地図は、以下の二つである。
 ①  明治39年測図41年8月発行の「新居浜」五万分一地形図(国土地理院)(以下「明治41年地図」と称す)2) →図1
 ② 「宇摩郡天満村耕地全圖」(以下「明治中期耕地全図」と称す)3) この表紙と符号説明→図2
耕地全図は、書かれた年が不明なので推定する。符号説明の「里道」(りどう)は明治9年(1876)から使われた用語なので、書かれた年代は明治9年(1876)以降である。里道は赤線、水路は青線で示される。
この二つの地図に要所の地点に同じ記号を書き入れたので、その記号で説明する。
1. AからDまでの経路 →図3
・A路(A→E→H→J→D):土居村から天満浦へほぼ直線的に通じる経路であるので、元禄よりずっと前から存在していたであろう。明治中期には、里道であり、明治39年には里道のうちの「聯路」(れんろ)であった。この道には、「市場」(いちば)がある。現在の地区名「原久保市場」は、「原久保にある市場」と誤解していたが、そうではなくて、昔は、「字久保」「字原田」「小字市場」があり、それが統合してできた名であることを知った。「市場」はEJの東側道に沿ってあったと思われる。泉屋の出店以前からあったか、出店にあわせて出来たかはわからないが、「市場」があるということから、山や海へほぼ真っ直ぐに通じているこのA路は、元禄時代に存在していたと思う。
・B路(A→C→B→K→L→D):清賢寺(井源寺)は9世紀に創建された寺で村民の菩提寺である。この山門の下B(寺の下)から四方に向けて道が出来たはずであり、特に下天満の浦へほぼ直線的なB路は元禄時代に存在していたと思う。大庄屋寺尾家からほぼ真っ直ぐ寺へ行ける道である。B路は明治中期には、支道であり、明治39年には里道のうちの「間路」(かんろ)であった。
・C路(A→C→F→G→I→J→D):この経路は坪井説である。この道が元禄時代に存在していたかを検討する。
「明治41年地図」では、C→Jの道は「小径」で表されている。→図1
「明治中期耕地全図」ではえびす神社が現在のJの位置にはない。また赤線一本で記された(支道作場道)はG→Iは繋がっていない。明治中期以降にえびす神社を現在のJに移し、C→Jの道をほぼ真っ直ぐに整備した結果G→Iは繋がったのであろう。
また(A→C→F→G→H→J→D)の道は元禄時代に存在したかもしれないが、Fで2回、Gで2回、Hで1回直角に曲がる必要があり、粗銅を運ぶのに使われなかったと推定する。よってC路は存在しないか、使われなかったと考える。
結論として、元禄時代にA路とB路は存在したであろう
では、粗銅を運ぶのに使われたのはA路かB路か。どの口伝が最も信用できるか。
筆者は、大久保繁雄氏の口伝4)
「別子銅山の運搬路「天満道」は二つ嶽の小箱峠を越え、浦山川を経て天王川原を渡って八雲神社の東を通り、出店の四辻から寺の下・大西山田・橋の川を経て天満浦の船着場に通じていたと云われている。」を採用する。
「寺の下」とは、Bである。また字名としての「寺の下」は、BとCの間の南北に流れる水路より西の地区をいう。粗銅を積んだ馬が、「寺の下」経由の当時の主道B路を行くのは納得できる。なおLに大西山田の「疫病除け地蔵」があるが、寛政10年(1798)建立であり新しすぎるので傍証にならない。5)
結論として、粗銅はB路を行った
 また、天満浦で粗銅を下ろした馬は、出店に戻る際には、御蔵(おくら 幕領の米蔵)及び付近の倉庫から銅山に運ぶ物品や「市場」で購入した物品を運んだはずであるので、帰りはA路を使ったと推定する。
2. 天満浦近くの経路と銅廻船に積むまでの経路 →図4
 DからMまでは北上する一直線の道路である。Mから銅廻船に運ぶ伝馬船(てんません はしけ)の発着地点までの経路を検討する。
坪井説では粗銅を運ぶ伝馬船の発着場所を特定していない。ただ泉屋道としてOまでを表示している。
筆者は次の口伝6)
「江戸時代、寺尾大庄屋では「橋の川」の河口の川岸あたりと、その西側の通称「雑魚売り道」の海岸あたりに船を停泊させて、廻船業も営んでいたと伝わる。」を採用する。
理由は、「橋の川」の河口の川岸に着いた船とは、主に「米」を運んできた伝馬船であり、Qがその発着場所であろう。Pの付近には御蔵があったであろうこと7)から推定する。また筆者は粗銅倉庫は海沿いにはないと考えるので、「雑魚売り道」の海岸あたりXから粗銅を伝馬船に乗せて沖に停泊している銅廻船に運んだ(沖積み)と推定する。こう考えると、雑魚売り道を粗銅が運ばれたと言う口伝も納得できる。雑魚売り道はX→W→V→U→Tを通る。
 MからTへ粗銅を運んだ経路
「明治中期耕地全図」では、Qに橋はなく、Rにはあった。→図4
ではR橋は元禄にあったのか。R橋はN橋からわずか200mしか離れていない、P付近の御蔵から川を越えて西方へ運ぶ米や荷は少なかったと推測すると、元禄にはRに橋はなかったと考える。N橋を通ればよく、それであまり不便を感じなかったのではないか。
MN路(M→S→T)は、寺尾九兵衛宅の前を通ってN橋を渡り天満神社に行く主道であったはずで、しかも、M→Tの最短距離であるので、粗銅を運ぶ経路としては最も合理的である。
結論として、筆者は粗銅倉庫は海沿い(PやX付近)にはなかったと考えるので、MN路で粗銅が運ばれたと推定する。その道をピンク色で示した。→図1
そして粗銅を下ろした馬は、帰りは(X→T→S→N→M→O→P)の経路でP付近の御蔵などに寄り、米などを積んで市場経由で出店まで戻ったと推定する。
粗銅が運ばれた道をGoogle航空写真に赤線で示した。Yが粗銅を運ぶ伝馬船用の小さな波止であろう。沖Zで停泊中の銅廻船に載せたと推定する。→写

まとめ
粗銅が出店から銅廻船まで運ばれた道は、出店→(井源寺)寺の下→寺尾九兵衛宅前→天満神社鳥居前→雑魚売り道である。銅廻船は沖積みで、伝馬船用の波止を特定した。


注 引用文献
1. 坪井利一郎「第一次泉屋道」 益友第60巻1号 p15(平成21年 2009)
2. 里道(りどう)の3区分
・「達路」(たつろ):著名な両居住地を連絡する道路、および著名な居住地から出て、また国県道もしくは他の達路より分岐して数町村を貫通する道路
・「聯路」(れんろ):隣接する市町村の主要な居住地を連絡する道路
・「間路」(かんろ):「聯路」間を結ぶ小路
3. 「宇摩郡天満村耕地全圖」若竹屋所蔵
天満村の名の変遷
江戸時代→天満村→明治22年(1889)12月→満崎村→明治27年(1894)7月→天満村→昭和29年(1954)3月→土居町→現在
4. 「天満・天神学問の里巡り」17番(岡本圭二郎「館報145号平成15年4月(2003)」
5. 「天満・天神学問の里巡り」43番(岡本圭二郎「館報172号平成17年8月(2005)」
6. 「天満・天神学問の里巡り」15番(岡本圭二郎「館報143号平成15年2月(2003)」
7. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(8)慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」(2024-8-18)

図1 天満村内での粗銅が運ばれた道(明治41年発行地形図(国土地理院)に書き込む)


図2 「宇摩郡天満村耕地全圖」の表紙と符号説明


図3 「宇摩郡天満村耕地全圖」の内、上天満村付近


図4 「宇摩郡天満村耕地全圖」の内、下天満村付近


写  下天満村内での粗銅の運ばれた道(Google航空写真に書き込む)


天満村寺尾九兵衛(18)近藤六郎右衛門は川之江代官所の天満「口屋」の役人ではないか

2024-10-27 08:26:08 | 趣味歴史推論
 天満浦から別子銅山の粗銅が大坂へ運ばれた元禄時代に、天満に「口屋」と称する役所があったことを証明したい。ここでいう「口屋」とは、前報で記したように、川之江代官所の現場詰所およびその役職のことである。天満村関係の文書などで「口屋」が記載されたものは、近藤六郎右衛門の過去帳だけである。1) そこで、近藤六郎右衛門について調べることにした。天満の近藤嘉豊様より、近藤家の由緒を伺い、貴重な史料を見せて頂いた(2024.7.21)。

1.  過去帳 ( )内は筆者 →写1
 ・享保6(1721)辛丑9月5日(卒) 行年83才 (書込)寛永16年(1639)生
 天高宗運信士俗名近藤六郎衛門
 (書込)寛永通寶銭をゐる (薄黒塗り箇所)宴を楽しみ求む豊富
    一柳様御下り寛文9年改め松平左京様御地相成候 近藤六郎衛門二十八才也
     御銅山口屋仕也
 ・享保7(1722)壬寅7月7日(卒) 行年78才
 帰源妙性信女六郎衛門妻
  (薄黒塗り箇所は読めない)
 ・享保14年(1729)己酉(卒)
 俗名近藤嘉兵衛 近藤六郎右エ門忰
  御銅山御用口家


2. 墓碑 →写2
 六郎右衛門夫妻の墓が、ざと(座頭?)屋敷地区の近藤家墓所(出店の南200m)の中央手前にある。笠付方形で花崗岩製の立派な墓で、夫婦同じ大きさである。(笠部38cm+柱石84cm+台部18cm=)総高140cm 柱石の幅30cm 厚18cm。
 ・天高宗運信士忌
 ・帰源妙性禅定尼忌


3. 三人の絵図(天保13年(1842)以降)→写3
 中心人物:五代近藤六郎右衛門 寛永16年生 壽83歳 妻78歳
 右の人物:六郎右衛門の孫の十代藤四郎 享保6年生 壽79歳 妻75歳
 左下の人物:十代藤四郎の孫の十二代文兵衛 明和7年生 壽73歳 妻72歳
 右下の人物は左下隅に名があり、この絵を描かせた十四代儀兵衛で、十二代文兵衛の長子である。摂州浪花島之内柳町住。大坂に出ていた儀兵衛は、父が亡くなった(1842)直後に、この絵で先祖を祀ったのであろう。
 左上の文
「伊予国宇摩郡小林當主近藤日向守義信の弟同苗将監は 天正13乙酉秋8月天満村に移りて、世家**なり。その子松太郎天正8年誕生なり 寛永10年癸酉6月28日没 享年54。その嫡同苗六之丞 齢87なり。その嫡子同苗六郎右衛門 寛永16年(1639)誕生より享保6年(1721)辛丑秋9月5日没 齢83。」
 **世家(せいか) 官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄

検討と考察
1. 松平頼純の就封は寛文10年であるが、書込者は、寛文9年と記憶違いをしている。六郎右衛門が28才(数え年)の時は、(1639+27=1666)寛文6年となるが、西條藩主の一柳直興が改易されたのは、寛文5年である。書込者は、一柳改易と松平就封を勘違いしている。なお28才と「御銅山口屋仕なり」とは、無関係である。
 近藤六郎右衛門は、御銅山口屋仕(くちやつかえ)であった。別子銅山開坑の元禄4年(1691)に、六郎右衛門は53才であったが、その歳でも活力十分であったことは、83才まで生きたことから推定できる。別子銅山開坑に向けて、六郎右衛門は持てる知力・財力・人脈などで川之江代官所や大庄屋寺尾九兵衛に協力したのではないか。そして、開坑後に「口屋仕」として働いたのではないか。
 忰の近藤嘉兵衛も御銅山御用口家(屋)とあるので、父の六郎右衛門が天満の口屋で数年勤めた後、退職し、息子の嘉兵衛が継いだと思われる。
 「寛永通宝銭をゐる」とは、「銭を鋳る」かと思い、四国内の寛永通宝鋳造所の存在を調べた。その結果、鋳造所はないことがわかったので、「鋳る」ではない。「率る」が正解で「携える、添えて持つ」意味であろう。すなわち、「寛永通宝銭を持っていた、時代の先端を生き裕福であった」ことを表していると思われる。薄黒塗り部分が「宴を楽しみ求む豊富」と読めることもそれを裏付ける。金勘定だけでなく、俳諧などを嗜む風流人でもあったようである。
 家は、寛文10年に松平西条藩初代藩主松平左京頼純の領地となった上天満村の、後に出店と呼ばれる地区にあった。「出店」は泉屋の支店であるが、その中又は隣に川之江代官所の役所「口屋」があったと筆者は推測するので、もしそうであれば、勤め先は家の直ぐ近くである。
 近藤家初代は小林村近藤日向守儀信で、その弟の将監が、天正の陣の直後、天正13年8月に天満村に移り住んだ。小林渋柿城が落城したので逃れてきたのか、秀吉側について乗り込んできたのかはわからない。世家とあるので、官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄である。五代六郎右衛門は絵図から判断すると、最も勢力があった当主のように見受けられる。

2. 「口屋仕」とは何か
 六郎右衛門の過去帳への記載は、没年の享保7年(1722)以降である。さらに余白に「御銅山口屋仕」と書き込まれたのはそれ以降になる。一方、享保7年には、既に新居浜で口屋と称している。よって、この過去帳は、天満村で「口屋」と称していたという証拠にはならない。書込者が、新居浜の例を知っていて、口屋仕と記した可能性があるからである。
 しかし前報で記したように、川之江代官所が産銅や米などからの税を算定するための役所として「口屋」と称していた可能性がある。これは元禄時代の川之江代官所の文書の中に「口屋」があればその存在を証明出来るのであるが。
 六郎右衛門および嘉兵衛の名は、泉屋の天満出店の4名の手代の中にはない。よって泉屋に仕えたのではない。ではどこに仕えたのか。口屋仕は、川之江代官所の現場詰「口屋」に仕えたのではないか。
 なお六郎右衛門の曾孫が伊予聖人「近藤篤山」(1766-1846)である。2)
近藤六郎右衛門――高橋徳右衛門正方(小林村高橋家の養嗣子となる)――高橋甚内春房――近藤篤山(近藤姓に復した)。

まとめ
天満村の住人で元禄時代を生きた、近藤六郎右衛門およびその忰嘉兵衛の過去帳には、御銅山口屋仕と書き込みがあった。泉屋の出店の手代ではない。川之江代官所の現場詰「口屋」の役人であったと推定した。


近藤嘉豊様には、史料のブログ公開を許可していただきお礼申しあげます。

注 引用文献
1.「天満・天神学問の里巡り」(2021)70番「近藤六郎右衛門」(岡本圭二郎著 館報199号(2007))
2. web.データベース「えひめの記憶」(愛媛県史(昭和60年3月31日発行)) 愛媛県史>学問・宗教>学問>漢学・漢詩文>朱子学派>昌平黌派①>近藤篤山

写1 近藤六郎右衛門夫妻の過去帳


写2 近藤六郎右衛門夫妻の墓碑


写3 近藤家先祖三人の絵図


天満村寺尾九兵衛(17) 出店(でみせ)と口屋(くちや)

2024-10-20 08:46:12 | 趣味歴史推論
 「出店」は、住友史料館によると、江戸時代の通例で「でみせ」または「でだな」と呼ぶ。1)支店、出張所である。「出店」は泉屋が付けた呼称であろう。ただ天満の出店の仕事状況については、活字になって公表されている住友史料中に見つけられなかった。天満村では「でみせ」と呼ばれていたことは、現在でも出店があったとされる地区は「出店」(でみせ)と呼ばれていることから推定できる。
「元禄8年8月覚留帳」によれば、1)2)の天満にいた泉屋手代は4人で、庄右衛門(阿州)、徳右衛門(大坂)、惣兵衛(紀州)、作兵衛であった。「出店」に常駐していたのであろう。また「11月中頃外財人数改覚」には、乙地中持180人、天満中持200人と書かれている。

 「口屋」とは、本ブログで明らかにしたように3)、石見銀山の柵の出入り口に設けた家屋のことで、人の出入りを厳重に管理すると共に、幕府(大久保長安)が「銀・米」の量をチェックし税を算定する役目を担わせたことに由来する(元和年間(1615-1623)の絵図)。その後佐渡金山では港に「口屋」が設けられたのである(天和年間(1681-1684)の絵図)。これが別子銅山にも適用された。よって「口屋」は、幕府側の仕事からつけられた呼称であり、銀金銅山に出入りする銀金銅・米・炭などの数量をチェックし、課税算定をするのが第一の最も大切な仕事である。
 しばしば「口屋(浜宿)」と書かれるが、宿は口屋に付随した建物であり、泉屋などの民間がしたのである。筆者としては、「口屋(浜宿)」の表示は、口屋本来の仕事を誤解させるので好ましくないと思う。石見銀山では、柵の出入り口だけでなく、そこに行く道筋にも口屋が設けられて、物流、人流から税をとったのである。なお時代を経て、「口屋」から「番所」に名称が変わったところもある。
 新居浜口屋(口家)の初出は宝永7年(1710)である。この時は、「立川口家」も書かれている。4)それ以前の宝永4年(1707)では「新ゐ浜役所」と記録されている。このことから、元禄の天満村で「口屋」と呼ばれていたかはわからない。
 しかし、川之江代官所の現場詰役人の1~2人が天満村にいたはずで、その場所および役職を本報では「口屋」と仮に呼ぶことにする。

1. 出店はどこにあったか。
 寺尾勉氏の娘さんが「父から聞いた話」では、出店は寺尾勉氏宅(天満451)に南北の道路に面してあった。 →図1
大きさは、5間×3間位。証拠になる遺物はない。荷馬の両側に粗銅を掛けて運び、出店で銅量をチェックし、押印したと伝わる。向かいにも関連施設があったかもしれない。
この四辻には、水神地蔵(寛政元年(1789)己酉4月吉日)と水神祠、「金 奉燈」の常夜燈(江戸末期~明治?)があるが、5)元禄当時のものではない。→写
なお図1には、筆者が推定する粗銅が運ばれた道を赤線で示したが、詳細な検討は後日にしたい。
 これらのことを参考にして筆者の推理は以下のとおり。
「泉屋の出店において、荷馬で運んできた粗銅を泉屋手代がチェックし押印した。道路を挟んで東向かいの屋敷には、物品倉庫、宿、飯屋があり、荷馬を停め、人が集まる広場があった。」→図2

2. 口屋はあったか、どこにあったか。
 地名としては残っていない。川之江代官所の現場詰役人が、徴税のための粗銅や米などの物流をチェックするには、出店近くにいるのが一番便利で確実である。数量調べなどの実務は泉屋手代がやるので脇でそれをチェックすればよいからである。よって口屋は、出店の家屋の一室又は隣にあったと筆者は推測する。→図2
 1~2人の役人詰め所は小さいので、有名ではなく、出店の名前だけが残ったのであろう。天満浦に口屋を設けて常駐するのは役人にとって負担が大きすぎる。

3. 粗銅倉庫はあったのか。
 粗銅倉庫が海岸沿いにあったという話もあるが、証拠がない。
出店から伝馬船に載せる天満浦まで約1.8kmある。元禄14年(1701)の産銅量1322トンなので一日あたり1322トン/365日=3622kg/日となる。荷馬に掛けて運べる重量は一駄(2丸 36貫=135kg)であるので、6)一日あたり(3622/135=)27駄となる。大坂への銅廻船(弁財船)の大きさには2種類あるようで、積んだ粗銅の重さが8~9トンの船と15~16トンの船である。7) 銅廻船に粗銅15トン積むには(15000/135=)111駄必要となる。日数でいえば、(111/27=)4.1日分である。
 筆者は、銅廻船が出帆するまでの流れを以下のように推測する。
出店で通過する荷馬に積んだ粗銅の重さ(紙に書かれている)を記録→そのまま荷馬で天満浦に到着→伝馬船に積み込む→銅廻船に運ぶ→銅廻船で所定重量に到達→大坂へ向けて出帆
銅廻船そのものを、粗銅倉庫とすると最も効率がよいのである。よって、海岸には粗銅倉庫はなかったと推測する悪天候や突発事情発生の場合は、粗銅を一時保管する小さな倉庫は必要なので、それは、出店の向かいに設けていたのではないかと推測する。

まとめ
1. 元禄8年天満の出店には泉屋の手代が4人いた。天満中持は200人いた。
2. 川之江代官所の現場詰役人1~2が、課税算定の銅量をチェックするため、出店隣の口屋にいたと推測した。
3. 粗銅倉庫は海岸にはなく、小倉庫が出店近くにあったと推測した。


住友史料館様には、回答をいただきお礼申しあげます。

注 引用文献
1. 住友史料館よりの回答(2023.7.25)
2. 「別子銅山図録」p29「元禄8年亥8月覚留帳」の豫州手代覚の内・天満(別子銅山記念出版委員会編集・発行 昭和49年 1974)
3. 本ブログ「口屋の名の由来」(2019-3-24)
4. 本ブログ「新居浜口屋といつから呼ばれたか」(2019-4-17)
5. 「天満・天神学問の里巡り」(2021)44番(岡本圭二郎 館報173号(2005))
6. 本ブログ「別子荒銅1丸の荷姿は?」(2020-1-16)
7. 本ブログ「元禄期に別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主は?」(2020-8-23)

図1 天満の出店の位置(明治39年測図41年発行の5万分1地形図(国土地理院)に記入した。赤線は粗銅が運ばれた道)


図2 出店まわりの配置想像図

写 出店四辻の水神地蔵と常夜燈