気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(16) 見世野墓地の大きな五輪塔は五代善三春清のではないか

2024-10-13 08:36:31 | 趣味歴史推論
 別子銅山と関わりのあった五代、六代寺尾九兵衛の墓碑を2年間探してきたが、発見できなかった。ところが上天満江戸屋一統の寺尾家の墓守り庵である見世野庵のある墓地(以下見世野墓地と呼ぶ)にお参りして(2024.9.6)、発見があった。墓地中央奥(南側)には、天満村で最大と思われる古い五輪塔があったのである。天満村大庄屋寺尾九兵衛当主より大きな五輪塔を他の人は格式上建てられなかったと推測するので、この五輪塔は、繁栄した五代か六代の墓碑の可能性が高いと思った。刻字はほとんど読めず、地輪のどの面に戒名が書かれているかもわからなかった。これより少し小さく、刻字が読めない五輪塔が他に5基あり、合計6基は、丁重な配置がなされお祀りされていた。→図 
主な3基の大きさを計測した。→図
 見1は、最も大きく、水輪(玉)の径48cm(1.6尺)、高さ(五輪+上台=)228cmであった。観音堂墓地の観5の五輪塔(二代貞清)玉径45cm(1.5尺)高さ(五輪+上台=)183cmより一回り大きい。6基の五輪塔は、観音堂墓地のものより、刻字が風化していてよく読めない。石材の違い、彫った石工の違いが出たのだろうか。
 見1,2,3の地輪の各面を写真に撮り、判読できそうな刻字を探し、四代~八代寺尾九兵衛の戒名と比べた。見1にわずかな刻字の手がかりがあったので、その結果を示す。

見1 五輪塔 →写1
 地輪西面の戒名に相当する位置(第2字)に「穹」と読める穴部(あなかんむり)の字がある。→写2

四代~九代寺尾九兵衛位牌の俗名と戒名は次の通りである。
四代九兵衛  明春     凉月浄慶居士
五代九兵衛  善三春清   明穹法欽居士
六代九兵衛  宗清     一白浄卯居士
七代九兵衛  庸清     實嚴道怒居士
八代(九兵衛)貞之進英清  松嶺慈雲居士
九代(九兵衛)米次郎富清  隆興院貞翁了観居士

戒名の第2字が「穹」なのは、五代九兵衛 善三春清のみである。
このことから、見1五輪塔は、五代春清の墓碑とみてほぼ間違いはないと思うが、「穹」の読み取りに全く問題がないともいえない。春清は、田向重右衛門と会見した別子銅山開坑時の天満村大庄屋で、寺尾家にとっても最重要人物である。五輪塔の大きさと保持した力の大きさから判断して、妥当と思うが、より確実にするために他の証拠も見つけたい。
 見2,見3の五輪塔地輪の刻字ははっきり読める字がない。戒名と見比べてなんとなくそのようにも読めるかなという頼りない程度のものである。それであれば、見2は六代宗清(ツタの夫)、見3は四代明春とも思えるが、今後の検討が必要である。
 見4,見5、見6に至っては、全く読めない。しかし墓碑が据えられている位置から、本家の当主のではないかと推測する。
 江戸屋一統の寺尾家が、本家大庄屋寺尾九兵衛五輪塔を大事にお守りすべくこの見世野墓地に移設したと思われる。その時期は古老の話では昔からここにあったというから、少なくとも昭和25年以前である。昭和初期~大正の時代かもしれない。坂之内池を築造したツタの五輪塔が井源寺へ移設された時期ではないかと思われるので、それがいつかを知ればわかるのではなかろうか。

まとめ
見世野墓地の大きな五輪塔は、五代善三春清の墓碑と推定した。
あとの5基の五輪塔は、四代~九代のものではないかと推測する。


調査を一緒にして頂いた岸幸男様に感謝申しあげます。

図 見世野墓地における古い五輪塔の配置と見1、見2、見3の大きさ


写1 見1五輪塔(五代春清か)


写2 見1五輪塔の地輪(西面) 囲んだのは「穹」と読める字


写3 見2、見3五輪塔 高い方が見2


写4 見4、見5、見6五輪塔 (背面(南)からの写真)


天満村寺尾九兵衛(15)天正陣の時天満村に住み 薦田氏の幼子を守り育てた

2024-10-06 08:29:45 | 趣味歴史推論
 見世野庵は上天満江戸屋一統の寺尾家の墓守り庵である。1)→写1 そこの墓地(井源寺の400m西の丘)におまいりし調べさせていただいた(9月6日、19日)。高さ4m超の五輪卒塔婆が建ち、その右脇に「乳母の墓」がある。→写2

 五輪卒塔婆
  為故寺尾嘉兵衛宅清三百週年記念供養塔
  昭和53年8月吉日 施主子孫一統建之 (1978)
  六大無礙常瑜伽 四種曼荼各不離 三密加持速疾顕 重々帝網名即身

 乳母の墓  寺尾嘉兵衛宅清幼時の恩人を偲ぶ


 五輪卒塔婆は、江戸屋一統寺尾家の祖である寺尾嘉兵衛宅清の300周年記念の供養塔である。家紋は日の丸三つ扇である。塔には、「即身成仏義」に出る偈(げ 仏の徳をたたえた韻文体の経文)が刻まれている。2)
「ろくだいむげじょうゆが ししゅまんだかくふり さんみつかじそくしっけん じゅうじゅうたいもうみょうそくしん」[ 六大(地・水・火・風・空・識)は無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)である。四種の曼荼羅は各々離れず関係を持ち、三密を加持すれば速やかに顕れ、帝網の如く無尽に働く、これを即身と名付ける ]
江戸屋一統は結束が堅く、年に1回集まって先祖の法要供養をしている。

1.  江戸屋一統の人から聞いた話では、「天正の陣(1585)の時、寺尾九兵衛の先祖の家人が渋柿城主薦田氏の子の乳母となっていて、落城の際その子を天満村に連れてきて、寺尾家で育て、成人した後、寺尾家の分家として独立させた。その後裔が江戸屋一統にあたる。」とのことである。五輪卒塔婆と乳母の墓の存在からみると、この話はほぼ史実だと納得する。寺尾嘉兵衛宅清は、その時の幼子である。寺尾嘉兵衛の年齢をチェックすると、没年は(1978-300=1678)延宝6年となる。幼子が天正13年(1585)生まれとすると(1678-1585+1=)享年94となる。あり得る。
 この史実から、天正13年(1585)には、寺尾家は薦田家と交流があり、天満村で力を持っていたことが分る。そして寺尾家は天正の陣より前に天満村に住んで居たという証拠であり、また秀吉側ではないと分る。
天正の陣の頃の家主は、初代寺尾九兵衛の父(または祖父)であったと推測する。そして寺尾家は天正13年より2~3世代位前に天満村に来たのではないかと推測する。(20年×(2~3)=(40~60)年即ち1585-(40~60)=)1525~1545年頃となる。

2.  豊臣秀吉の四国攻めの命を受けた小早川隆景軍によって西条の野々市原の合戦(天正の陣)で討死したのは、渋柿城主薦田市之丞国行であることは、予陽河野家譜、澄水記、天正陣実記で示されている。3)4)5)6)7)8) 薦田治部進義清としたものがあるが、渋柿城主であった義清は、天授5年(1379)に北朝方の細川頼之氏との戦いで南朝方の河野氏と共に戦い、討死しており、時代が200年も違うので、これは誤りである。
よって、寺尾嘉兵衛宅清は、渋柿城主薦田市之丞国行の子の可能性が高い。

3.  一方、江戸屋一統の墓碑の中に次の銘文を見つけた。

 故寺尾百太郎翁夫妻之墓
 「故寺尾百太郎翁考篤次之嫡男而小林渋柿城主薦田備中守之末裔也」


 寺尾百太郎翁(昭和14年9月6日没 行年80才)は、明治39年(1906)に柑橘栽培を始めて、天満の蜜柑栽培の礎を築いた。9)翁の墓碑に「小林渋柿城主薦田備中守の末裔なり」の銘文がある。これはすなわち寺尾嘉兵衛宅清は、薦田備中守の子であるということである。
そこで、薦田備中守について調べると、薦田備中守は、天正の陣の当時、土居畑野の中尾城主薦田備中守儀定のことである。小林の渋柿城主と同族である。小林渋柿城は、天満神社から直線距離にして4km南東にあり、畑野中尾城は、天満神社から直線距離にして5km南にある。
 ここから話が複雑であるので、薦田錦一作成の薦田氏略系図によることにする。10)→図1 
 儀定の没年は天正15年8月とあり、天正の陣の2年後である。儀定のいとこの四郎兵衛吉清が、天正の陣で高尾城討死した。儀定は、天正の陣で中尾城から追われて、幼子がいれば、運良くどこかに逃れたかもしれない。その幼子らが戦いの前に、渋柿城に集められていたかもしれない。
ただ、墓碑の「小林渋柿城主薦田備中守」という書き方は、上記の系図とは異なる。薦田備中守を立てるなら、畑野中尾城主薦田備中守と書かれるべきであるが、渋柿城主としたのは何か根拠があるのであろう。300周年記念の供養をしたということは、寺尾嘉兵衛宅清の位牌か過去帳で没年や出自が分っているのかもしれない。
 筆者には、寺尾嘉兵衛宅清が、小林渋柿城主薦田市之丞国行の子か、畑野中尾城主薦田備中守儀定の子かをはっきりすることはできない。いづれにしても薦田氏の血を引いた子であることは、寺尾家の示した処遇から間違いないと思われる。

まとめ
初代寺尾九兵衛の父(または祖父)は、天正陣の時天満村に住み 薦田氏の幼子を守り育てた。その幼子が上天満の江戸屋一統の寺尾家の祖である。


 江戸屋一統の4人の方々にお話を伺いました。暁雨館の石川様には渋柿城主についてヒントを頂きました。皆様にお礼申しあげます。

注 引用文献
1. 「天満・天神学問の里めぐり」51番「天満の仏像 見世野庵の地蔵菩薩」→写1
2. ホームページ web.「石造美術の偈頌(げじゅ)」>ろ
3. ホームページ「四国中央市立小富士小学校」>小富士の歴史と風景>薦田義清墓所(薦田神社)
4. 「澄水記」(宝蓮寺尊清法師著 貞享元年1684)国会図書館デジタルコレクション「四国史料集」の中にあり。p382(山本大校注1966 人物往来社)
「畑野の城に薦田四郎兵衛、渋柿の城に薦田市之丞--」とあり。
5. 「予陽河野家譜」巻6(天正15年までの河野家譜)「渋柿城主薦田市之允(じょう)」とあり。
6. 「天正陣実記」(海部光顕写1856)中萩古文書を読む会の現代文訳(解読 松本俊清 1991)
「畑野の城に薦田右兵衛吉清-----渋柿の城には薦田市助-----」とあり。
7. 日野和煦「西條誌」(1842)には、「天正陣実記には渋柿城主薦田市之丞国行」とあり。
8. 信藤英敏「川之江の城と武将」(1970)「渋柿城主薦田市之丞国行」とあり。
9. 「天神・天満学問の里めぐり」66番「天満の先人 寺尾百太郎(1859-1939)」
10. 薦田錦一「武蔵七党児玉党 薦田氏の展開」(昭和56 1981)国会図書館デジタルコレクション
 巻頭に略系図→図1
 p9に「薦田氏は徽証に乏しいが、伊予土居に西遷した幕府御家人であり、児玉庄大夫家弘の後裔で、南北朝時代既に東予の豪族であった。」とある。先祖は武蔵薦田(埼玉県児玉郡美里町小茂田)に住し、薦田と称す。
 p61に 引用した「天正之陣実記」には「高尾城へ入城した軍将は、-----畑野城主=木山砦東禅寺城主薦田四郎兵衛吉清-----畑野中尾城主薦田備中守儀定-----渋柿城主薦田市之丞国行-----」とあり。

写1 「天満・天神学問の里めぐり」51番「天満の仏像 見世野庵の地蔵菩薩」


写2 寺尾嘉兵衛宅清三百週年記念供養塔と乳母の墓


図1 薦田氏略系図(薦田錦一「武蔵七党児玉党 薦田氏の展開」より)


天満村寺尾九兵衛(14) 牛頭天王宮の鳥居と五代春清の事蹟

2024-09-29 08:26:04 | 趣味歴史推論
 八雲神社には、天満神社の鳥居に次いで、土居町で二番目に古い鳥居がある。1)

1. 牛頭天王宮鳥居(1686)→写真1,2,3

 願主 土居村・天満村 当氏子中
 貞享3年丙寅8月25日 石大工大坂 久右衛門


 八雲神社の由緒によれば2)、鳥居の建立年(1686)には、牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)であった。願主は、土居村・天満村の当氏子中である。元禄の天満村を描いた「西条藩領内図八折屏風」 には、単に「天己う」(てんのう)と記されている。3)4) 
 天満神社に続いて、今度は大坂石工による鳥居が建てられたことから、天満村は、他との交流が盛んな土地であったことがわかる。
この時代の頃、西国では多くの飢饉・疫病が記録されている。5)6)
 ① 寛文11年(1671)水痘流行
 ② 延宝2~3年(1674~5)西国“延宝の大飢饉” 停滞した前線と台風により大水害、死人巷に満ちたり。 
 ③ 延宝7年(1679)疱瘡流行
 ④ 延宝9年(1681~2)第2次延宝の飢饉
 ⑤ 天和2年(1682)疱瘡流行
 ⑥ 貞享元年(1684)はしか?流行 長崎で7000人死亡。西国から東海、江戸に侵入?
これらの災害は土居、天満でもあり得たと推定する。牛頭天王宮や八幡宮に氏子中で鳥居を寄進して、無事息災を祈ったであろう。

2. 貞享元年(1684)八日市領中村、西条領土居間に水論起り、天満村庄屋寺尾九兵衛、蕪崎村庄屋加地新兵衛扱いでやっと内済解決(4~6月)7)8)
古文書に記載されている大庄屋寺尾九兵衛の事蹟は、非常に少ない。その中の一つである。
浦山川より取っている井手水に関しての水論(みずろん、すいろん 田に引く水の配分をめぐって争うこと)である。内済(ないさい 和解)の扱人(あつかいにん 仲裁者)となった。
この寺尾九兵衛は五代善三春清であったろう。田向重右衛門一行に会った人物である。
                                
まとめ
貞享3年牛頭天王宮に願主土居村・天満村の氏子中で大坂石工製作の鳥居が建立された。このころ寺尾九兵衛は、水論の扱人となった。


注 引用文献
1. 「天神・天満学問の里巡り」26番
2. 本ブログ「伊予軍印(3)八雲琴創始者の中山琴主が奉納した可能性が高い」
3. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(6)「西条藩領内図八折屏風」に描かれた元禄の天満村」
4. web.箕面市観光協会>牛頭天王信仰 より
「牛頭天王信仰:牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。また、祇園精舎の守護神であるので、この神を祭った場所は、しばしば祇園と呼ばれる。京都祇園の八坂神社は、貞観年間(876)に円如が播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間(877)、摂政藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て祇園社と呼んだのに始まる。天禄元年(970)、悪疫を鎮める祇園御霊会(祇園祭)が始まったと云われる。当時は医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていった。牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれたが、民衆にとって、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことであった。」
5. 富士川游「日本疾病史」上巻p46(吐鳳堂 明治45 1909) web. 国立国会図書館デジタルコレクション37/182コマ
6. WEB防災情報新聞>日本の災害・防災年表「感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時・医療編」
7. 土居町郷土史料第8集 村上光信編「旗本八日市一柳氏関係史料集成」p91(土居町教育委員会 1994)
8. 土居町郷土史料第3集 村上光信編「西条藩土居組大庄屋加地家文書目録Ⅱ」p39-42(土居町教育委員会 1983)

写1 八雲神社の鳥居


写2 鳥居の右柱


写3 鳥居の左柱


天満村寺尾九兵衛(13) 天満神社の鳥居と三代成清寄進の石燈籠

2024-09-22 08:39:55 | 趣味歴史推論
 天満神社には、土居町で最古の鳥居と石燈籠がある。
1. 八幡宮鳥居(1674) →写真1,2,3

  奉寄進石鳥居 願主 惣氏子中
   旹延寶2甲寅年6月25日  
  備州御調郡尾道住大工
          徳右衛門
          七三郎 
          次郎


 前報の由緒によれば、鳥居の建立年(1674)には、まだ天満宮は円蔵地にあったので、この鳥居は、八幡宮の鳥居として建てられた事になる。願主惣氏子中とあるので、氏子全員が費用を出し合い、大庄屋寺尾九兵衛成清がまとめて、尾道の石工に製作を依頼したのであろう。明神鳥居である。「天神・天満の里巡り」1)によると、土居町内で最古の鳥居である。石工は尾道の徳右衛門・七三郎・次郎であるが、3人の名は、「尾道の石造物と石工」2)の17世紀(江戸時代前期)の石工11人の中には、見つけられない。この鳥居は、尾道石工の製作した鳥居の中でも古い方に属する。昭和43年(1968)参道を緩やかな道に付け替えた際に、石段を登る手前にあった鳥居を現在地に移した。柱の高さ3.6m、笠木5.0mの一枚岩の花崗岩で、反りがあり、柱は地面に対して少し傾斜(転び)をつけて建てられている。貫と額束は移設の際、損傷したので新たな石に代えられた。
 寛文7年(1667)には、坂之内池自体は築造できたので、その水を山のこちら側に導けるよう村人は祈願したであろう。延宝2年(1674)には、大庄屋役は三代成清から四代明清へ引き継いでいると思われる。

2. 八幡宮手水舎脇の石燈籠(1681) →写4

   延寶辛酉9年6月25日 
  奉寄進 石燈籠
   寺尾成清

 
 隠居した三代成清が没する3年前に寄進した石燈籠で、土居町で最古の石燈籠である。3) 花崗岩で、下台も含めて180cm(6尺)の立派な燈籠で、刻字は整っており劣化も少ない。石工の名はないが、これもやはり尾道石工であろう。
 寺尾大庄屋の墓守の庵として創建されたという観音堂(宮山の裾にある)にも似た石燈籠があるが、刻字は劣化して読めない。
                                
まとめ
天満神社には、土居町で最古の鳥居と石燈籠がある。
鳥居は願主氏子中で尾道石工の製作であり、石燈籠は三代成清の寄進である。


注 引用文献
1. 「天神・天満学問の里巡り」26番
2. web. 尾道市日本遺産調査報告書「尾道の石造物と石工」(平成28年 2016) 
3. 「天神・天満学問の里巡り」27番

写1 天満神社の鳥居


写2 鳥居の右柱


写3 鳥居の左柱


写4 寺尾成清寄進の石燈籠


天満村寺尾九兵衛(12) 文明9年高橋太郎衛門が天満宮を建て天満村と名付けた

2024-09-15 08:27:07 | 趣味歴史推論
 天満神社の由緒と天満村の名の由来を探る。
1. 天満神社の由緒
 社伝によると、以下のとおりである。1)
八幡宮:白鳳2年(673)2月第40代天武天皇御代に応神天皇(八幡神)を産土神(うぶすなかみ)として、王地山(おうじやま 大地山、宮山(みやま)、縁山とも言う)に鎮祭せり。
天満宮:延喜元年(901)菅原道真公太宰府に赴く途中、海上波荒く植松の海岸(現在の天神浜)に船を停め宮山に登り憩い給ひしに、一日一夜にして風浪静まり御西下されたと云う。その翌年延喜2年(902)道真公の木像が植松の海岸に漂着し給ひしを、高橋太郎衛門これを拝し天暦2年(948)6月橋ノ川の地(円蔵地2117)に小社(御所神社)を造り、天満大神と崇め祀りしが、後戦火により焼失す。(後裔の)高橋太郎衛門、村人と謀り、文明9年(1477)6月25日社殿を再建し氏神と称え、また村名も天満と改め、爾来八幡宮・天満宮と称し両者各社殿を構えたり。元禄8年(1695)11月、本殿焼失せしをもって再建に当たり、菅公縁の地なりし宮山を清浄の地と選び、大庄屋寺尾九兵衛の寄進によって元禄11年(1698)9月社殿を建立し両社を奉斉し現在に至る。
                                
2. 円蔵地の天満宮
 応仁の乱が終息した文明9年(1477)に再建され元禄8年(1695)に焼失した天満宮社殿はどこにあったのか。文面から解釈すると、橋ノ川の地(円蔵地2117)となる。直線距離にして天満神社から400mの真東にあたる。この天満宮が元禄8年(1695)に焼失したので、元禄11年(1698)に現在の宮山(大地山)に再建されたと推定できる。
円蔵地2117の御所神社の場所は、現在畑中でエノキの大木が茂っている所で、新しい小社が建てられている。
 平成6年(1994)10月吉日 高橋家一同建立    →写1
 御所とは、天皇、親王、将軍、大臣以上の公卿またはその人たちの住居を指す言葉なので、ここでは、菅原道真公を指している。天満宮が宮山へ移された(元禄)後、円蔵地に残った神社の地を御所神社と呼んだのか、明治17年の地図にあるように、明治になってから、そこを御所神社と名付けたのであろうか2)。なお円蔵地とは、清賢寺(現井源寺)に属した円蔵寺(青年僧の寄宿寺)に由来する。3)
 由緒によると、文明9年(1477)当時の村の長は高橋家であったであろう。まだ寺尾家は居なかったと思われる。

3. 故高橋太郎衛門霊碑と旭社 →写2、3
 故高橋太郎衛門霊碑と旭社が、宮山の天満神社本殿の右脇にある。
石碑は自然石(青石)で 台+柱=137cm 柱幅60cm 厚み25cmである。戒名や没年月日が記されていないことから、後世の人が故人の霊を祀るために建立したのではないかと思う。建立年も刻まれていない。
 故高橋太郎衛門霊
「翁ハ菅原道真公ノ木像槌松ト唱ス海岸ニ漂流シ給シヲ拝シ所有ナル地所ニ小社ヲ造リ天満天神ト崇メ奉リシヲ文明九年六月本殿建築村民ト謀リ氏神と称へ遷床ノ后村名モ天満ト改メリ」
① 木像が漂着した海岸名がこの石碑では「槌松」(槌のようだが少し違うようだ、しかし辶があるので植ではない)、天満神社沿革の御由緒では「植松」とあり、異なる。天神の浜付近は昔なんと呼ばれていたのか。 
② 文明9年(1477)の「遷床」(刻字は「床」の木が水となっているが、木として読んだ)とは、木像が円蔵地の小社から円蔵地の本殿(同じ敷地)へ遷ったと解した。
 旭社
 旭社は、地域の守護神を祀る神社のようである。現在の社殿は新しい。
 旭社の脇に横たえられていた石燈籠の竿(径20cm 長さ60cm)には、→写4
   宝永元甲申年九月吉日(1704)
   寄進石燈籠
   寺尾十右衛門
 とある。この石灯籠が旭社の創建時に建てられたとすると、宝永元年(1704)創建となるが、正しいかどうか分からない。
 
まとめ
1. 文明9年(1477)高橋太郎衛門が円蔵地に天満宮を建て、村名を天満と名付けた。
2. その当時には、寺尾家は居なかったと思われる。


 天満の岸幸男様、大久保繁昭様に多くを教えていただきました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1. 「天満神社沿革」
2. 本ブログ 天満村寺尾九兵衛(8)「慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」中の写1 宇摩郡地図(明治17年 1884)
3.  長恵敞「井源寺縁起」p2(昭和48年 1973)

写1 円蔵地の小社(御所神社)


写2 故高橋太郎衛門霊碑と旭社


写3 故高橋太郎衛門霊碑の背面の銘文


写4 旭社の脇に横たえられていた石灯籠の竿