江戸時代の鉱山の技術書で、素吹で珪石が添加されている記述がないかを調べている。
羽州佐竹藩の鉱山役人黒澤元重が元禄4年(1691)に著した「鉱山至宝要録」を調べた1)。主に羽州院内銀山について記されており、銅山の記述は少ないが、関係ありそうなところのみを抜粋して以下に示した。( )は筆者書き入れ。
7 .吹立方
(焙焼)竈を拵置、其釜の内一面に炭薪を敷き、其上へ掘出したる鉑を置き、又其上へ炭薪を置き、又鉑を能き程幾く程も積みて、火を入れ、20日も30日も焼くに、釜に大小あり、ぬり様・風穴の掛け様など上手下手有て、拵え悪しければ、焼かね、むら焼にもなるなり。釜の蓋には莚・笊をかくる。少々水うつ、是を焼と云。右の焼には色々拵様も、鉑の燃しやうもあり、末へ出すなり。
(素吹)右焼たる鉑を床にて吹き、よい頃と思ふ時、上の火を除き、からみ(鍰)をかき除け、銅ばかりに成たる時、竿の先へ鍵を付たる物にて、銅の湯の上の氷りたるを、鍵にかけてあくれば、薄くへぎ取らるゝなり。其の如く、10枚も15枚も、へぎ取らるゝ内は取り、へがれぬ残りを床尻と云ひ、へぎ取りたるを皮(鈹)と云、この床を寸吹(すぶき)床と云ふ。
(真吹)右寸吹したる皮を、又床にて吹て銅にするなり、是を真吹銅と云。寸吹時の床尻は、真吹に及ばずして、銅に成る。寸吹床と真吹床は、其拵違ふなり。銀吹床とは、勿論違ふなり。
(銀しぼり)真吹したる銅も床尻の銅も、別床にて銀しぼり取り、この床をしぼり床とも南波(なんば)床とも云。
まとめ
「鉱山至宝要録」には、素吹での珪石添加の記述はなかった。
注 参考文献
1. 黒澤元重「鉱山至宝要録(上)」 三枝博音編纂 日本科学古典全書 第10巻 「第3部 産業技術篇 採鉱冶金(2)」p34~38(朝日新聞社 昭和17年 1942)
2. 三枝博音解説「著者黒澤元重」1のp3~4
黒澤元重は、延宝2年(1674)に「かね山」の役を申付けられ、同4年まで一人で勤め(惣山奉行)同5年からは同役一人増し二人で勤め、延宝8年には役替りがあり、惣山奉行から離れている。延宝9年(1681)に江戸から御巡視の衆が来藩した時、お尋ねに応じている。天和、貞享年間も院内銀山のことに当たり、元禄2年には江戸の御勘定奉行より藩の金山の事を尋ねられた時、元重自ら記録を差上げてゐる。江戸にも赴いてゐる。仕えた藩主は、佐竹義宜、義隆であったやうである。没年不明。著述のことも本書(至宝要録)以外は不明。
3. Wikipedia「院内銀山」からの抜粋
院内銀山(いんないぎんざん)は、秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山である。「東洋一」の大銀山とうたわれ、年間産出量日本一を何度も記録している。院内銀山は、1606年(慶長11年)に村山宗兵衛らにより発見され、開山した。1617年にローマで作成された地図にもその名が記されている。金及び銀を産出し、江戸時代を通じて日本最大の銀山であった。久保田藩(秋田藩)によって管理され、久保田藩の財政を支える重要な鉱山であった。 江戸時代の中期に、鉱脈の枯渇により一時衰退の兆しを見せたが、1800年以降新鉱脈の発見により持ち直し、鉱山の最盛期には、戸数4,000、人口15,000を擁し、城下町久保田(現在の秋田市)を凌駕する藩内で最も大きな街となり、「出羽の都」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。