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三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた

2022-07-17 08:31:31 | 趣味歴史推論
4. 今村祇太夫義元1)
義元 勝義の長男 義太夫とも称す、三島「油屋」の2代目。元禄14年(1701)7月14日没 享年62才(推定) 鐘鋳原に葬る。
妻は今村義広の10才上の姉(従兄の子)で、宝永7年(1710)11月11日没享年68才 法名 本光院実蔵玄蔵玄真大姉
義元の長弟義明は、「鍵屋」の祖となる。次弟新平は、西条藩井上家養子となる。末弟義重は、「鍵屋」を継ぎ三島に住み茂右衛門と称す。
義元の子は、義片祇太夫と称し、今治藩より中小姓格を賜る、寛延3年(1750)没 享年75才。」

5. 今村義広
(1653生~1726没) 祇太夫の妻は、祇太夫の従兄の子で、その弟が中田井今村家5代義広である。義広は、祇太夫の一回り下であるが、ほぼ同時代を生きた。義広は、宇摩郡中曽根村の庄屋で、今村家中興の祖といわれる。諸芸に巧みで、特に瓶華絵画をよくし、また仏像を好みて多く図し、郷里の寺院に納めた。 
義広は生涯多くの事跡をなしとげたが、これには莫大な資金が使われたと推察できる。中曽根村の慶安4年(1651)の知行高は630石であり、とても足りない。隣村の中之庄村はさらに少なく410石である。その庄屋の坂上(さかうえ)家と今村家とは互いに娘を嫁がせあって血縁となっている。両家は、石高は少ないにも拘わらず多くの財を得て、多くの寺社に堂宇・宝物を寄進している。石川士郎は、その金の源を、坂上半兵衛正閑(羨鳥 せんちょう)の事跡を手がかりにして以下のように考察した。羨鳥は、大名貸し(西条藩、今治藩、松山潘、丸亀藩など)や、米相場で稼いでいたと思われる。義広は、この羨鳥と同年で親戚なので、互いに助け合いながら、事業を展開していたと推測している。

考察
1. 今村祇太夫に関する家譜の記載が少ない。生年月日、享年、法名が記載されていない。
2. 祇太夫の享年62才は推定とある。それによれば、生年は(1701-61=)1640年となる。一方、本の付表の郷土年表によれば、生年は1641年寛永18年としている。本報では年表の生年を採ると、露頭発見の貞享4年(1686)は、祇太夫46才(数え)となる。元禄6年の別子銅山飯米年間7000石余の請負願書によれば、それだけの額を扱う財力があったという事に成る。石川士郎は、今村義広、坂上羨鳥が背後にあって、可能となったと推測している。また祇太夫の子義片が今治藩から中小姓格を賜ったことは、祇太夫親子が多額の資金を今治藩に献上したお礼の意味であるとしている。
中小姓(ちゅうこしょう):小姓組と徒士(かち)衆との中間の身分で、外出する主君に徒歩で随行し、また配膳役に従事。
3. 屋号「油屋」について
 祇太夫は、油屋の2代目である。以下は、筆者の推察である。
油の種類としては、菜種油、綿実油、ごま油で、大半が菜種油と思われる。主に行燈用の灯油である。行燈は、1夜で菜種油0.5合を消費する。
油屋の業として考えられるのは、
①油の仕入れ販売の商売のみ
②農家から収穫した菜種を買い付け、船積みして、大坂の油絞り業者に売る。
③農家から収穫した菜種を買い付け、自社の工場で搾り、油として大坂問屋に売る。
金額の大きさは③>②>① である。
 川之江市誌によれば、特産物として、菜種・綿実が挙げられている。2)しかし幕府は、年貢である米の生産を阻害することは、たとえ農民の利益になることでも禁止や制限を加えた。菜種は寛永20年(1643)畑に作ることを禁止した。もっとも厳密に守られてはいないらしく、時の需要によって、菜種の作付けを奨励することもした。菜種は畑だけでなく早稲のあとの裏作として作ることができ、冬の間の換金作物として、二毛作の形で栽培された。時代は100年余り後の記録であるが、川之江村から大坂への菜種積登高は、28石1斗(文化6年(1809))であった。これは搾ると(28.1×0.22=)6.18石(1112L)の菜種油になる。
 元禄11年(1698)、「天下の台所」大坂から京都、江戸など諸国への油積み出し高は合計7万2千石(1石=約180L)であった。この代金(銀)は、1万6千貫目で、内訳は菜種油68%、綿実油25%、ごま油5%、荏油2%であった。3) 時代が少し後になるが、川之江からの6.12石相当は、7万2千石に対して0.009%とあまりに小さい。江戸中期(元禄)の小売価格は、米1升が80文、菜種油1升が400文で、菜種油は、米の約5倍であった。菜種油6.12石は米31石に相当する。村の石高に対して、それほど大きくないことがわかった。
③の自社で油搾りをしていて、菜種積登高にカウントされないとすれば、もう少し大きな販売額になっていたかもしれない。明暦年間(1655~7)に油を搾る締め木が改良され菜種から油を搾ることが出来るようになり、菜種油が灯明用に使われるようになった。6)
以上のことから推定するのに、①②③だけでは、それほど大きな財にはならないと筆者は推理する。米や他の商いもしていたのであろう。
4. 今村家譜や今村家史料には、別子銅山との関りについては一切記述がない。もちろん祇太夫の別子露頭の発見の件も書かれていない。祇太夫が別子銅山に関連したという記録は、唯一「別子銅山公用帳一番」の記載事項である。7) これによれば、露頭発見の7年後であるが、別子銅山に対して米の売り込みをしていることから財力はあったと推定できる。探鉱、鉱石の見立ての技術、どこで会得したのであろうか。経験が豊富とは言い難い。ただ、曽祖父は山伏、修験道に詳しく、探鉱にも知見はあったかもしれない。それを少しは受け継いでいたのかもしれない。露頭は自分でみつけたのであろうか。誰かからか聞いたのであろうか。金子村の源次郎は、技術上経験はあったと思われる。事実、後に立川銅山の山師になっている。祇太夫は資金面の山師に成ろうとしたのであろう。

まとめ
 三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた。

 石川士郎は、祇太夫の家譜に続けて、藤枝文書を引用して、別子銅山開坑までの経緯について、推論している。筆者は、その内容を疑問に思い、藤枝文書の原典コピーに当たり検討したので、次報で記したい。

注 引用文献
1. 石川士郎「伊予今村家物語」p96(今村武彦発行 平成18年 2006)
2. 「川之江市誌」p250(川之江市 昭和59年 1984)
3. web.「近世日本の地域づくり200のテーマ」>[105]菜種
4. web.「一文と一両の価値」>米の値段の移り変わり
5. web.「江戸時代の食事情」>江戸庶民の食事
6. web. 山中油店>菜の花の便り> 第二号「菜種の伝来と搾油」
7. 住友史料館「別子銅山公用帳一番」p152(思文閣 昭和62年 1987)→写

写 三島村祇太夫の別子銅山入用米請負の出願(別子銅山公用帳一番より)


図 近世宇摩郡の村々 伊予三島市史上巻p333(1984)より(領地は宝永年間以後を示す、寛文10年~元禄11年(1670~1698)はほとんどが天領であった)