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天満村寺尾九兵衛(28) 井源寺の再建は元禄後期~宝永年間になされた

2025-03-02 08:49:13 | 趣味歴史推論
1. 井源寺縁起1)によれば、清賢寺は、弘仁6年(816)弘法大師が四国八十八ヶ所開創のおり、この地に創建したと伝えられている。本尊は毘沙門天(福徳神・武運神)で、雨寳山多聞院清賢寺と命名された。宝蔵寺・円蔵寺・地蔵寺(地名のみ現存)等の青年僧修行寺を直轄した。古来皇室の信仰厚く、延喜年間(900年頃)伊予国司が訪れ寺の興隆をはかったと伝えられる。中世では武将・守護職が武運を祈願したと伝えられる。南北朝から天正の約200年間は当地方も荒れた。清賢寺は天正13年(1585)7月秀吉の四国征伐軍の侵攻で焼失した。

2. 再建
 寺の再建は、天満村が別子銅山の粗銅・米等の道として繁栄していた元禄後期~宝永になされたと伝えられるが、史料がないようで、正確に決めがたい。正徳4年(1714)に、豊かな水を願って、清賢寺から井源寺への改称が、京都大覚寺より許可されているので、この時には遅くとも再建されていたであろう。元禄~宝永以降、寺は火災にあわなかったので、再建についての史料が見つかることを期待したい。
 井源寺縁起によれば、現在境内に残る元禄前後の墓石名より考えて、寺尾家・山中家・近藤家・岸家等の檀家が再建に大きく与力したと考えられるとのことである。
当時の大庄屋寺尾家当主は六代宗清(1712没)であり、先代(五代)春清(1709没)は隠居していたが金毘羅宮への青銅燈籠奉献(元禄9年頃1696,宝永3年1706)や天満神社本殿再建(元禄11年1698)に活動していたと考えられる。二人の存命時(元禄~宝永)に寺の再建がなされたのであろう。 

3. 再建された寺の様子が、享保6年の長野家文書2)に記されている。

長野家文書 御料天満村享保6年(1721)明細帳
真言宗雨宝山多聞院井源寺   境内 長80間 横60間
          瓦葺 梁行4間 棟行6間 高さ4間半
                       本尊 大日座像 1尺3寸
                          不動立像 3尺5寸
                          大師座像 1尺3寸
  毘沙門堂    瓦葺 2間四方 高さ3間
                       本尊 毘沙門天立像 1尺9寸
  十王堂     瓦葺 梁行2間 棟行3間 高3間
                       本尊 地蔵立像 1尺4寸
                       脇立 十王座像 1尺1寸
  鐘楼      瓦葺 1間四方 高2間


これから、当時の堂宇が境内のどこに配置されていたかを推理する。
(1)一番目の堂宇の名称が書かれていないが、最も重要な堂宇のはずであり、筆者は(本堂+客殿)を指していると推測する。その根拠は、以下のとおりである。
 ① 3尊の本尊(すなわち大日如来・不動明王・弘法大師)があること。
 ② 毘沙門天は毘沙門堂にあること。毘沙門天のいる堂宇が本堂と書かれていないこと。
これから、その当時の寺の本尊は、3尊(大日如来・不動明王・弘法大師)であった可能性が高い。
 ③ 本堂と並んで、客殿は必須である。
 この堂宇の場所は現在の客殿の位置と推定する。なぜなら、最も大きな堂宇であり、中腹にあるより客殿の使い勝手が良いからである。→写1
(2)毘沙門堂
 毘沙門堂は、現在の護摩堂(2.2間四方)の位置と推定する。
 その根拠は、
 ① 護摩堂脇に「護摩堂新建立 平成3年1月 旧毘沙門堂」の石碑がある。→写6
 ② 明治初年の記録がある。1)
   本尊 毘沙門天 
   本堂 2間四方
   客殿 7間と5間 
   庫裡 5間四方 
   鐘楼 1間半四方
   仏堂 2棟
 
 これから、明治初年には、本尊毘沙門天が祀られた2間四方の堂宇を本堂と呼んでいることがわかる。毘沙門堂を本堂とも呼んでいたのではないか。
(3)十王堂3)
 十王堂は毘沙門堂より大きくて、役割や境内の平地を考えると中腹の現在の本堂の位置にあったと推定する。
 現在の本堂(5間四方)は昭和12年1月に建立された(住職長良栄・副住恵敞)。十王堂に代わってそこに本堂が建てられたと推理する。その時に、毘沙門天・大日如来・不動明王・弘法大師の像が本堂に集められたのだろう。その後不動明王像は護摩堂に移されたのであろう。本堂の瓦紋は九曜紋(九曜星紋)と右三つ巴紋の両方が見られる。→写2,3
(4)鐘楼 
 現在の鐘楼(1間半)の位置と推定する。
現鐘楼(1間半四方)の竣工は、柱や瓦の新しさから、現在の客殿と同じ頃と推定される。瓦紋は九曜紋である。→写7
 梵鐘は、初鋳は元禄~宝永時代に、二鋳は文化14年(1817)寺尾九兵衛米次郎富清4)寄進により、(これは昭和16年(1941)戦時供出)、三鋳は昭和36年(1961)総檀徒中によりなされた。→写8

 現在の客殿(8間×7間)と庫裡は昭和63年3月27日(1988)に竣工し、落慶法要が平成元年3月28日(1991)に行われた。→写4,10 
瓦紋は寺紋の九曜紋である。→写5 
山門は昭和48年(1973)に再建された。→写9
結局、元禄~宝永時代に再建された堂宇は残っていない

4. 現在の仏像との比較
 享保6年の仏像と「天満・天神 学問の里巡り」記載(54番~58番)5)の現存する仏像とを比べてみる。
 享保6年                現在                    同一性
大日座像 1尺3寸(39cm)   56番本堂  大日如来座像 座高62cm 台座12cm    異なる
不動立像 3尺5寸(105cm)   57番護摩堂 不動明王立像 像高111cm 台座13cm    一致
大師座像 1尺3寸(39cm)   58番本堂  弘法大師座蔵 座高29.5cm        ほぼ一致
毘沙門天立像 1尺9寸(57cm) 54番本堂  毘沙門天立像 像高61cm 台座9cm     一致
-----------            55番本堂  吉祥天立像  像高41cm 台座7cm
地蔵立像 1尺4寸(42cm)   -----------
十王座像 1尺1寸(33cm)   -----------

 像の大きさと座像立像からだけの判断であるが、両者が同一であるかどうかを推定した。
昔の大日座像の座高1尺3寸が正しいければ、現在の大日如来座像は、異なることになる。ただ昔の記載値の間違いという可能性もあるので、断定はできない。
現在、毘沙門天立像は厨子に安置され、その妃の吉祥天立像と息子の善膩師童子(ぜんにしどうじ)を伴っているが、享保の文書では、吉祥天、善膩師童子を書き忘れたのか。
その他の仏像は、享保6年当時の仏像であるといえよう。
地蔵立像と十王座像(閻魔王)は未確認であるが、本堂にあるのではないだろうか。

まとめ
1. 井源寺の再建は、別子銅山が開坑して粗銅・米などの輸送で天満村が賑わっていた元禄~宝永の時代に、多くの檀家の与力によってなされたようだが、直接の史料がない。再建後の正徳4年に清賢寺から井源寺へ改称された。
2. 当時の寺尾家当主は六代宗清であり、先代春清も存命していた。
3. 長野家文書(享保6年)によれば、本堂に3尊の本尊(大日如来・不動明王・弘法大師)、毘沙門堂に本尊毘沙門天、十王堂に本尊地蔵菩薩・閻魔王座像が祀られていた。
4. 現在の仏像は多くがその頃のものであることがわかった。
5. 再建当時の堂宇は残ってないが、その位置を推定した。


注 引用文献
1. 「井源寺縁起」(口述22世住職長恵敞 編集岸政彦 昭和48年2月 1973)
2. 土居町郷土史料 第六集「村々明細帳」p17(村上光信編纂 土居町教育委員会 平成元年 1989)の内「御料天満村享保6年(1721)明細帳(原本 川之江市立郷土館蔵 長野家文書)
3. 十王(じゅうおう)は冥界にあって死者の罪業を裁判する10人の王で、閻魔王(えんまおう)は没後五七日(35日)に裁きを行う。閻魔王は地蔵菩薩と組になるが、ここでは本尊が地蔵菩薩で、脇立が閻魔王となっている。
4. 第10代寺尾九兵衛米次郎は、貞治郎、貞次郎の名もある。1704生年~1804没年。生前に寄進し、梵鐘が鋳られたのは、文化14年(1817)である。
5. 「天満・天神 学問の里巡り」54番~58番(天満公民館 令和3年 2021)

写1 井源寺全景(左から山門、本堂(中腹)、客殿、庫裡 2025.2.27)


写2 本堂


写3 本堂の瓦


写4 客殿


写5 客殿の瓦


写6 護摩堂


写7 鐘楼


写8 梵鐘


写9 山門


写10 庫裡