別子銅山の粗銅が運ばれた天満村の道は十分解明されていない。最初の報告は坪井利一郎「第一次泉屋道」(2009)であり、その地図には泉屋道とランドマークが示されている。1)筆者はこれを参考にして検討した。ここで筆者の説を提示したい。
二つの区域に分けて検討する。
1. A(出店)からD(公民館近く)までの経路
2. 天満浦近くの経路と銅廻船に積むまでの経路
粗銅が運ばれた道を推定する手順として
① 元禄時代にその道は存在したか。
② その道は粗銅を運ぶのに、使われたか。
の2点から検討する。
まず元禄時代にその道が存在したことを証明することは、当時の詳細な地図がないので難しい。現在の道端にある地蔵・常夜燈・小神社・石碑は全て元禄より後に建てられたものであるから、証明に全く役に立たない。そうすると結局、一般的な道の成り立ちからの推測と地名と口伝などによるしかない。
参考にする地図は、以下の二つである。
① 明治39年測図41年8月発行の「新居浜」五万分一地形図(国土地理院)(以下「明治41年地図」と称す)2) →図1
② 「宇摩郡天満村耕地全圖」(以下「明治中期耕地全図」と称す)3) この表紙と符号説明→図2
耕地全図は、書かれた年が不明なので推定する。符号説明の「里道」(りどう)は明治9年(1876)から使われた用語なので、書かれた年代は明治9年(1876)以降である。里道は赤線、水路は青線で示される。
この二つの地図に要所の地点に同じ記号を書き入れたので、その記号で説明する。
1. AからDまでの経路 →図3
・A路(A→E→H→J→D):土居村から天満浦へほぼ直線的に通じる経路であるので、元禄よりずっと前から存在していたであろう。明治中期には、里道であり、明治39年には里道のうちの「聯路」(れんろ)であった。この道には、「市場」(いちば)がある。現在の地区名「原久保市場」は、「原久保にある市場」と誤解していたが、そうではなくて、昔は、「字久保」「字原田」「小字市場」があり、それが統合してできた名であることを知った。「市場」はEJの東側道に沿ってあったと思われる。泉屋の出店以前からあったか、出店にあわせて出来たかはわからないが、「市場」があるということから、山や海へほぼ真っ直ぐに通じているこのA路は、元禄時代に存在していたと思う。
・B路(A→C→B→K→L→D):清賢寺(井源寺)は9世紀に創建された寺で村民の菩提寺である。この山門の下B(寺の下)から四方に向けて道が出来たはずであり、特に下天満の浦へほぼ直線的なB路は元禄時代に存在していたと思う。大庄屋寺尾家からほぼ真っ直ぐ寺へ行ける道である。B路は明治中期には、支道であり、明治39年には里道のうちの「間路」(かんろ)であった。
・C路(A→C→F→G→I→J→D):この経路は坪井説である。この道が元禄時代に存在していたかを検討する。
「明治41年地図」では、C→Jの道は「小径」で表されている。→図1
「明治中期耕地全図」ではえびす神社が現在のJの位置にはない。また赤線一本で記された(支道作場道)はG→Iは繋がっていない。明治中期以降にえびす神社を現在のJに移し、C→Jの道をほぼ真っ直ぐに整備した結果G→Iは繋がったのであろう。
また(A→C→F→G→H→J→D)の道は元禄時代に存在したかもしれないが、Fで2回、Gで2回、Hで1回直角に曲がる必要があり、粗銅を運ぶのに使われなかったと推定する。よってC路は存在しないか、使われなかったと考える。
結論として、元禄時代にA路とB路は存在したであろう。
では、粗銅を運ぶのに使われたのはA路かB路か。どの口伝が最も信用できるか。
筆者は、大久保繁雄氏の口伝4)
「別子銅山の運搬路「天満道」は二つ嶽の小箱峠を越え、浦山川を経て天王川原を渡って八雲神社の東を通り、出店の四辻から寺の下・大西山田・橋の川を経て天満浦の船着場に通じていたと云われている。」を採用する。
「寺の下」とは、Bである。また字名としての「寺の下」は、BとCの間の南北に流れる水路より西の地区をいう。粗銅を積んだ馬が、「寺の下」経由の当時の主道B路を行くのは納得できる。なおLに大西山田の「疫病除け地蔵」があるが、寛政10年(1798)建立であり新しすぎるので傍証にならない。5)
結論として、粗銅はB路を行った。
また、天満浦で粗銅を下ろした馬は、出店に戻る際には、御蔵(おくら 幕領の米蔵)及び付近の倉庫から銅山に運ぶ物品や「市場」で購入した物品を運んだはずであるので、帰りはA路を使ったと推定する。
2. 天満浦近くの経路と銅廻船に積むまでの経路 →図4
DからMまでは北上する一直線の道路である。Mから銅廻船に運ぶ伝馬船(てんません はしけ)の発着地点までの経路を検討する。
坪井説では粗銅を運ぶ伝馬船の発着場所を特定していない。ただ泉屋道としてOまでを表示している。
筆者は次の口伝6)
「江戸時代、寺尾大庄屋では「橋の川」の河口の川岸あたりと、その西側の通称「雑魚売り道」の海岸あたりに船を停泊させて、廻船業も営んでいたと伝わる。」を採用する。
理由は、「橋の川」の河口の川岸に着いた船とは、主に「米」を運んできた伝馬船であり、Qがその発着場所であろう。Pの付近には御蔵があったであろうこと7)から推定する。また筆者は粗銅倉庫は海沿いにはないと考えるので、「雑魚売り道」の海岸あたりXから粗銅を伝馬船に乗せて沖に停泊している銅廻船に運んだ(沖積み)と推定する。こう考えると、雑魚売り道を粗銅が運ばれたと言う口伝も納得できる。雑魚売り道はX→W→V→U→Tを通る。
MからTへ粗銅を運んだ経路
「明治中期耕地全図」では、Qに橋はなく、Rにはあった。→図4
ではR橋は元禄にあったのか。R橋はN橋からわずか200mしか離れていない、P付近の御蔵から川を越えて西方へ運ぶ米や荷は少なかったと推測すると、元禄にはRに橋はなかったと考える。N橋を通ればよく、それであまり不便を感じなかったのではないか。
MN路(M→S→T)は、寺尾九兵衛宅の前を通ってN橋を渡り天満神社に行く主道であったはずで、しかも、M→Tの最短距離であるので、粗銅を運ぶ経路としては最も合理的である。
結論として、筆者は粗銅倉庫は海沿い(PやX付近)にはなかったと考えるので、MN路で粗銅が運ばれたと推定する。その道をピンク色で示した。→図1
そして粗銅を下ろした馬は、帰りは(X→T→S→N→M→O→P)の経路でP付近の御蔵などに寄り、米などを積んで市場経由で出店まで戻ったと推定する。
粗銅が運ばれた道をGoogle航空写真に赤線で示した。Yが粗銅を運ぶ伝馬船用の小さな波止であろう。沖Zで停泊中の銅廻船に載せたと推定する。→写
まとめ
粗銅が出店から銅廻船まで運ばれた道は、出店→(井源寺)寺の下→寺尾九兵衛宅前→天満神社鳥居前→雑魚売り道である。銅廻船は沖積みで、伝馬船用の波止を特定した。
注 引用文献
1. 坪井利一郎「第一次泉屋道」 益友第60巻1号 p15(平成21年 2009)
2. 里道(りどう)の3区分
・「達路」(たつろ):著名な両居住地を連絡する道路、および著名な居住地から出て、また国県道もしくは他の達路より分岐して数町村を貫通する道路
・「聯路」(れんろ):隣接する市町村の主要な居住地を連絡する道路
・「間路」(かんろ):「聯路」間を結ぶ小路
3. 「宇摩郡天満村耕地全圖」若竹屋所蔵
天満村の名の変遷
江戸時代→天満村→明治22年(1889)12月→満崎村→明治27年(1894)7月→天満村→昭和29年(1954)3月→土居町→現在
4. 「天満・天神学問の里巡り」17番(岡本圭二郎「館報145号平成15年4月(2003)」
5. 「天満・天神学問の里巡り」43番(岡本圭二郎「館報172号平成17年8月(2005)」
6. 「天満・天神学問の里巡り」15番(岡本圭二郎「館報143号平成15年2月(2003)」
7. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(8)慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」(2024-8-18)
図1 天満村内での粗銅が運ばれた道(明治41年発行地形図(国土地理院)に書き込む)
図2 「宇摩郡天満村耕地全圖」の表紙と符号説明
図3 「宇摩郡天満村耕地全圖」の内、上天満村付近
図4 「宇摩郡天満村耕地全圖」の内、下天満村付近
写 下天満村内での粗銅の運ばれた道(Google航空写真に書き込む)
二つの区域に分けて検討する。
1. A(出店)からD(公民館近く)までの経路
2. 天満浦近くの経路と銅廻船に積むまでの経路
粗銅が運ばれた道を推定する手順として
① 元禄時代にその道は存在したか。
② その道は粗銅を運ぶのに、使われたか。
の2点から検討する。
まず元禄時代にその道が存在したことを証明することは、当時の詳細な地図がないので難しい。現在の道端にある地蔵・常夜燈・小神社・石碑は全て元禄より後に建てられたものであるから、証明に全く役に立たない。そうすると結局、一般的な道の成り立ちからの推測と地名と口伝などによるしかない。
参考にする地図は、以下の二つである。
① 明治39年測図41年8月発行の「新居浜」五万分一地形図(国土地理院)(以下「明治41年地図」と称す)2) →図1
② 「宇摩郡天満村耕地全圖」(以下「明治中期耕地全図」と称す)3) この表紙と符号説明→図2
耕地全図は、書かれた年が不明なので推定する。符号説明の「里道」(りどう)は明治9年(1876)から使われた用語なので、書かれた年代は明治9年(1876)以降である。里道は赤線、水路は青線で示される。
この二つの地図に要所の地点に同じ記号を書き入れたので、その記号で説明する。
1. AからDまでの経路 →図3
・A路(A→E→H→J→D):土居村から天満浦へほぼ直線的に通じる経路であるので、元禄よりずっと前から存在していたであろう。明治中期には、里道であり、明治39年には里道のうちの「聯路」(れんろ)であった。この道には、「市場」(いちば)がある。現在の地区名「原久保市場」は、「原久保にある市場」と誤解していたが、そうではなくて、昔は、「字久保」「字原田」「小字市場」があり、それが統合してできた名であることを知った。「市場」はEJの東側道に沿ってあったと思われる。泉屋の出店以前からあったか、出店にあわせて出来たかはわからないが、「市場」があるということから、山や海へほぼ真っ直ぐに通じているこのA路は、元禄時代に存在していたと思う。
・B路(A→C→B→K→L→D):清賢寺(井源寺)は9世紀に創建された寺で村民の菩提寺である。この山門の下B(寺の下)から四方に向けて道が出来たはずであり、特に下天満の浦へほぼ直線的なB路は元禄時代に存在していたと思う。大庄屋寺尾家からほぼ真っ直ぐ寺へ行ける道である。B路は明治中期には、支道であり、明治39年には里道のうちの「間路」(かんろ)であった。
・C路(A→C→F→G→I→J→D):この経路は坪井説である。この道が元禄時代に存在していたかを検討する。
「明治41年地図」では、C→Jの道は「小径」で表されている。→図1
「明治中期耕地全図」ではえびす神社が現在のJの位置にはない。また赤線一本で記された(支道作場道)はG→Iは繋がっていない。明治中期以降にえびす神社を現在のJに移し、C→Jの道をほぼ真っ直ぐに整備した結果G→Iは繋がったのであろう。
また(A→C→F→G→H→J→D)の道は元禄時代に存在したかもしれないが、Fで2回、Gで2回、Hで1回直角に曲がる必要があり、粗銅を運ぶのに使われなかったと推定する。よってC路は存在しないか、使われなかったと考える。
結論として、元禄時代にA路とB路は存在したであろう。
では、粗銅を運ぶのに使われたのはA路かB路か。どの口伝が最も信用できるか。
筆者は、大久保繁雄氏の口伝4)
「別子銅山の運搬路「天満道」は二つ嶽の小箱峠を越え、浦山川を経て天王川原を渡って八雲神社の東を通り、出店の四辻から寺の下・大西山田・橋の川を経て天満浦の船着場に通じていたと云われている。」を採用する。
「寺の下」とは、Bである。また字名としての「寺の下」は、BとCの間の南北に流れる水路より西の地区をいう。粗銅を積んだ馬が、「寺の下」経由の当時の主道B路を行くのは納得できる。なおLに大西山田の「疫病除け地蔵」があるが、寛政10年(1798)建立であり新しすぎるので傍証にならない。5)
結論として、粗銅はB路を行った。
また、天満浦で粗銅を下ろした馬は、出店に戻る際には、御蔵(おくら 幕領の米蔵)及び付近の倉庫から銅山に運ぶ物品や「市場」で購入した物品を運んだはずであるので、帰りはA路を使ったと推定する。
2. 天満浦近くの経路と銅廻船に積むまでの経路 →図4
DからMまでは北上する一直線の道路である。Mから銅廻船に運ぶ伝馬船(てんません はしけ)の発着地点までの経路を検討する。
坪井説では粗銅を運ぶ伝馬船の発着場所を特定していない。ただ泉屋道としてOまでを表示している。
筆者は次の口伝6)
「江戸時代、寺尾大庄屋では「橋の川」の河口の川岸あたりと、その西側の通称「雑魚売り道」の海岸あたりに船を停泊させて、廻船業も営んでいたと伝わる。」を採用する。
理由は、「橋の川」の河口の川岸に着いた船とは、主に「米」を運んできた伝馬船であり、Qがその発着場所であろう。Pの付近には御蔵があったであろうこと7)から推定する。また筆者は粗銅倉庫は海沿いにはないと考えるので、「雑魚売り道」の海岸あたりXから粗銅を伝馬船に乗せて沖に停泊している銅廻船に運んだ(沖積み)と推定する。こう考えると、雑魚売り道を粗銅が運ばれたと言う口伝も納得できる。雑魚売り道はX→W→V→U→Tを通る。
MからTへ粗銅を運んだ経路
「明治中期耕地全図」では、Qに橋はなく、Rにはあった。→図4
ではR橋は元禄にあったのか。R橋はN橋からわずか200mしか離れていない、P付近の御蔵から川を越えて西方へ運ぶ米や荷は少なかったと推測すると、元禄にはRに橋はなかったと考える。N橋を通ればよく、それであまり不便を感じなかったのではないか。
MN路(M→S→T)は、寺尾九兵衛宅の前を通ってN橋を渡り天満神社に行く主道であったはずで、しかも、M→Tの最短距離であるので、粗銅を運ぶ経路としては最も合理的である。
結論として、筆者は粗銅倉庫は海沿い(PやX付近)にはなかったと考えるので、MN路で粗銅が運ばれたと推定する。その道をピンク色で示した。→図1
そして粗銅を下ろした馬は、帰りは(X→T→S→N→M→O→P)の経路でP付近の御蔵などに寄り、米などを積んで市場経由で出店まで戻ったと推定する。
粗銅が運ばれた道をGoogle航空写真に赤線で示した。Yが粗銅を運ぶ伝馬船用の小さな波止であろう。沖Zで停泊中の銅廻船に載せたと推定する。→写
まとめ
粗銅が出店から銅廻船まで運ばれた道は、出店→(井源寺)寺の下→寺尾九兵衛宅前→天満神社鳥居前→雑魚売り道である。銅廻船は沖積みで、伝馬船用の波止を特定した。
注 引用文献
1. 坪井利一郎「第一次泉屋道」 益友第60巻1号 p15(平成21年 2009)
2. 里道(りどう)の3区分
・「達路」(たつろ):著名な両居住地を連絡する道路、および著名な居住地から出て、また国県道もしくは他の達路より分岐して数町村を貫通する道路
・「聯路」(れんろ):隣接する市町村の主要な居住地を連絡する道路
・「間路」(かんろ):「聯路」間を結ぶ小路
3. 「宇摩郡天満村耕地全圖」若竹屋所蔵
天満村の名の変遷
江戸時代→天満村→明治22年(1889)12月→満崎村→明治27年(1894)7月→天満村→昭和29年(1954)3月→土居町→現在
4. 「天満・天神学問の里巡り」17番(岡本圭二郎「館報145号平成15年4月(2003)」
5. 「天満・天神学問の里巡り」43番(岡本圭二郎「館報172号平成17年8月(2005)」
6. 「天満・天神学問の里巡り」15番(岡本圭二郎「館報143号平成15年2月(2003)」
7. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(8)慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」(2024-8-18)
図1 天満村内での粗銅が運ばれた道(明治41年発行地形図(国土地理院)に書き込む)
図2 「宇摩郡天満村耕地全圖」の表紙と符号説明
図3 「宇摩郡天満村耕地全圖」の内、上天満村付近
図4 「宇摩郡天満村耕地全圖」の内、下天満村付近
写 下天満村内での粗銅の運ばれた道(Google航空写真に書き込む)
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