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新居浜浦西の庄屋の加藤家は、新居浜井筒屋ではない

2019-06-01 14:13:33 | 趣味歴史推論
「西條誌」(1842)1)には「新居浜浦と呼び始めたのは、松平家が西條藩主になってからの事だ」と書かれてあり、それまでは新居浜村と呼び(庄屋役は七左衛門 百姓)、それ以前の古くは大円浜(おおえのはま)といい、後に大江と書く。浦とは浜辺の村のことで、初代藩主松平頼純は、寛文10年(1670)からで、その時に、加藤角右衛門が新居浜浦の西の庄屋に、同族の七太夫が東の庄屋に任ぜられたと系図に記されている。
御代島に松苗を植えたこと、庄屋の家号が御代島屋(商売用には代島屋(よしまや))であること、家系図などから、庄屋の先祖が御代島城主の加藤民部正だと考えられる。2)
時は下り、新居浜浦庄屋の加藤吉三郎が天明5年(1785)巳6月に提出した「御代島御座敷建直し御窺いに付き、私の先祖の来歴等御尋ねの御返書」には、加藤家の代々について以下のように書かれている。2)

西の庄屋
 初代 加藤角右衛門(吉三郎の先祖 万治年中(1658-1661)40石)
 二代 弥兵衛(浦方本家相続 40石 家号 御代島屋 商売用には代島屋)
三代 清太夫(せいだゆう)(万治年中~寛文4~5年(1664~1665)に本家家来の内7軒召し連れ御代島へ引っ越し松苗を植え、畑開きした。寛文8年 甚左衛門と変名)
四代 半右衛門(浦方本家相続も若死、内間不勝手、17~8石、なお島方は弟の甚左衛門が相続)
五代 吉三郎(半右衛門跡養子に相成り浦方本家相続 大工職 27~8石、島方は甚左衛門子の甚左衛門相続 後に久四郎と変名)
六代 権左衛門(浦方本家相続 若年の頃は弥兵衛と申す。組頭役を勤める。30石、島方は久四郎相続のところ、お咎めの品あり三郎兵衛が相続)
七代 三郎兵衛(浦方本家相続、島方と両方をかけもつ 大工職 天明4年(1784)より、吉三郎と変名)

東の庄屋  
初代 加藤七太夫(儀左衛門の先祖)

結論:西の庄屋の加藤家は、商売用屋号が代島屋であること、大工職であること、廻船を所有していたとは記載されていないこと、から、新居浜井筒屋ではない。

東の庄屋の加藤家は、加藤儀左衛門(1785ごろ)の祖先で初代は加藤七太夫あるが、その間の相続した主人名、経歴等については、記載がない。新居浜井筒屋である可能性は残っており、調べていきたい。

注 引用文献など
1. 矢野益治「注釈西條誌」(新居浜郷土史談会 昭和57.6 1982)
2. 千葉誉好「郷土古文書史料集 57 新居浜浦庄屋 加藤家文書(1)」郷土史談第142号p38(新居浜郷土史談会 1987.5)


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