「かなめ」の初出は多田銀銅山の寛文6年(1665)であることがわかったが、1)「砕女」の初出はいつで、誰がこの当て字を考案したかを推定する。
住友(泉屋)は、貞享に吉岡銅山第一次経営に着手した。貞享元年(1684)8月 請負人泉屋彦兵衛、請任泉屋吉左衛門(友信)同吉右衛門(友芳)の名義で、代官服部六左衛門宛に次の主な箇条を含む一札を納れて、請負契約を行った。2)
・水貫普請の目的で5箇年の季限で許可されること。
・運上は掘出した銅1000貫目に付、銅100貫目とし、その代銀530匁宛の計算で、毎月上納する。
そして、今後の稼行について更に願い出た。
1. 「願書」貞享元年(1684)3)
・大水貫の儀茶木間歩より仕るべく候。この1ヶ月1日も懈怠なくしきり申すべく候。火灯り不申節は風廻し仕るべく候。その外50間30間の水貫の儀は、この方勝手次第段々切り申すべく候御事。
・大水貫成就仕らず内は、千枚・関東大根戸古壺水鋪は稼ぎ申すまじき候。その外は勝手次第に稼ぎ仕りたく候。壺に入らずにても埋め申しまじく候。並びに危所念入り申すべく候御事。
・略
・末広間歩より上六枚東迄、やらい(矢来 仮囲いの柵)仕り候儀は、喜多方領分に、下財・ゑふ引・水取・日用・かなめ女等御山稼ぎ仕り候もの数多く御座候。取分寒風の節は難儀仕り候間、やらいの儀御免下されるべく候御事。
・略
貞享元年子9月 泉屋彦兵衛
服部六左衛門様
稼行状況の役人への報告は次の通りである。
2. 「備中川上郡吹屋村御山用控」貞享2年(1685)4)
「覚」に書かれた山内の従業人総数は635人で、その内訳は次の通りである。
・山師家内人数35人
間符4ヶ所鏈番人(16人)、床屋役人(5人)、鏈くだき場役人(2人)、炭焼木支配人(3人)、蕒物方手代中間共(9人)
・山内下財人数600人
掘子(157人)、得符引(62人)、水樋引(46人)、床屋大工手子(30人)、くたきゆり物女(208人)、日用(47人)、老人並びに子供(50人)
貞享2年9月28日 泉屋彦兵衛
加賀美彦兵衛様
佐藤守右衛門様
3. 「備中銅御山仕様之覚」元禄9年(1696)5)
・略
・鏈くだき申す者を碎女と申して、下財の妻子に致させ申し候。
・鏈碎女場より焼竈へはこび申す人足を鏈持と申し候。
・略
元禄9年子9月 備中吉岡御銅山師 泉屋貞右衛門
右の通り大坂にて御認山木様へ御上げ成られ候写し如此。
泉屋は、元禄4年(1691)に、別子銅山を開坑した。
4. 「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)6)
予州宇摩郡別子山足谷銅山焼失之覚の内
・砕女小屋 3ヶ所
元禄7年(1694)戌4月28日 泉屋理右衛門手代 勘右衛門
同 勘介
その後、吉岡銅山では、「かなめ」は、どのように呼ばれ表記されたのであろうか。
吉岡銅山では享保7年6月大塚利右ヱ門宗俊が引請、寛保2年10まで21年間の稼業を大塚家が行った(大塚の第一次経営)。その後を京都銀座が引継いだのであるが、その際の文書が以下の引渡し覚である。
5. 大塚文書寛保2年戌10月福岡屋利右衛門の「吉岡銅山家小屋引渡し覚」(1742)によると、大塚は銅座名代長尾九郎左衛門に、勘定、門長屋1軒、砕小屋1軒、ゆり物小屋1軒、炭蔵2軒、床屋3軒(鉑吹3床、真吹2本の設けある)および焼釜7軒(釜数55あり)等を引渡したとある。7)
大塚の第二次経営にあたって大塚家が提出した書面の中で、「かなめ」が記録されている所は以下の通りである。
6. 「乍恐以書奉願上候」寛政2年(1790)8)
(前略)天明4年辰より去る8年申まで5ヶ年大坂瓦町百貫町小橋屋長左衛門請負仰付けられ、---- この度御検分成され候通り、当時休山同様にて敷村住居稼ぎ人渡世これ無く、遠国稼所に離散仕り者または鉑石金女女子供の内残りこのものども外に渡世これ無く難渋至極の段なげかわしく存じ奉り候。---
早川八郎左衛門御代官所
寛政2戌歳10月21日
備中川上郡吹屋村百姓 大塚兵十郎
証人同村庄屋 要助
御銅山見分御役人様
7. 「吉岡銅山捨カラミ、出カラミ吹方並びに出来銅仕様書」寛政2年(1790)9)
・銀80目 右鉑石金女賃銀
但し1日10人宛掛け 1ヶ月分 300人後にて砕かせ候積り
1人賃金 銀6歩宛
考察
1. 泉屋は、貞享元年には、「かなめ女」と書き、「かなめ」は仮名で、その作業にあたっていた「おんな」を「女」と書いた。これから明らかなように、「かなめ」は、作業名を表している。しかし、貞享2年の同じ泉屋彦兵衛が書いたものには、「鏈くだき場役人、くだきゆり物女」 と書いており、かなめ場役人、かなめゆり物女とはしていない。この時点では、「砕女」が生まれていないことが分かる。
しかし、吉岡銅山で、銅山師泉屋貞右衛門は、元禄9年には「鏈くだき申す者を碎女と申して、下財の妻子に致させ申し候。鏈碎女場より---」と書いている。作業者を「碎女」と呼んで定義している。「鏈碎女場」は「くさりかなめ場」と読み、この「砕女」は作業名を表していると思われる。「砕女」は、作業名と作業者を表しているが、この「女」は、「め」の音を表す字で、「おんな」を表しているのではない。
泉屋は、元禄4年(1691)別子銅山を開坑したが、「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)の大火焼失の覚に「砕女小屋」と書いている。これは「かなめ」作業の小屋を表している。これを書いたのは、泉屋理右衛門手代の勘右衛門と勘介である。
2. この元禄7年の「砕女小屋」の「砕女」が、筆者の調べでも、鳥谷芳雄が指摘したとおり、「砕女」の初出である。
「砕女」は、センスのある当て字である。これを考案したのは、貞享から元禄期の泉屋の手代であると推定した。泉屋は、同時期に、しぼり→鍰、間歩→間符と独自の漢字をあてている。砕女も同じ人が考案した可能性がある。泉屋は、別子銅山で一貫して「砕女」を使っていることも、自ら考案したことの裏付けになろう。
「砕女」作業を受け持ったのは、女たちで、いうならば「砕女女」が、女のかなめ作業者なのであるが、これが、いつしか「砕女」だけで、かなめ女を意味する様になったと思われる。
「砕女」の当て字は、センスが良かったこと、泉屋が使ったことなどから広く使われるようになり、明治以降現代でも生きており、過去の歴史を記す際に、一般的に使われる当て字となったと推定する。
3. 吉岡銅山では、経営者が代わると、使用する言葉も違っていることが分かる。大塚家では、「かなめ」は「砕女」ではなく、「金女」で表していた。また「砕小屋」は、「くだき小屋」であろう。寛政2年の「乍恐以書奉願上候」では、鉑石金女女子供とあり、「金女」のあとに「女子供」とあることから、金女の「女」は「かなめ」の「め」を表す音の「め」である。仮名文字「め」の元の漢字「女」である。鉑石金女賃銀は、「かなめ」作業の賃銀を表しており、「女」は「おんな」を意味しない。
まとめ
1. 「砕女」の初出は、「別子銅山公用帳一番」元禄7年の「砕女小屋」である。
2. 「かなめ」の当て字「砕女」は、元禄に泉屋が作ったのであろう。
注 引用文献
1. 当ブログ 「からみ・鍰の由来(26)」
2. 「泉屋叢考」第12輯 p22(住友修史室 昭和35年 1960)
附録 天和4年の再稼行願関係資料
3. 同上p25 附録 天和4年の再稼行願関係資料
4. 同上p35 附録 「貞享2年9月の覚」
5. 同上p36 附録 「備中銅御山仕様之覚」
6. 住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p16(思文閣 昭和62年 1987)
7. 長尾隆「ふきやの話」p67(昭和51年 1976)
8. 同上p81
9. 同上p86
住友(泉屋)は、貞享に吉岡銅山第一次経営に着手した。貞享元年(1684)8月 請負人泉屋彦兵衛、請任泉屋吉左衛門(友信)同吉右衛門(友芳)の名義で、代官服部六左衛門宛に次の主な箇条を含む一札を納れて、請負契約を行った。2)
・水貫普請の目的で5箇年の季限で許可されること。
・運上は掘出した銅1000貫目に付、銅100貫目とし、その代銀530匁宛の計算で、毎月上納する。
そして、今後の稼行について更に願い出た。
1. 「願書」貞享元年(1684)3)
・大水貫の儀茶木間歩より仕るべく候。この1ヶ月1日も懈怠なくしきり申すべく候。火灯り不申節は風廻し仕るべく候。その外50間30間の水貫の儀は、この方勝手次第段々切り申すべく候御事。
・大水貫成就仕らず内は、千枚・関東大根戸古壺水鋪は稼ぎ申すまじき候。その外は勝手次第に稼ぎ仕りたく候。壺に入らずにても埋め申しまじく候。並びに危所念入り申すべく候御事。
・略
・末広間歩より上六枚東迄、やらい(矢来 仮囲いの柵)仕り候儀は、喜多方領分に、下財・ゑふ引・水取・日用・かなめ女等御山稼ぎ仕り候もの数多く御座候。取分寒風の節は難儀仕り候間、やらいの儀御免下されるべく候御事。
・略
貞享元年子9月 泉屋彦兵衛
服部六左衛門様
稼行状況の役人への報告は次の通りである。
2. 「備中川上郡吹屋村御山用控」貞享2年(1685)4)
「覚」に書かれた山内の従業人総数は635人で、その内訳は次の通りである。
・山師家内人数35人
間符4ヶ所鏈番人(16人)、床屋役人(5人)、鏈くだき場役人(2人)、炭焼木支配人(3人)、蕒物方手代中間共(9人)
・山内下財人数600人
掘子(157人)、得符引(62人)、水樋引(46人)、床屋大工手子(30人)、くたきゆり物女(208人)、日用(47人)、老人並びに子供(50人)
貞享2年9月28日 泉屋彦兵衛
加賀美彦兵衛様
佐藤守右衛門様
3. 「備中銅御山仕様之覚」元禄9年(1696)5)
・略
・鏈くだき申す者を碎女と申して、下財の妻子に致させ申し候。
・鏈碎女場より焼竈へはこび申す人足を鏈持と申し候。
・略
元禄9年子9月 備中吉岡御銅山師 泉屋貞右衛門
右の通り大坂にて御認山木様へ御上げ成られ候写し如此。
泉屋は、元禄4年(1691)に、別子銅山を開坑した。
4. 「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)6)
予州宇摩郡別子山足谷銅山焼失之覚の内
・砕女小屋 3ヶ所
元禄7年(1694)戌4月28日 泉屋理右衛門手代 勘右衛門
同 勘介
その後、吉岡銅山では、「かなめ」は、どのように呼ばれ表記されたのであろうか。
吉岡銅山では享保7年6月大塚利右ヱ門宗俊が引請、寛保2年10まで21年間の稼業を大塚家が行った(大塚の第一次経営)。その後を京都銀座が引継いだのであるが、その際の文書が以下の引渡し覚である。
5. 大塚文書寛保2年戌10月福岡屋利右衛門の「吉岡銅山家小屋引渡し覚」(1742)によると、大塚は銅座名代長尾九郎左衛門に、勘定、門長屋1軒、砕小屋1軒、ゆり物小屋1軒、炭蔵2軒、床屋3軒(鉑吹3床、真吹2本の設けある)および焼釜7軒(釜数55あり)等を引渡したとある。7)
大塚の第二次経営にあたって大塚家が提出した書面の中で、「かなめ」が記録されている所は以下の通りである。
6. 「乍恐以書奉願上候」寛政2年(1790)8)
(前略)天明4年辰より去る8年申まで5ヶ年大坂瓦町百貫町小橋屋長左衛門請負仰付けられ、---- この度御検分成され候通り、当時休山同様にて敷村住居稼ぎ人渡世これ無く、遠国稼所に離散仕り者または鉑石金女女子供の内残りこのものども外に渡世これ無く難渋至極の段なげかわしく存じ奉り候。---
早川八郎左衛門御代官所
寛政2戌歳10月21日
備中川上郡吹屋村百姓 大塚兵十郎
証人同村庄屋 要助
御銅山見分御役人様
7. 「吉岡銅山捨カラミ、出カラミ吹方並びに出来銅仕様書」寛政2年(1790)9)
・銀80目 右鉑石金女賃銀
但し1日10人宛掛け 1ヶ月分 300人後にて砕かせ候積り
1人賃金 銀6歩宛
考察
1. 泉屋は、貞享元年には、「かなめ女」と書き、「かなめ」は仮名で、その作業にあたっていた「おんな」を「女」と書いた。これから明らかなように、「かなめ」は、作業名を表している。しかし、貞享2年の同じ泉屋彦兵衛が書いたものには、「鏈くだき場役人、くだきゆり物女」 と書いており、かなめ場役人、かなめゆり物女とはしていない。この時点では、「砕女」が生まれていないことが分かる。
しかし、吉岡銅山で、銅山師泉屋貞右衛門は、元禄9年には「鏈くだき申す者を碎女と申して、下財の妻子に致させ申し候。鏈碎女場より---」と書いている。作業者を「碎女」と呼んで定義している。「鏈碎女場」は「くさりかなめ場」と読み、この「砕女」は作業名を表していると思われる。「砕女」は、作業名と作業者を表しているが、この「女」は、「め」の音を表す字で、「おんな」を表しているのではない。
泉屋は、元禄4年(1691)別子銅山を開坑したが、「別子銅山公用帳一番」元禄7年(1694)の大火焼失の覚に「砕女小屋」と書いている。これは「かなめ」作業の小屋を表している。これを書いたのは、泉屋理右衛門手代の勘右衛門と勘介である。
2. この元禄7年の「砕女小屋」の「砕女」が、筆者の調べでも、鳥谷芳雄が指摘したとおり、「砕女」の初出である。
「砕女」は、センスのある当て字である。これを考案したのは、貞享から元禄期の泉屋の手代であると推定した。泉屋は、同時期に、しぼり→鍰、間歩→間符と独自の漢字をあてている。砕女も同じ人が考案した可能性がある。泉屋は、別子銅山で一貫して「砕女」を使っていることも、自ら考案したことの裏付けになろう。
「砕女」作業を受け持ったのは、女たちで、いうならば「砕女女」が、女のかなめ作業者なのであるが、これが、いつしか「砕女」だけで、かなめ女を意味する様になったと思われる。
「砕女」の当て字は、センスが良かったこと、泉屋が使ったことなどから広く使われるようになり、明治以降現代でも生きており、過去の歴史を記す際に、一般的に使われる当て字となったと推定する。
3. 吉岡銅山では、経営者が代わると、使用する言葉も違っていることが分かる。大塚家では、「かなめ」は「砕女」ではなく、「金女」で表していた。また「砕小屋」は、「くだき小屋」であろう。寛政2年の「乍恐以書奉願上候」では、鉑石金女女子供とあり、「金女」のあとに「女子供」とあることから、金女の「女」は「かなめ」の「め」を表す音の「め」である。仮名文字「め」の元の漢字「女」である。鉑石金女賃銀は、「かなめ」作業の賃銀を表しており、「女」は「おんな」を意味しない。
まとめ
1. 「砕女」の初出は、「別子銅山公用帳一番」元禄7年の「砕女小屋」である。
2. 「かなめ」の当て字「砕女」は、元禄に泉屋が作ったのであろう。
注 引用文献
1. 当ブログ 「からみ・鍰の由来(26)」
2. 「泉屋叢考」第12輯 p22(住友修史室 昭和35年 1960)
附録 天和4年の再稼行願関係資料
3. 同上p25 附録 天和4年の再稼行願関係資料
4. 同上p35 附録 「貞享2年9月の覚」
5. 同上p36 附録 「備中銅御山仕様之覚」
6. 住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p16(思文閣 昭和62年 1987)
7. 長尾隆「ふきやの話」p67(昭和51年 1976)
8. 同上p81
9. 同上p86
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます