「福音の記録者マヘンドラナート・グプタ」
彼は突然、栄光のヴィジョンを見て意識を失った。人々は発作による気絶だと言った。しかしそれは実は、神のヴィジョンによって起ったあの静寂なムード、サマーディと呼ばれる超越意識の状態だったのである。
「この若者の狂気は普通の狂気ではない。彼は主を求めて狂っているのですよ!」と言った。……、シュリ・ラーマクリシュナは「偉大な思い」――神の思いに満たされているのだと知った。チャイタニヤのように、彼は常に、宗教意識の三つの状態のどれかを経験していた。純粋に内観的な、すなわち外界をまったく意識しない超越意識の状態、外界の知覚が完全に失われていない半意識の状態、および、主の聖き御名をとなえることのできるような意識の状態である。常に「母よ、おお! 母よ!」と言いながら、彼は絶え間なく母なる神に話しかけていた。
突然、自分の前にあるこれらのさまざまの草花は、絶対者の外に現われた姿を荘厳する数多の花束――大宇宙を飾る装飾以外の何ものでもない、という思いが彼の魂にひらめいた。シュリ・ラーマクリシュナは魂の底で、神の礼拝はこのようにして日夜絶え間なくおこなわれているのだ、ということを認識なさったのである。
師がいつかナレンドラ(ヴィヴェーカーナンダ)の姿を見ただけでサマーディの状態にお入りになったのも、やはりここ(ドクシネシュワル・カーリ寺院のベランダ)だった。
そうなるまでは、お前たちに勤行(カルマ)をやめる権利はない。そうなれば実に、勤行の方が自然に脱落する。魂がこのような境地に達したら、信者はただ、主の御名、(ラーマ、ハリ、または単に象徴・オーム)をくり返せばよい。それで十分だ。他のお勤めはいらない」
師「お前は神を、『形のないもの』として瞑想するのが好きか、それとも『形あるもの』として瞑想するのが好きか」
M(グプタ)「師よ、どのようにしたら、心を神に集中することができるのでございましょうか」
師「そのためには、ひとは、絶えず神の御名と彼の偉大な属性をとなえなければならない。……。たしかに、世間の苦労や心配の中で心を神に集中するのは難しいことだ。それだから、人は時おり、彼を瞑想するために人気を離れた場所に行かなければいけない。霊の生活の最初の段階では、人は独居しないとやっては行けない。」
「心、人目につかぬ片隅、および森は、瞑想(ディヤーナ)のための三つの場所である。人はまた、実在と非実在(現象世界)との識別(ヴィチャーラ)を実践しなければならない。このようにすれば、人は富、名声、力および感覚の楽しみというこの世の事物への執着をふるい落とすことができるだろう」
これを始終となえていれば神を愛するようになる。ついには神を見るであろう。
*右が積習の効用というものであろう。
人々は、四つのクラスに分けることができるだろう。一、世俗的な人々(この世のかせにしばられている人々)(バッダ) 二、解脱を求めている人々(ムムタシュ) 三、解脱をとげた人々(ムクタ) および四、永遠に自由な人々(ニティヤ・ムクタ)である。
絶対なる、無制約なる者を、相対的な、制約を受けている世界の言葉で述べることはできません。
真の知識すなわち悟りのしるしは疑惑の停止、したがっていっさいの哲学的論議の停止なのです。
マーヤは非実在である、ということが悟られると、個別化されたエゴ(アハム)は、完全に、言わばふり払われます。または拭い去られます。エゴはあとかたもなくなります。それが、完全なサマーディです。
一方、サマーディから私の母のおぼしめしによって、もっと低い霊的境地に戻ってくる聖者は、浄化されてはいるが個別化された、希薄になったエゴをとり戻しています。
このエゴを取り戻して、その聖者はもう一度相対世界にほうり込まれるのです。彼にとって彼のエゴが実在(相対的に)である間はこの世界もやはり実在であって、絶対者は非実在(相対的に)なのです!
*右の聖者を『大乗起信論』では菩薩と位置付けている。
彼は、宇宙の現象を、絶対者の感覚に対する現われ、と見るのです。
どのような類推も、超人格神と人格神との関係を十分に説明することはできません。これは悟られるより他に致し方ないものです。
わが母人格神は、無我のサマーディの中で個我を消し去るのがおすきです。その結果は、サマーディの中での超人格神の自覚、と言うものです。
サマーディに入っている聖者は、絶対者に関して何も言うことができません。大海に入った塩人形のように、彼は失われてしまっているのです! また彼はサマーディから下りてきても、絶対者については何も言うことができません。ひとたび個別化されたら、分化されていない存在に関しては沈黙してしまいます。ひとたび相対世界に戻ってきたら、絶対者、無条件なる者に関しては彼の口は開かないのです。
われわれの弱い推理や識別の力では到底、絶対者に到達することはできません。ですから、推理ではなくて啓示! 理論ではなくて霊感です!
ここに、哲学による悟り(ギャーナ)と愛によるそれ(バクティ)との間の、和解があります。
サマーディから感覚意識の世界に下りてきた人だけが、希薄な自己(長さだけで幅のない線のような)、霊的視力を保持するに足るだけの個人性、を持つことを許されます。
母なる神がサマーディの中であなたのエゴ(個人性)を拭い去るときには、ブラフマンが悟られ、いっさいの言葉やみ、在るものだけが、そこにあります。まことに、海の深さを測ろうと海中に歩み入った塩人形は、無限の大海と一つになってまったく語らないのです!
われわれにくっついて離れない「私は肉体である」という確信をふり落とすことは、実に非常に難しいのですから。
だいたい、決して欠かすことのできないものは準備段階の訓練です。それなしには、人はバクティ(神への愛)を得ることはできません。この訓練を抜きにしては、絶対知識など思いもよらぬことです。
最後に、彼はしばしばサマーディの中で感覚意識を失い、ジャダ(知覚のない、動かない無生物)のように見えます。
ちょうどチャコラ鳥が月の姿を見て、喜びに酔い、大空を踊りまわるように!
師(つづけて)「識別がターメリックである。それが人に、神が唯一の実在、他はすべて非実在であることを悟らせるのだ。
このような推理の結果として心が欲望によって動かされなくなるとき、実に、限定された心が消滅するとき、人が真の知識(ブラフマ・ギャーナ)を得るのはそのときである。
神は一つ、名前が異なるだけだ。(アラー・ゴッド・ブラフマン・カーリ・ラーマ・ハリ・イエス・ブッダ)
いつまでも『私は罪びとです。私は罪びとです。』と言い続ける哀れな奴は、罪びとになってしまうのだよ、本当に!
「あこがれは、悟り――見神――の直前の段階だ」
人は、この世界という仕組みの中の唯一の行為者は神である、自分たちは彼の御手の中の道具にすぎない、ということを悟ったときにはじめて、この世界に生きながら真の自由を楽しむことができるのだ。
『あなたが』と『あなたの』が真の知識(ギャーナ)であり、『私が』と『私の』が無知である。
――世間に住みながら世間のものになるな――
愛と信仰と自己放棄(お任せ)による神との交流だ。
お前が『オーム、ラーマー』と言うやぃなやお前の目に涙が浮かぶようになったら、行をする時期は終わったものと思ってよろしい。
この世のむなしさの感覚をまつたく持たない学識の人は、何の値打ちもない。
ついに、実在なる神と非実在なるものとの識別がやむ一点に到達する。そして、サマーディの中で絶対者が悟られるのである。
霊性のめざめは、大いに時のかかわる問題である。教師は、ただたすけをあたえるにすぎない。
バーヴァというのは、至高実在(絶対の実在・知識・至福としか形容しようのないもの)の思いに打たれて言葉を失った状態だ。バーヴァが、普通の人間が到達できる最高境地である。
神への忘我の愛(ブレマ)はごくわずかの人しか得ることはできない。そのような人たちは並外れた本源力を持ち、神の委託を受けている人だ。神の力と栄光の世つぎとして、彼らは彼らだけのクラスを形成している。
バーヴァは未熟なマンゴーのようもの、ブレマは熟したマンゴーのようなものだ。
非実在のもの(すなわち現象宇宙)からの実在(神)の識別、および世間に対する離欲は、二つの浄化剤である。これをおこなえば、世俗的な人も俗心をはなれ、純粋になるのだ。
「知識は、突然に伝達できるものではない。その達成は、時の問題である。」
『なぜあなた方は私を溺れさせようとなさるのですか。ひとたび結婚したら、私の一切はおしまいです!』
師(励ますように)「自分の心から世間をはなつことができればそれで十分だよ」
同様に、聖典はただ、われわれに神に至る道を、つまり神を悟る方法を教えるものだ。ひとたび道がわかったら、次の仕事はその道を目標に向かって歩き出すことだ。悟りがその目標である。
師「たしかにそうだ。有限の心ではだめだ。しかし、教育と修行によって感覚的な性質から解放された、清らかな心は、彼を悟ることができる。そのときにはまさにこの心が、純粋な理性、つまり無条件の限定のない心の働きと同じ物である。このようにして、古代の賢者たちは純粋な、限定のない魂をさとったのである。
「心も決定する能力も絶対の中に融合してしまう境地がある――部分から成り立っているとは考えることのできない絶対者の中に、である。ナレンドラを見ると、私の心は絶対者の中に没入してしまう。――お前、これを何と思うかね」
「お前たちの言う『相対界』は、もとをたどれば、お前たちの絶対者が依って立つところの存在以外の何ものでもない。それだから、ラーマーヌジャの言うところにしたがえば、絶対者は有限の魂および現象の世界によって限定されるのだ。これが限定非二元論、すなわちヴィシシュタアドワイタムという教義である。
(グプタに)おお、推理または識別による単に知的な神の理解と、独居の瞑想による現実の悟りとの間に、そしてまたこれら二つと、彼の恩寵による悟りとの間には実に大きな差異があることを、私は見たのだよ。
師「実在と非実在について推理していると、絶対者なる神が実在であって現象の宇宙は非実在だ、という結論に達する。現象宇宙とは、名と形を持つすべてのもの――物質的なものも霊的なものも――のことだ。これが、ヴェーダーンタ哲学の結論である。この方向に推理を進めてやがてサマーディの中で悟ると、悟った人は言う、『神は人格ではない』と。なぜならそれは神を限定することになるから、何ものも、絶対者なる神を叙述することはできない。限定された自己は、サマーディの中では消えてしまっている。そういうわけで、絶対者の属性を示す個体はそこに残っていないのである。絶対者はそのときは、絶対意識として悟れるだけである。」
「もしお前が、知識すなわち哲学の道の方が好きなら、『絶対者が唯一の実在、名と形のこの世界は非実在である』と言って推理をしてもよいのだよ。そうすれば、氷は真の知識という太陽の強力な光のもとに溶けてしまい、お前はそこに残された果てしのない、無限の大海を悟ることになるだろう!」
多くの人たちが、知識(神の)は書物を研究しなければ得られないと思っている。だが読むよりも高尚なのは聞くこと、聞くよりも高尚なのは見ること(悟る)である。
私は本を読んだことがない。(ラーマクリシュナ)
神を悟った者は、絶対者なる神がわれわれの前に現象の宇宙として、つまり人や自然として現われているのだ、といことを理解する。
子供の信仰のような信仰が、唯一の必要なものだ。
『あのね、あなた自身が結婚なさったら何もかもわかりますよ。いまどうしてそれをあなたにわからさせて上げることができましょう』
『それが何であるか、ということを、口で申し上げることはできません』
世界中にまだ一人として、絶対者の性質を口から出る言葉で表現し得たものはいない。
うぬぼれは必ず、書物に関係を持つ連中の中に多く見られるのは奇妙なことだ。
私はかつて一度、これに似た知覚を得たことがあった。一つの実体が、すべての生き物の住む宇宙という形をとっている、と感じたのだ。
こう言いながら、師は弱い声で、「ああ! ああ! 何というヴィジョンだろう!」とお叫びになる。
またしても神意識の状態! 師は感覚の世界を超えて高く飛翔しておしまいになった!
*二〇一六年十一月二日抜粋終了。
*印は抜粋者のコメントです。
*この本を読んでいるとき、並行して『大乗起信論』『臨済録』井筒俊彦等を読んでいると、奇妙な事態が発生するのを経験する。
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