大乗への信心を起こさせる書 (大乗起信論、現代語訳 高崎直道訳)
述作者 馬鳴菩薩。
漢訳者 西インド出身の訳経僧、
真諦。梁の時代に翻訳。
漢訳者 西インド出身の訳経僧、
真諦。梁の時代に翻訳。
第一段 本書述作の動機(因縁分)
問 どんな動機(因縁)でこの論典を述作したのか。
答 動機は次の八点にまとめられる。
問 経典(波羅蜜)の中に、この教えはすでに委しく説いてあるではないか。どうしてここで再び説く必要があるのか。
答 たしかに経典中にこの教えは説いてある。しかし、人びとの能力や実践程度は一様でないし、教えを受け、理解する条件は別々である。……。こういう次第で、本書は如来の広大にして深甚なる教えの限りない内容を小論の中に要約してみようとするものである。
*本文中の〔 〕は煩瑣なので、取り外して地の文にした。(抜粋者)
第二段 主題――大乗とは何か――(立義分)
この(大乗)という言葉には二つの側面がある。一つは大乗と呼ばれるもの(法)すなわち何をさして大乗とよぶのか、他はその内容(義)すなわち「大乗」ということばの意味、あるいは、それが「大きい乗りもの」とよばれる理由」である。
ここにいう大乗とよばれるもの(法)とは、具体的には衆生(しゅじょう)ひとりとひとりの心(衆生心)をさす。
この衆生ひとりとひとりの心にはすべての世俗的に価値あるもの(世間法)、および、世俗を超越した価値あるもの(出世間法)が含まれており、したがって、それが大乗の内容を表現している。
何故かというと、この衆生ひとりとひとりの心の真実ありのままのすがた(心真如相)に大乗というもの自体(体)が顕われており、他方、その心が、種々の現象の消滅する因由となるすがた(心消滅因縁相、すなわち、現実に機能している心のありさま)に大乗の自体とその諸特性(相)と機能(用)とが示されているからである。
次に、その内容(義)すなわち〈大きい乗りもの〉といわれる意味のうち、まず、<大きい>ということには三点がある。
第一に、そのもの自体が大きいということ(体大)。すなわち、衆生心の本体はすべてのものの真実のあり方(一切法真如)として、すべての衆生に平等に具わっており、衆生が迷っているからとて減ることはなく、悟ったからといって増すものでもないからである。
第二、そのもつ特性が大きいこと(相大)。すなわち、衆生心はその内に如来を宿すもの(如来蔵)として、如来と同じ徳相(功徳)を本来無量に具えているからである。
第三に、そのはたらきが大きいこと(用大)。すなわち、その衆生心の内なる如来、すなわち心真如が世間的ならびに世間超越的なすべての価値あるもの(善)の因となり、果となるからである。
次に<乗りもの>という意味はすべての仏たちがむかし、それに乗って悟りを得たし、また仏と同じ悟りを求める菩薩たちもみな、それに乗って将来如来の地位に到達するであろうからである。
第三段 詳細な解説(解釈分)
詳細な解説は次の三章よりなる。すなわち、
第一章 正しい教えの提示(顕示正義)
第二章 誤った見解の克服(対治邪執)
第三章 実践に入る道程の開設(分別発趣道相)
一切は唯心で、心の外に対象となるもの(法)が外界に実在することはないからである。
あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現(仮名・けみょう)にすぎず、それに対応する実体はない。
いわば、この名は、言語表現のぎりぎりのところで、言葉を用いて、他の余分な、あるいは誤った表現を排除する(因言遺言)のである。
すべてのものは言葉で表現できず、心に思いうかべることもできないので、そのことをものの<真実ありのまま>(真如)とよぶのである。
ものの真実のあり方をうけ入れるとよぶ。
そして、そのような思いはからいを離れすてることができれば(離念)、これをものの真実のあり方に悟入したと名づけるのである。
真如は右のごとく、ことばで表現できず、ただ体得(悟入)すべきことであるが……
すべての衆生は誤った心の動きがはたらくので、一瞬一瞬、分別して、種々の差別相があると思うが、そのような誤った心の動きは皆心の真実のあり方と本来結びついていないので、その点を<空>というのである(不相応=空)。
このまよいがあるから、修行によって、その状態をひるがえしはじめて覚る(始覚)ことが要請される。
このうち、智のはたらきのもつ浄化力とは、仏のおしえ(法)をくりかえし修習することによって得られる慣性的な力(法力薫重)によって、如実に修行して、さとりの手だてを完成するので、覚と不覚との和合した識(和合識、すなわちアーラヤ識)の特色を破壊し、刹那ごとに消滅しつつ連続する識の特色を滅ぼして、本来のすがたである法身を顕現し、知恵が純浄となる点をいう。
しかも、心は動くのが本性ではないので、無名の動きがとまれば、心の動き、すなわち刹那ごとの消滅のくりかえしによる連続は消滅する。(第三段・解釈分)
*拙著『述語は永遠に……』(四〇〇字詰原稿用紙六三六枚・昭和五十六年)で探求していたのは、「心の動き、すなわち刹那ごとの消滅のくりかえしによる連続は消滅」しないという、述語探しによる連想過多症のつきなさを書いていたことになります。長いこと、この作品のポジションが分からないままでしたが、七五歳になって、この『大乗起信論』第三段・解釈分の一文に出逢って、四〇歳の著作時にはそれと知らぬまま六三六枚を要していた事態が飲み込めました。
それ(如実空鏡)は一切の主観(心)客観(境界)の相を離れていて(遠離=空)何ものもそこに現われるものがない。
衆生もそれと同じで、さとりと対比するからまよいがあるが、<さとり>と切離せば(若離覚性)<まよい>もない。
無明業相(心に動きのあらわれることを<業>という)
能見相(もし心の動きがなければ、心が主観として対象を見ることはない)
境界相(もし心が主観としてはたらくことがなければ、客観も成立しない)
心と別にいろかたち、おと、かおり、あじ、触れられるもの、ないしは概念という六種の対象は存在しない。
この教えの意味するところは何か。一切の現象(一切法、心の対象となるもの)はみな心から起こるもの、すなわち真実を知らないで心が妄りにはたらく(妄念)ことから生ずるものである。
世間の一切の認識対象は、すべてこれ衆生の<根元的無知>にもとづく妄心のはたらきによって現象しているのである。
心がはたらきをおこすと種々の現象が生じ、心がはたらきを止めれば、種々の現象もまた消滅するからである。
この状態(不覚の相のうち、意識のはたらきによって起こる執取相ないし業繋苦相に相当する)は、未信の凡夫の心の状態で、弟子などの二種の道による解脱、および、菩薩にあっては信と結びついた段階(信相応地)に達することによって遠ざけることができる。
菩薩が信と結びついた段階に達したのにもとづいて、修行の手だてを順次学ぶにつれて徐々に遠ざけ、浄心を得た段階(浄心地=菩薩の初地相当)において最終的に除去できる。
……、菩薩の最終的段階の最終点(菩薩尽地)に達し、その次の瞬間如来の段階に入ってようやく離れることができる。
またこの粗大と微細という二種の心消滅の相は、根元的無知のはたらきかけ薫重の力にもとづいている。
衆生の心消滅→染法と浄法→浄法・染因・妄心・妄境界
互いにはたらきかける(薫重)
はたらきかけ(薫重)の定義
ここに<はたらきかけ>(薫重)とは、世間で、衣服自体には香りはなくても、人が香をたきしめるとそこに香りがつく。それと同様に<真実のあり方>(真如)なる清浄な法(もの)(浄法)自体には汚れ(すなわち煩悩)はないのだけれども、(根元的無知)がはたらきかける(薫重)と、そこに汚染された相があらわれる。また、(根元的無知)なる汚れた法(もの)には本来、浄化するはたらき(浄業)はないけれども、<真実のあり方>がはたらきかけると、そこに清浄な作用がおこることをいう。
無明の薫重
妄心薫重
妄境界薫重→増長念薫重・増長取薫重
「若人以香 而薫重故 則有香気」
これ(意薫重)は菩薩たちが最高のさとりに向けて発心し、勇猛に修行道を実践して速やかに涅槃に赴くようにしむける。
真如薫重→自体相薫重・用薫重
自体相薫重とは、心の真実のあり方、すなわち自性清浄心にはその始りも知られない遠い昔から、煩悩に汚されない諸徳(無漏法)が具わっており、人知を越えた不思議なはたらきをもっていて、妄心のまえに、目標とすべき対象となってあらわれる。
またたとい、そういった外からの条件の力にめぐまれても、内発的な、真実のあり方に目覚めるという浄法のはたらきかけが稼働しないかぎりは、生死の苦を厭い、涅槃をねがい求めることを徹底して遂行することはできない。
一切の現象(法)は本来、ただ心の現わしだすもののみ(唯心)であって、しかも、その一切の現象を現わし出す心のはたらき(念)は真実には存在しないけれども、現実には衆生のひとりひとりに虚妄な心作用(妄心)としてはたらいている。
しかももし、根元的無知のために心がはたらきを起こすと、心に思い浮かぶ眼前の対象だけを見る(見前法可念)ことになるが、他方では心に思いうかべないものは見ないということも生じるわけで、そこに欠けるところができる。
すなわち、諸仏如来は、むかし、まだ仏となる前、菩薩であったとき(本在因地)、……。
すなわち一切の客観(境界)は心にほかならないが、その心が誤ってはたらきを起こすとき(妄起)、対象もまた有とみなされる。故にもし心がみだりに動くことがなければ、一切の対象は消えて、ただ一つの真実の心(真心=心真如)だけが遍在するようになる。
それ故、一切の現象は本来、物質でもなく、精神でもなく、直感的な智恵でもなく、分析的な認識でもなく、存在でもなく、非存在でもない。究極的にそれはいかなることばによっても表現できない様相のものである。
修行の方法
❶行根本方便
❷能止方便
❸発起善根増長方便
❹大願平等方便
何となれば、一切の現象は本来、本性として涅槃に入っているすなわち生ずることなく寂静であるということを、仏の教えを通じて信知しているからである。
菩薩の発心の相
❶真心
❷方便心
❸業識心
心消滅のある限り、いかなる高位の菩薩といえども業識がはたらいている(すなわち無明の力がのこっている)とみるのが、本書の基本的理論である。
それはあくまで衆生の心のあり方に応じて現れるのである。
第四段 信心の修行(修行信心分)
信心・四種
❶根本を信ずること。
❷仏は無量の特性を具えていると信ずること。
❸仏の教えには大いなる利益があると信ずること。
❹教団の成員たる修行者たち(僧)はよく自利の行、利他の行を実践するものであると信ずること。
五門の修行
❶布施門(施門)
❷持戒門(戒門)
❸忍耐門(忍門)
❹精進門(進門)
❺止観問(禅定と智恵の両行の并修)
人がやって来て、教えを乞うたならば、自分が理解しているのに応じて、方法を考えて、その人のために法(教え)を説け(以上は法施)。
人の集まるところを避け、つねに静寂な場所に住まい……
またここにいう(観)とは、諸々の現象の因縁によって生起する相(すなわち心消滅の相)を見分けること(分別因縁生滅相)。
(止)すなわち、一切の対象の相をみないことを修行しようとする者は、まず、静寂なところに住まい、正しい姿勢で坐りすなわち結跏趺坐して、こころ(意)を正すべきである。
あらゆるおもい(想)を、そのおもいの生ずるごとに(随念)、ことごとく除き去り、しかも、のぞき去っているのだとのおもい(除想)をも捨てされ。
以上の(止)の修行について長く修練を積んで(久習)、その仕方に習熟すれば、心(おもい)は次第に鋭利になり、心はいつも安定(住)する。心がいつも安定するようになればやがて<真如三昧>(真実のあり方をのみひたすらに念ずる禅定)随い入ることができるようになる。そうすると煩悩をよく克服し、信心はいよいよ増し、いち早く悟りに向かう道において不退の状態にいたるであろう。
また次に、このような<真如三昧>に入ることによって、諸々の現象の根元はすべて同一の相であるということ(法界一相)をさとる。すなわち、一切諸仏の本性としての(法身)と衆生の身とは、その根元において平等・不二であるという意味でそれ故にこの三昧をまた(一行三昧)と名づける。汝は知るべきである。このように<真如三昧>はあらゆる三昧の根本である。
こういうわけであるから、修行者はつねに正しく智恵をはたらかせて観察して、心が邪網にひっかからないように心掛けるべきである。
外教の徒の実践する三昧はすべてこれ、誤った見解と煩悩(見愛)、自我意識への執われ(我慢)から離れない。
以上のような禅定の修習は、ただそれだけにとどまるとき、人は心が沈み、あるいは怠惰になって、進んで多くの善事を行おうと願わなくなり、他者のために尽くそうとの大悲から遠ざかるであろう。それを避けるために、次に<正観>を修習しなければならない。
一切の心のはたらきは刹那ごとに生滅する。それ故に、それらの現象はすべて苦であると観ずべきである。
それなのに、なおそれを覚知しないとは、何と衆生は憐れむべき存在かとの思いを持つべきである。
……このような思いをもったとき、人は心を奮いたたせて、次のような大誓願をたてるべきである。
――願わくは、わが心をして、主客・自他等の分別を離れ、それによって心を十方世界にあまねくゆきわたらせて、一切の善行、徳行を実践し、未来の限りをつくして、あらゆる方便をめぐらして、すべての苦悩する衆生を救済し、涅槃という窮極最高の安楽を得させたいものである――と。
そういうわけで、禅定と正観という二門はお互いに助け合ってはたらき、はなし難いものである。もしこのような禅定と正観とを共に具えていなければ、人はさとりの道に入ることはない。
第五段 修行の勧めと修行の効果(勧修利益分)
……、つねにこの『起信論』を手にして、思念し、修習すべきである。そうすれば最終的には、無上のさとりに達することができるであろう。
当(まさ)に知るべきである。過去の菩薩も、すでにこの教えによって大乗への浄信を成就することができたし、現在の菩薩も、いまこの教えにしたがって浄信を成就するであろうし、未来の菩薩もまた、この同じ教えによって、大乗への浄信を成就することができるであろう。そういうわけであるから、衆生はまさに勤めてこの『起信論』の説く教えによって修学すべきである。
普(あまね)く衆生界のすべての者を利益せんことを。
大乗起信論 おわり
*二〇一六年一〇月二十九日抜粋終了。
*印は、抜粋者のコメントです。
*抜粋者が平成十二年に書いた『人様のお金』に、次の文章を引用していました。
右に揺れ左に揺れ戻りつつ展開する思惟の流れに、人はしばしば路を見失う。要するに、一見単純な論理的構成にもかかわらず、『大乗起信論』の思惟形態は、直線的ではないのだ。だからこのような思考展開の行き方を、もし我々が一方向的な直線に引き伸ばして読むとすれば、『大乗起信論』の思想は自己矛盾だらけの思想、ということにもなりかねないだろう。
井筒俊彦『意識の形而上学』―「大乗起信論」の哲学
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