惚けた遊び! 

タタタッ

抜粋 『禅家語録集』 「解説 禅と歴史」 唐木順三 筑摩書房  日本の思想10

2016年12月23日 | 宗教


 「山僧、二十年後、自己が自己を管帯し、三十年後、自己が自己を忘却し、四十年後、自己只これ自己」(無学祖元)


 時間が空間化されて、一瞬の今に凝縮される。


 一休の母は死に臨んで、「釈迦、達磨をも奴となしたまふ程の人になり給へ。」


 理性をもって、対象を思惟する能力とすれば、理性が迷いのもとである。自己或いは人間の計らい、或いは尺度で、自己或いは人間に都合のよい世間を区切り、埒を設けること、そしてその埒内にあって、対象を実験し証明し、利用するという、自己或いは人間中心主義、ヒューマニズムは迷いである。


 「巳共が所で其のやうな、古ほうぐ(古反古、この場合は、百丈野狐の公案を指す)のせんぎはいたさぬ。そなたはいまだ不生にして、霊明なる仏心じやといふ事をしらぬ程に、いふて聞かしませう。それで埒の明く事じや程に、身どもがいふをとっくりと、能きかしやれい、と有って、常のごとく不生の示しをしたまふなり」(盤珪『御示聞書』)


「埒が明く」「埒を明ける」→埒もない


禅の系譜
 釈迦牟尼→迦葉→二十八祖菩提達磨→中国禅→日本禅


 師資嫡々相承、面々授受は禅家の特に重んずるところである。それが正法の正伝の仕方、正法眼蔵涅槃妙心の歴史的な伝わり方である。


 蒙古民族の圧迫のもとにあった南宋の朝廷には、自国を維持するために国家民族意識を高揚する必要があり、禅僧たちもまたそのために動員され、興禅が直ちに護国と結びつかざるをえなかったという事情があった。


 柳田聖山氏はその「中国禅宗史」の中で、宋朝の滅亡によって、中国の禅宗の「海外亡命」が始まり、鎌倉時代以降の日本の禅宗の成立は、この亡命禅によるところ大きいといっている。


 正三の『驢鞍橋』を読んで気づくことは、しきりに次のようないいまわしが出てくることである。「ひしと諸行無常の意移りたり。」「家屋、金銀、万事目の前にぎらりとあることなれば。」「きっと守り終わるべし。」「この糞袋(わが身)をかたきにして、ひた責めに責むべし。」「心、はつしと用ゐて。」「機をきつとして。」「じりじりと睨みつけ。」「必ず死をはつしと守るべし。」


 詩興のない(正三)のは窮屈である。


 「ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。」(道元『正法眼蔵』)


 私は鎌倉時代の親鸞、道元によって、仏教が日本で初めて、自己実存の生死にかかわるものになつたと思う。


 山門をまたげば、そこは俗塵を洗った深山幽谷、そこに住むのは求道、学道の衆僧、即ち叢林ということになる。


 禅師(盤珪)は実に日本の生んだ禅匠中の最も偉大なる一人と謂はなくてはならぬ。(大拙)





*平成二十八年十二月二十三日抜粋終了


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