惚けた遊び! 

タタタッ

アア、シラカバノキジャナイカ

2016年05月01日 | 小説
 そう、あのテント場に着いたのは八月も末で、キャンパーたちはみんな引き上げたあとで草原には一つもテントが無くて……二週間、あそこにテントを張ったままにして……しなけりゃならないのは食事を作る手伝いだけで、日が昇るとテントを出て薪を集めて飯盒の飯を作るだけで、食べ終わるとそのままほったらかして、ゴロッと大地に横になって……行く雲を見たり山々や木々の葉を見たり、飽きれば本をパラパラとめくり、……すべての煩いを投げ出したままにしておいて、時が軀の中をゆっくり濃密に通り過ぎていくのを物珍しく見ていたのだ。
 それは少年の頃、野山で遊んでいたときに感じていた充実感のある何か内から膨らんでくるような空間的な面積、いや容積を持った時であった。以来、ずぅっと忘れていた感覚であった。……人影が見えなくなってしばらくして、二、三人のハイカーがキャンプ場の端を下山していった。鳥取の医大生が一人、キャンプ場の下見に来たのに会ったなぁ……なんでも来年全国の医大生が集まってなんかやるようなこと言っていた……その彼も一泊して帰ってしまい、キャンプ場は人気の無い森閑とした草原になってしまった。
 いつまでも何もしないで居られないような気分になって、明日はテントをたたもうかっていう前の日の夕方……だったかなぁ、三時ごろだったかもしれない。通り雨が朝から気まぐれに何度も降って一日中テントに閉じ込められて……あの日、何度目だったろう、房子の尻をだき抱えたのは。
 意子のとき満たされなかったものが心行くまで堪能できて、軀の中に高圧電源を据え付けたみたいに手指の先や神経の末端が唸りを発していた。猪にでもなってしまったみたい。五感は活力がみなぎっていた。
 ……テントの中で、奥のほうにある小さな手鏡をとろうとして四つん這いになった房子の黒いスラックスを下着ごと引きずり落とし尻をむき出した。大きな桃のようなその割れ目にズブズブと私は入り込んだ。抱えきれないほどの尻をしっかり抱え込んで、霧に煙る三保湾を見下ろしながら射精が始まった。ドクッドクッと傷口から血が吹き上がるように射精しながら、軀はビクッ、ビクッとしびれながら反り返る……どこを見ていたのだろう、何を見ていたのだろう、長いこと焦点も定まらずになにやら宇宙の裏でも見ていたのだろうか。
 ふと、気がつくと、山の辺にたわわな一本の白樺があり、視線はそこに集中していた。どのくらい、見ていたのだろう……射精の大波が収まっていくに従い、まるで長い旅から今帰ってきたかのように……何かを、というか、どこかをグルッと一巡りしてきたかのようにして……アア、シラカバノキジャナイカ、と、白樺を見ている私に気がついたのだ。
 ……射精中から引き続いて魅せられたようにそこへ釘付けにされていたんだなぁ、きっと。幾秒、幾分、いや幾時間を経過したのだろう……そこには何もなかったけど、何だろう、空白……と言っても白い紙があったわけじゃぁない。何だろう……気がついたら、物音が絶えていて、白樺の樹ばっかりがあって……雨に洗われた白樺の葉の、無数の葉の群れが、雲間を切り開き光の板となって降り注ぐ初秋の陽に晒されて、雨脚の駆け抜けた高原に沸き起こった風にハタハタ、ハタハタと数限りなく鳴り渡り、光さんざめいていた。
 それは桐の葉のように馴れ合っていっせいにざわつくのとは違って、各々の葉が孤立していて、ちょうど小判の山をばら撒いたよう。無数の葉が一枚一枚鮮明に見えて、なんだか異様に視聴覚が鋭くなったみたい。可視・可聴範囲が拡張・拡大されたみたい……なんだっていうのだろう、やけにハタハタするじゃないか……湿気がないからか、そんなはずはないけれど、清々しさが異常だ。雨上がりだからかな?、物がみんな水晶みたい、そう、紫水晶のように微かに色がただよい出ている、けがれがなく透明だ。埃なんか、どこにも無いじゃないか! 普段見慣れた樹とはどこかちがうなぁ、幹の白さだって、いつもの白さじゃないみたいだ、言ってみれば、原初の白なのかなぁ……。なんだか今まで見てきた白が白としては贋物みたいな気がする。というより、今まで目にしてきた白が何か被せられた白なのだろう、葉だってそうだ。贋物を掴ませられていたのだ、きっと。
 本当にこんなの見たことないなぁ……手のひらを振っているみたいじゃないか……赤ん坊のような小さな手もありゃあ、相撲取りのような手があって、招くような手があり、……二、三千人分の手が一本の樹に集まったみたい、あらゆる年齢、あらゆる階層、あらゆる人種が密集しているみたい、アア、千手観音なのか。勝手にみんながそれぞれ手を振っている……誰に振っているのだろう?
 ……エッ、この私に、か……私に! 今こうして、女の軀の奥深く身をねじ込んで、女の大きな尻に軀をすっかり密着しているこの私に……女も私もありゃあしない、一塊の肉のドロ団子だ。わが身をそこへ、肉のドロ団子に供えて、私は流動物になったのか。物と物との絡まり合いが角を削り落として団子にしているみたいだ、きっと溶けているのだろう、枕木のようにゴツゴツしている私が。なんだか辺りの様子が変だ、やけに透き通っている……なんだっていうのだろう、あんなに手を振って…… 「さよなら」なのか、それとも…… 「お出で、お出で」なのか。行ってきて帰ろうとしているのか、暮れなずむ浦々を潮が引き上げていくように……。それとも、越えられなかった藪を突き破って、向こう側に転げ落ちた猪なのか、今の私は。
 すると、私はとうとう流れの中に飛び込んだのか……な。辺りは逆巻く奔流、岩を噛む白い渦なのか……。どうなのだろう……。誰がそれを認めてくれるのか……、多分、それは誰にも分からないのだろう、ただ、自分でそれを支える以外には。それにしても、それを支え続けられるだろうか、どんな風にして支えるのだろう? そこに立ちいたれば、そんなことは問題にもならないのだろうか……でも、それは……紫水晶のように奇麗なものであっても、水の中の角砂糖みたいにもろいようだ。角砂糖を紫水晶に変えるなんてことは出来ないのか。
 ……多分、それは存在ではなく状態としてしかありえないのだろう、永遠の。……私も白樺もなくて、私と白樺が一つになっているのか、そういうことなのだろう、これは? 白樺ばっかりで私が居ないのか、私が白樺になって私を見ているのか。それとも、唯、私の居ない風景なのか。あるいは、私も白樺もない世界か。そう、世界がドッキングして唸りをあげているのか、あらゆるものを巻き込んで、物の名を奪って。




出所―昭和五十六年 小説「述語は永遠に・・・・・・」四百字詰め原稿用紙六三六枚脱稿

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