フィリピンライフ「バタンガス海の家」&ドゥマゲティ「ゲストハウス」シエスタカーサ。

バタンガス「海の家」ドゥマゲティ「ゲストハウス」(2019年8月オープンも現在休業中)。現地情報&日々の出来事。

フィリピンへの道、その8.

2020-04-18 08:31:19 | フィリピン暮らし

当時、下宿近所の雑貨屋は数件あった。何故同じ所に行ったかと言うとカミさんが店番をしていたから。関心のあるような素振りは一切見せなかった、常に話し相手はおばさん。母親から娘を連れだしてくれと言われる始末、役者になりながらも交際が始まった。結婚式は、ドマゲッティの実家。そして、下宿部屋がそのまま住居になった。なんせ大家族、ざっと20人が同じ屋根の下で暮らしていた。ダイビングリゾートも順調に動いていたが、持病の腎臓でダウン。入院、手術の展開中に施設の売却を決意。結局自身の力不足、スタッフの反逆もかさなり、全てがパー。振出しに戻った、精神的肉体的にも最低ライン。何かをしなければ。プレッシャーを課していた時に、ヨットスクールをやりたくなり近郊の湖でスタート。同時に小型ヨット製作も開始、週末は模擬レースに明け暮れた。5年近くやったが、カミさんから退却命令。これ以上は、経済的に無理。もう一度ダイビングに戻って娘の学費を稼げと尻を叩かれた。続く。https://www.youtube.com/watch?v=yt_k70KHX7Q&t=4s

近郊の湖。

 


フィリピンへの道、その7。

2020-04-17 16:00:46 | フィリピン暮らし

ゲスト数も、倍々で増えて行き、同時に増築を進めた。3年目には、部屋数14室、スピードボート3隻、気が付くとスタッフも正規15名、パートタイム15名に膨らんでした。超忙しい正月の二日に信頼していたスタッフのベットが反乱を起こした。「悪いけど今日で全員辞める」、ゆっくり話を聞いても同じ答えだった。直ぐマカティに居るカミさんに電話して対策を考えた。当時、税務署に努めていたカミさんは会社の代表、雇用問題にも詳しかった。直接彼女からベットに電話を入れ、先ず退職勧告は最低2週間前と定められており、退職金は出せない。さらに、全員が辞表を出す事を条件とした。その日の夕方、15名のパートタイマー全員に、明日から働いてもらう為、兄弟姉妹を引っ張って来させた。翌日は、難なくクリアー。次の日ベットが、あれは冗談だった。と、言って来たがカミさんは拒絶。しかし、惜しい人材も3人ほど居たのでアルバイトで再雇用。ベットは捨て台詞で去って行った。結果的に、膨らみ過ぎた人間を一気に整理できたし、適材適所が行き届きコストも大幅に下げられた。続く。https://www.youtube.com/watch?v=yt_k70KHX7Q&t=13s

当時の写真

 


フィリピンへの道、その6。

2020-04-17 08:58:50 | フィリピン暮らし

セブでやり始めた、その少し前に、バタンガスで日本人学校中学部生徒1名がダイビング事故で死亡。詳しい事故の経過を、ダイビング仲間のピーター(アメリカ海軍MP、軍の中の警察)から聞かされた。彼は、事件当時現場に居た。北海道からフィリピン駐在にやって来た家族3人は、日本人インストラクターとそのリゾートにやって来た。生憎と台風が通過した後で濁っており、そこに魚突き目的で来ていたピーター達はダイブを断念していた。やって来た日本人グループに対し、今日は無理だと言ったものの日本人家族とイントラはエントリー。直ぐに親父さんとイントラは浮上、しかし母親と息子は揚がって来なかった。直ぐにピーター達が捜索開始、夕方頃に母親のみが浜に打ち上げられた。息子は翌日朝死体となって発見された。この痛ましい事故で大使からも自粛要請が出された。マニラ近郊でのダイビングがいきなり下火となり、当時のインストラクター2名は帰国。セブからバタンガスに戻った頃もダイビングは敬遠ムードが漂っていた。しかしながら大使の帰任と共にダイビングが復活。急に忙しくなった、気が付けば日本人インストラクターは自分だけ。とてもハンドリングできなくなり、拠点造りを決意。日本人初の施設が完成した、土地はレンタル、器材はマニーさん、宿泊はテント。まるでキャンプ地だった。続く。https://www.youtube.com/watch?v=yt_k70KHX7Q&t=12s

 


フィリピンへの道、その5.

2020-04-16 15:56:39 | フィリピン暮らし

セブ最南端リゾートは、日本の景気も良いらしく割に順調だった。しかし、事件は起こった。現地のローカルパートナーが切れた、理由は「会計監査」。半年が過ぎ、ゲストは入っているのに「利益の数字」が上がら無い。そこが、今一つ不明で共同で会計の見直しする事を申し出た。すると翌日、いきなり拳銃を持って来られて、当時入れたもう一人の日本人イントラと逃げた。このパートナーは地方銀行を経営し、親父さんはドマゲッティ市の元市長。一角の人物が何故?頭は混乱する中で、フィリピンに来た頃からダイビング関連で色々と世話になっていたマニラ在住のマニーさんに電話で相談した。意外なことに、彼には貸しがあるのでオレが話を付けてやる。そんな流れになりドマゲッティ市内のレストランで場が持たれることになった。向こうは危ない連中を従え20人ほどでやって来た、対して我々は3人。マニーさんはスペイン系で、一昔前まではかなりハイソサエティーファミリー、全然臆する事無く淡々と向こうの要望を聞いた。最終的に、今の共同リゾートは日本サイドの投資分も含め全て譲る、只一つの条件は近くに新設するリゾートには一切手出しをしないこと。ローカルパートナーもスペイン系でもあり、血の約束は守るはずだ。と、後にマニーさんが説明してくれた。実際、その後一度もトラブルは発生しなかった。新設リゾートは完成した、それから約1年後に離れ元巣のバタンガスに戻った。苦難を共にした日本人イントラも離れ、リゾートを造り今も健在。続く。https://www.youtube.com/watch?v=yt_k70KHX7Q

写真はリロアン所在地。


フィリピンへの道、その4。

2020-04-16 09:21:42 | フィリピン暮らし

最初のセールスプロモ提携先は、バタンガスのマリーナ&ダイブリゾート。オーナーはニュージーランド、ダイブショップのイントラは英国人だった。コメディアンみたいな人だったが、彼にはレクレーションとしてのダイビングを習った。日本人会に通い、ここがセールス拠点となった。日系企業も好調だったのか、想定以上の反響。当時の日本人会会員雑誌に寄稿した結果「脱サラダイバー」と名付けられた。それでも収入はローカルスタッフレベル、所持金もドンドン目減りしており最後のチャンスを掛けてイントラに挑戦。何とかパスして、オーナーからも勧められてリゾート内にマイショップがオープン。マズマズの調子でスタート。が、これからと言うタイミングでオーナーが投資に失敗。ゴタゴタと整理が始まり、止む無くギブアップ。当時、日本から良く来ていた生徒さんから、何処かでリゾートをやらんかと言う話を持ち掛けられた。最終的にツアーで良く利用していたセブ最南端のローカルリゾートと提携しスタートとなった。続く。https://www.youtube.com/watch?v=yt_k70KHX7Q

写真はセブ最南端リロアンから最短のスミロン島