誕生後しばらく、父と母と3人暮らしだったが、3歳くらいのとき、
祖父と祖母の住む家に転居することになったらしい。
(じじいは、そのためか、
【三つ子の魂百まで】
というフレーズを良く私に言っていた・・・・・?!)
・しんせい幼稚園にかよう
ぼーっとしていて、なんのとりえもなさそうな子だったし、
結局やはりそうだった・・・
・5歳の時、弟Mが誕生した。
残念ながら、どんどん、おばあちゃん子になっていった・・・
・大江小学校(天王寺区)に通う
小2?のときに、泉熱かなんかの入院中は、
「科学と学習」の、科学のふろくで楽しんだ!
看護婦さんに一つ恨みがあったのを思い出した!
科学のふろくの【蟻の巣キット】入院前に蟻を集めて用意していた。
しばらくすると、巣ができていたので、母が持ってきてくれたのだ!!
すると、担当の看護婦のお姉さんが、これ何って、
振り回しやがった・・・
蟻さんたちは、また巣を作れたのかどうかわからないが、
その時の僕は蟻さんは窒息する!と思い、
母に言って、広場に捨てに行ってもらった。
その時以来、看護婦って残酷なんだ・・・と知った。
母は退院検査のご褒美で、
「偉人伝トーマスエジソン」を買ってくれた。
何度も繰り返し読んだ。
しかし、その頃以降、実家の町工場の粉塵のためか、
小児ぜんそくになっていた。
”小5”の時、
”父がラ研という通信添削参考書を買ってくれた。”
これが、楽しくて、
毎回添削課題を本を見ながら100点とったりして、
でも、スーパーヘテロダイン方式の中身はさっぱりだし、
√2がなんで1.41に近似できるのか、さっぱりだった・・・・
キットのインターフォン+ラジオは買ってもらえず、
アマチュア無線にあこがれたが、高くて買ってもらえず、
小遣いとは二桁違って諦めた(お年玉も10年分必要だ)・・・・・
くやしくて、徹夜して「ラジオの製作」にある回路を
父のバラック箱から集めた部品で、80Wの半田ごてで接続するも・・・・
全く動かなかったので、自分は天才ではないと知った。
でも、
”灘中の理科の問題は、市販の「入試難問集」をやってみたら、
全部解けるようになっていた。”
しかし・・・父の大阪町工場がつぶれ、夜逃げ・・・
・加賀田小学校に転校した小6
集団登下校がおもしろかった。
しかし、大阪町工場がつぶれ、次の事業も不安を感じた。
いつも食材は、近所のお店に”つけ”だったし、
家はお金が無くなっていった・・・・
マンガの通信添削を勝手に申し込んで、怒られたが、
自分で続けたが、ストーリーが思い浮かばない自分と、
今一つ、世の中の先輩の絵が上手すぎで、
次第に、これでは無理と考えるようになった。
ぜんそくはたまにだけひどくなった。
・東中学に入学
不安と厳しい現実から逃避した、ノイローゼ気味の生活で、
学校では授業をしっかり聴いた覚えがない時期が始まる。
水島信司のマンガ「ドカベン」がはやり、野球部にあこがれたが、
テニス部だった・・・
マンガのまねごとをしていたが、まねでも、ずっと上手な同級生がいて、
「ダメだ・・・勝てない」と思った。
ぜんそくは風邪ひいたときだけで、だいぶ良くなった。
工場が地下、住居がその上といった形、の為、環境がましだったのだろう。
妹Mが誕生していた。
またも、父の大阪町工場がつぶれ、夜逃げ・・・?
・芦城中学に転校
石川県小松市の父の実弟の紹介で、ぼろやに転居。
驚くべきぼろやでした。
雪国なのに二階の私の部屋は、窓が襖張り、というか、障子張り!
紙一枚ですよ!!寒くって、勉強はできません!!
夏は当然、冷房なしですから、暑くって、
外で野球するしかないです!!
運動場で近所のスポーツ店のお兄さんが、野球しないか?
145cmしかない小柄な自分に、
体型(なで肩)が野球に向いてるよと言われ、うれしくなった。
”一度目の勘違い”
ルールも知らない野球部に入るが、
ずっと補欠。
しかし、ぜんそくはほとんど出なくなった。
他の生徒より小柄で、肺活量が少ない分、練習はしんどかったが、
体力は次第についていったし、
そもそも、ゲームとしての野球より、体力・気力をつけるための
野球部として、卒業まで続けることになる。
そのころ妹M2が誕生。
中二の秋に初めて受験があると知る。
”中二の冬に父が入手したカセット教材の中学英語・数学”
これで一気に周りに追い付き、追い越し、実力をつけた。
・・・が、信じてもらえない節があった。。。。
担任が女性で、母と打ち合わせていた、
中三の二度目位の模試で偏差値60位に達したが、
家計の事情で、星陵高校(松井選手の出身校)を滑り止めにはできず、
小松明峰一本に安全策をすすめ、
「TOP合格を目指しなさい」とO担任に言われ、しぶしぶ承諾。
5年後に、私が浪人の時、
二男Mは、小松高校一本で、夏休みからの勉強で、勝負をかけ、
見事合格した。
”父は、「明峰を選んだのが、お前の一番の人生の失敗だったな・・・」と囁いていた。”
中三の夏以降、勉強を止めて、硬式ボールで野球の練習に打ち込んだ。
(小松明峰の監督”例のお店のお兄さん”に
実家の裏の運動場で声をかけられ勘違いした。
”二度目の勘違い”)
・小松明峰高校に入学(普通の成績で)
このころ、実家は非課税で、高校の授業料も半額免除だった。その代わり
奨学金が二つ借りれていた(育英会と石川県(結局自分で返した))ので、
小遣いはそれだけだった・・・・
野球部に入ると、新入部員13,4名は
サッカー部、バレー部、陸上部、野球部の寄せ集め
(Rokkiesよりましだったよね)で、
家の生活も苦しくなり(5人兄弟姉妹の長男で、
父は長距離トラック運転手で手取りが少ないし、
親戚の借金の保証人となり返済でも苦しんだ)、
体力も気力もなくなり、
甲子園など諦めた。
・そのころ、極貧のさなか、体の弱い状態で、死にそうになりながら、
弟M2が誕生。
”高2では、女子が多いから?か文系クラスに進学。”
これも失敗の一つだったと思う。。。。
結局、野球部からは去ってしまう。文系の意味もなくなる。
そこで、「親切な物理」がいいよって理系の知り合いから聞き、
”力学をやってみて、模試で物理を選択したら、
力学のところがいきなり30点満点だった!”
気を良くしてさらに、
駿台の坂間勇先生の参考書
「物理概説?Ⅰ・Ⅱ」と、
「解析概論」高木貞二を買って、独学を始めた。
森毅の「ぐうたら・・・」?「ずぼら流・・・」?とかを読んで、
同じ戦略でやってみようと思ったらしい。
あっ、「さぼり流・・・」だったね!
これは、何度読んでも、いまひとつ分からなかったし、とりあえず、理系は間に合わないかと思った。。。。しかし、
これらの著書に取り組み、
諦めずに考えきる精神的態度が身についていったと思われる。。。
それと、
”思いついたら、とにかくやってみる”精神が身に着いたかもしれない。
一方で、
大学で投手をやるつもりで、昼休みや放課後に、投球練習をやって、
速くなった投球をアピールするも、誰からも声はかからず、
そのまま一人でボール遊びの日々が楽しかった。。。。
(浪人しても、一人ボール遊びが日課になった。
目標投球速度時速最低 130km/h。)
勉強を始めるが、勉強の仕方が分からず、
英語しかできるようにならなかった。
・共通一次試験本番
”ディジタル腕時計が止まる”
始めの国語で止まっていて、
以降パニックで絶滅。
富山大学文学部を一校だけ受験する→不合格
・浪人生活にはまる (共通一次の本番に弱く、鳴き続けた)
84年 金沢大学文学部→不合格
”付き合ってくれていた理系の後輩の影響で理系に転向!”
もともと小5,6では理系だったなという自信と、
中2のときに、初めての化学反応小テストで100点とったクラスの3名に入った
ということから。
”3度目の勘違い”!?
数学、物理、化学を独学はじめた、新聞配達なども。。。
85年 いきなり、東京大学理科一類→不合格
やばいので、東京に出て、新聞奨学生をやると決意。
・日経新聞奨学生となる
駿台午前部理科一類の選抜試験を
新聞店(金町専売所)の荷物置き場に寝泊まりしているときに受験し、
331番で合格。Bクラスに入った。
日経の軟式野球大会で投手をやったが、二試合連続で始めっから全力投球し、
二試合目の相手に打たれ惨敗。雨が多い年だった。
雨の後の一時間目の授業が、
”伊藤和夫師の英文解釈#”や、
”秋山仁の数学#”だったが、シャワーの順番を待っていると、
間に合わなかった・・・・
いやになり、次第に予備校にはいかなくなる・・・
いつもA判定だった金沢大学理学部物理学科一校に絞った。
最後の集金の仕事は頑張ったが。直前の勉強不足で不合格に。。。。
赤本傾向対策が間に合わなかった・・・
(特に、物理で、
アンペールの法則の結果:B=μnI?だっけ、忘れた!・・・
は丸暗記しておかないと解けなかった)
二次募集の出願に、
後輩の車で福井大学まで出かけた・・・・助かった。
・福井大学工学部電子工学科に二次募集で合格
入試問題は、坂間師の「東大入試直前講習の物理」単振動のところで、
ネタばれのものだったので、楽勝となった。
入学後、一瞬寮に入ったが、アルハラで問題になった、【花見】を前にして
飲まされすぎで体調を崩し、退室した。(後から同じ部屋に入った後輩は、
アルコール中毒で死んだという、うわさが流れた。)
”力学などの物理関連は喜んで受講”
他の
”大型計算機でのプログラム実習などは拒絶反応を示していた・・・”
パソコン持っているのはクラスに数名だけの時代。
始めは徹夜でミスドのメンテのバイトをしていたが、
サークルと勉強は両立できないとわかり、バイトはやめ。
実家から、安い学生一軒家に友達に同居させていただいた
(後に彼とはしばらく、フュージョンバンドを組むことになった)。
その頃、お金がないときは、彼のつながりで、
バイトの残りのパンを配給してもらったりして、生き抜いた。
そんなこんなで、返済必要な奨学金だけで、
実家からの仕送りなどは全くナシで、
大学の授業料は毎回免除申請をし、一度成績を落とし、
半額の5万くらい発生したが、その後、試験には力を入れて、
あとは、すべて全額免除となった。
というわけで、ほぼ4年間を自活して生活していくことができた。
ミスドで知り合ったボーカリストの紹介で、
LMC(ライトミュージッククラブ)に入部することができていて、
そこでドラムを覚えた。
一か月スティック代金1500円と部費だけで良く練習した。
先輩方のドラムセットのお陰でした。
定期演奏会や、ライブ活動をいろいろとやらしてもらった。
昨年にはここまでメタボなドラムになってしまいましたが!
3年の時、
”国家公務員Ⅰ種を物理で受験してみたら、一次試験に合格した”
しかし、二次試験は妹を連れていき、町を案内させられたら、
面接に間に合わなくなって、終了・・・・
(辺鄙な地方の官僚にならなくよかったか、わるかったか?)
単に、共通一次で80%ほどあったから、余力だろう。
ここで公務員になってれば、皆が修士を出たところで、足並みを
同年齢でそろえることができたチャンスだったが・・・
4年の講座は、光物性研究室を選択した。
毎日、ストック・バージャー炉で、結晶作りの日々。
4年の夏は、バブルのなごりで、旅費会社持ちで二社くらい、企業訪問。
日立超LSIの技術開発部に注目した(日立の中央研究所で仕事ができる!)
大学院を受験→ 合格
奨学金が無利子のものが出ないと判明。。(試験をサボりすぎた)
超Lの奨学金の面接を受けたが、失敗。。。。
実験中いきなり10年前の先輩の自作のESR装置の電源システムが故障した後、
復旧できなくなり、テーマを変えた。
実験で、二度小さな試験管アンプルを破裂させた。
手さぐり実験の結果を卒論にまとめた。
・大学院を中退することに
大学院に進学後も、授業料は免除になったが、
奨学金はもらってなかったので、
バイトをする必要があったので、
朝はコンビニ、夕方は家庭教師の生活となった。
しばらくして、後輩がバンドのドラムをやってほしいとやってきて、
彼のオリジナルバンドで北陸大会に出場したりもした。
彼は後に、同じ講座に入り、卒業後、日本IBMに就職したという、
頼もしいキーボーディストであったので、
そのとき断ることはしなくてよかったと思う。
研究の方は、精神的にも、物理的にも方向性が見つからず、
お金もなく、
実家からはもう就職して欲しい、
とクレームもあり、中断することに決意した。
技術開発部の先輩のつてで、中途入社で日立超LSIに就職。
この先輩と同姓同名の方は今社長している!
ところが、配属先は期待していた技術開発部でなく、
設計部(武蔵工場の隣)で高速SRAMの設計を手伝うことになってしまい、
半年はショック状態だった。
しかも、翌年、
・父が肺がんで3カ月の闘病後、急死した。
それでも、量産のお手伝いをした、1M高速SRAM、HM621100は高く売れたようだった。
特に、投入といって、製品サンプルを数十~数千個、お客さんに納品するお仕事は、
お金になることが実感できるので、もっとも働きがいを感じるところだった。
次第にプログラムに対するアレルギー反応も無くなってきたので、
SRAMで頑張ろうと思い始めていた。
研修期間の総決算のテーマで連名IEEE
こっちからも見れます
このときの指導員の先輩Mさんは、ルネサスにヘッドハントされてる!!
一年先輩のNさんや、上長だったAさんは今どうしているか、
インターネット検索では、ヒットしないので不明。
A上司は島根県に同姓同名発見。地元にUターンしたのか?
毎月7万円とボーナス時に17万円の仕送りで、兄弟姉妹を支えた。
幸い、小松市か国が、自衛隊の騒音対策で、
防音のガラスとサッシのフレームに工事してくれた!が、それは一階だけ。
確認したら、やはり二階の障子窓は木造のフレームが曲がっていて、
工事不可能でそのままだった・・・・
妹が女子高に通い使っていた時は、無事勉強できたか不明?!
でも彼女はいつもクラスで一番だったと聞いたので、
福生市拝島社員寮で、いつも安心していた。
連名した特許たち
SRAMや、半導体メモリの仕事自体のビジネス環境が大きく変化したらしく、
上司が他のグループに移動。(インテル戦略にはめられただけだったのか)
大学の専門がSRAMなど半導体ではないし、いまひとつの自分。
将来が見通せなくなる。
そのころ、
土日にK塾の東大OPENなどをたまに抜き打ち一夜漬けで受験し、
試験感覚を維持し始めた。
”5人兄弟姉妹すべてが96年春に学校を卒業でき、就職した!!”
そこで、
・再度理学部(化学か物理)で勉強したくなり、東大受験を決意、自己都合退社した
引っ越しは、弟が車と若者たちを出してくれて、助かった! オフィシャルサイトはこちら
まるでプリズン・ブレイクか!?
いやはや、父の死後、私には彼の学費を出す余裕はなく(下に女二人、男二人の兄弟姉妹では無理よね・・・)彼は早稲田に通学する資金源を失ったけどね・・・・・だから、マイケルと兄のようにはいかない。
前年のK塾の夏の東大OPENで理科二類がA判定あったが、
失敗(ろくに受験勉強してないからやはり伸びる現役に負けた)
そこで、一応YゼミのTSスカラシップ試験に合格し、格安で入学。
失業認定活動をしながら勉強。
すぐに再就職したのは巣鴨会館(パチンコ店)
遅番のホール店員はかなりきつかったね!ホールを走り回った・・・・
(近年の、ぐうたらパチンコスタッフを見ていると、
とてもイライラしたものだった:昨年から全く行かなくなったが)
【
”AM1時に帰宅後、
コインランドリーで洗濯しながら、数学テキストを解いた日々!”
AM9時(森先生や雨宮先生の数学講義で答え合わせ)
~PM2時(宇野先生の化学講義の途中)まで通学
PM3時から、JR巣鴨駅前で仕事・・・
】
これの繰り返しの約5か月、
それなりに数学力がついていたのだろう。
模試はいつもお金のいらない、Yゼミの入試プレ・公開模試だけだったが、
どうにか、ランキング入りし続けた。
夏の東大OPENは、文系で受験したら、
文科三類はC判定だった(日本史地理受験)
数学だけが 57点/80点中で、
約50位にランクインだった。このころはまだ計算力も元気だったらしい・・・
(文系に負けるんだ・・・とは思ったが、
小松明峰高校文系で、数学が苦手だった我ながらには感心した。
高校の先生もさぞ不思議だったろう・・・・
”人間、好きなことを、楽しんで努力すると、伸びるよ!!”)
再就職手当でMacのパフォーマーを入手し、
インターネットを電話回線で初めて始めていた。
その後、ホールのタバコの煙で、気管支炎になり、やばいなと思い、
パチンコ屋を退社。
冬から朝日新聞の吉祥寺のお店に、東大受験生として模試のA判定の成績を見せて採用され入店。
朝刊・夕刊を配達しながら、センター試験と、滑り止めの私立二校だけ受験した。
センター試験はいまいちで700点くらいだった/800点満点
理科大理学部応用化学科(センター方式)
→ 合格=同時にセンターのできが90%ちかく出来ているを確認することができ、二次試験に安心して進めれた。
その時点で、新聞奨学金で入学金28万円を納金。
後1校受験した
理科大理学部化学科(本試験)
→合格!
東大理科二類
→合格!
新聞屋の寮のアパートに「北陸新聞」の記者が取材に来た。。。
朝日新聞奨学生としての学生生活には、いろいろあり、
理科二類15組から、第二志望の物理学科に進学したものの、
成績が芳しくなく反省・・・・
平均7時間、毎日働きながらでは時間が足りな過ぎるとわかった。
・一年休学:派遣契約社員で東芝と沖電気でLSI評価の仕事をしたが貯金できず。
また、朝日新聞奨学生に舞い戻った。
休学証明書など
最後は、中途で退会したので、奨学金は9か月働いたのに全く出なかったが、
4年間、毎回申請した授業料免除は、なぜか毎回通り生活費だけでなく、
借金もあったので、いろいろ助かった。
現在、東大などでは、年収500万未満のご家庭は授業料全額免除の
スカラシップがあるそうで、そういうシステムがあれば、
厳しい新聞奨学生はしていなかっただろうし、
大学院まで進んだかもしれない・・・・・
・無事実質4年間、修学し、理学物理学科を卒業
・就職難の2002年春、あてがないときに、あるベンチャー企業が拾ってくれた。
祖父と祖母の住む家に転居することになったらしい。
(じじいは、そのためか、
【三つ子の魂百まで】
というフレーズを良く私に言っていた・・・・・?!)
・しんせい幼稚園にかよう
ぼーっとしていて、なんのとりえもなさそうな子だったし、
結局やはりそうだった・・・
・5歳の時、弟Mが誕生した。
残念ながら、どんどん、おばあちゃん子になっていった・・・
・大江小学校(天王寺区)に通う
小2?のときに、泉熱かなんかの入院中は、
「科学と学習」の、科学のふろくで楽しんだ!
看護婦さんに一つ恨みがあったのを思い出した!
科学のふろくの【蟻の巣キット】入院前に蟻を集めて用意していた。
しばらくすると、巣ができていたので、母が持ってきてくれたのだ!!
すると、担当の看護婦のお姉さんが、これ何って、
振り回しやがった・・・
蟻さんたちは、また巣を作れたのかどうかわからないが、
その時の僕は蟻さんは窒息する!と思い、
母に言って、広場に捨てに行ってもらった。
その時以来、看護婦って残酷なんだ・・・と知った。
母は退院検査のご褒美で、
「偉人伝トーマスエジソン」を買ってくれた。
何度も繰り返し読んだ。
しかし、その頃以降、実家の町工場の粉塵のためか、
小児ぜんそくになっていた。
”小5”の時、
”父がラ研という通信添削参考書を買ってくれた。”
これが、楽しくて、
毎回添削課題を本を見ながら100点とったりして、
でも、スーパーヘテロダイン方式の中身はさっぱりだし、
√2がなんで1.41に近似できるのか、さっぱりだった・・・・
キットのインターフォン+ラジオは買ってもらえず、
アマチュア無線にあこがれたが、高くて買ってもらえず、
小遣いとは二桁違って諦めた(お年玉も10年分必要だ)・・・・・
くやしくて、徹夜して「ラジオの製作」にある回路を
父のバラック箱から集めた部品で、80Wの半田ごてで接続するも・・・・
全く動かなかったので、自分は天才ではないと知った。
でも、
”灘中の理科の問題は、市販の「入試難問集」をやってみたら、
全部解けるようになっていた。”
しかし・・・父の大阪町工場がつぶれ、夜逃げ・・・
・加賀田小学校に転校した小6
集団登下校がおもしろかった。
しかし、大阪町工場がつぶれ、次の事業も不安を感じた。
いつも食材は、近所のお店に”つけ”だったし、
家はお金が無くなっていった・・・・
マンガの通信添削を勝手に申し込んで、怒られたが、
自分で続けたが、ストーリーが思い浮かばない自分と、
今一つ、世の中の先輩の絵が上手すぎで、
次第に、これでは無理と考えるようになった。
ぜんそくはたまにだけひどくなった。
・東中学に入学
不安と厳しい現実から逃避した、ノイローゼ気味の生活で、
学校では授業をしっかり聴いた覚えがない時期が始まる。
水島信司のマンガ「ドカベン」がはやり、野球部にあこがれたが、
テニス部だった・・・
マンガのまねごとをしていたが、まねでも、ずっと上手な同級生がいて、
「ダメだ・・・勝てない」と思った。
ぜんそくは風邪ひいたときだけで、だいぶ良くなった。
工場が地下、住居がその上といった形、の為、環境がましだったのだろう。
妹Mが誕生していた。
またも、父の大阪町工場がつぶれ、夜逃げ・・・?
・芦城中学に転校
石川県小松市の父の実弟の紹介で、ぼろやに転居。
驚くべきぼろやでした。
雪国なのに二階の私の部屋は、窓が襖張り、というか、障子張り!
紙一枚ですよ!!寒くって、勉強はできません!!
夏は当然、冷房なしですから、暑くって、
外で野球するしかないです!!
運動場で近所のスポーツ店のお兄さんが、野球しないか?
145cmしかない小柄な自分に、
体型(なで肩)が野球に向いてるよと言われ、うれしくなった。
”一度目の勘違い”
ルールも知らない野球部に入るが、
ずっと補欠。
しかし、ぜんそくはほとんど出なくなった。
他の生徒より小柄で、肺活量が少ない分、練習はしんどかったが、
体力は次第についていったし、
そもそも、ゲームとしての野球より、体力・気力をつけるための
野球部として、卒業まで続けることになる。
そのころ妹M2が誕生。
中二の秋に初めて受験があると知る。
”中二の冬に父が入手したカセット教材の中学英語・数学”
これで一気に周りに追い付き、追い越し、実力をつけた。
・・・が、信じてもらえない節があった。。。。
担任が女性で、母と打ち合わせていた、
中三の二度目位の模試で偏差値60位に達したが、
家計の事情で、星陵高校(松井選手の出身校)を滑り止めにはできず、
小松明峰一本に安全策をすすめ、
「TOP合格を目指しなさい」とO担任に言われ、しぶしぶ承諾。
5年後に、私が浪人の時、
二男Mは、小松高校一本で、夏休みからの勉強で、勝負をかけ、
見事合格した。
”父は、「明峰を選んだのが、お前の一番の人生の失敗だったな・・・」と囁いていた。”
中三の夏以降、勉強を止めて、硬式ボールで野球の練習に打ち込んだ。
(小松明峰の監督”例のお店のお兄さん”に
実家の裏の運動場で声をかけられ勘違いした。
”二度目の勘違い”)
・小松明峰高校に入学(普通の成績で)
このころ、実家は非課税で、高校の授業料も半額免除だった。その代わり
奨学金が二つ借りれていた(育英会と石川県(結局自分で返した))ので、
小遣いはそれだけだった・・・・
野球部に入ると、新入部員13,4名は
サッカー部、バレー部、陸上部、野球部の寄せ集め
(Rokkiesよりましだったよね)で、
家の生活も苦しくなり(5人兄弟姉妹の長男で、
父は長距離トラック運転手で手取りが少ないし、
親戚の借金の保証人となり返済でも苦しんだ)、
体力も気力もなくなり、
甲子園など諦めた。
・そのころ、極貧のさなか、体の弱い状態で、死にそうになりながら、
弟M2が誕生。
”高2では、女子が多いから?か文系クラスに進学。”
これも失敗の一つだったと思う。。。。
結局、野球部からは去ってしまう。文系の意味もなくなる。
そこで、「親切な物理」がいいよって理系の知り合いから聞き、
”力学をやってみて、模試で物理を選択したら、
力学のところがいきなり30点満点だった!”
気を良くしてさらに、
駿台の坂間勇先生の参考書
「物理概説?Ⅰ・Ⅱ」と、
「解析概論」高木貞二を買って、独学を始めた。
森毅の「ぐうたら・・・」?「ずぼら流・・・」?とかを読んで、
同じ戦略でやってみようと思ったらしい。
あっ、「さぼり流・・・」だったね!
これは、何度読んでも、いまひとつ分からなかったし、とりあえず、理系は間に合わないかと思った。。。。しかし、
これらの著書に取り組み、
諦めずに考えきる精神的態度が身についていったと思われる。。。
それと、
”思いついたら、とにかくやってみる”精神が身に着いたかもしれない。
一方で、
大学で投手をやるつもりで、昼休みや放課後に、投球練習をやって、
速くなった投球をアピールするも、誰からも声はかからず、
そのまま一人でボール遊びの日々が楽しかった。。。。
(浪人しても、一人ボール遊びが日課になった。
目標投球速度時速最低 130km/h。)
勉強を始めるが、勉強の仕方が分からず、
英語しかできるようにならなかった。
・共通一次試験本番
”ディジタル腕時計が止まる”
始めの国語で止まっていて、
以降パニックで絶滅。
富山大学文学部を一校だけ受験する→不合格
・浪人生活にはまる (共通一次の本番に弱く、鳴き続けた)
84年 金沢大学文学部→不合格
”付き合ってくれていた理系の後輩の影響で理系に転向!”
もともと小5,6では理系だったなという自信と、
中2のときに、初めての化学反応小テストで100点とったクラスの3名に入った
ということから。
”3度目の勘違い”!?
数学、物理、化学を独学はじめた、新聞配達なども。。。
85年 いきなり、東京大学理科一類→不合格
やばいので、東京に出て、新聞奨学生をやると決意。
・日経新聞奨学生となる
駿台午前部理科一類の選抜試験を
新聞店(金町専売所)の荷物置き場に寝泊まりしているときに受験し、
331番で合格。Bクラスに入った。
日経の軟式野球大会で投手をやったが、二試合連続で始めっから全力投球し、
二試合目の相手に打たれ惨敗。雨が多い年だった。
雨の後の一時間目の授業が、
”伊藤和夫師の英文解釈#”や、
”秋山仁の数学#”だったが、シャワーの順番を待っていると、
間に合わなかった・・・・
いやになり、次第に予備校にはいかなくなる・・・
いつもA判定だった金沢大学理学部物理学科一校に絞った。
最後の集金の仕事は頑張ったが。直前の勉強不足で不合格に。。。。
赤本傾向対策が間に合わなかった・・・
(特に、物理で、
アンペールの法則の結果:B=μnI?だっけ、忘れた!・・・
は丸暗記しておかないと解けなかった)
二次募集の出願に、
後輩の車で福井大学まで出かけた・・・・助かった。
・福井大学工学部電子工学科に二次募集で合格
入試問題は、坂間師の「東大入試直前講習の物理」単振動のところで、
ネタばれのものだったので、楽勝となった。
入学後、一瞬寮に入ったが、アルハラで問題になった、【花見】を前にして
飲まされすぎで体調を崩し、退室した。(後から同じ部屋に入った後輩は、
アルコール中毒で死んだという、うわさが流れた。)
”力学などの物理関連は喜んで受講”
他の
”大型計算機でのプログラム実習などは拒絶反応を示していた・・・”
パソコン持っているのはクラスに数名だけの時代。
始めは徹夜でミスドのメンテのバイトをしていたが、
サークルと勉強は両立できないとわかり、バイトはやめ。
実家から、安い学生一軒家に友達に同居させていただいた
(後に彼とはしばらく、フュージョンバンドを組むことになった)。
その頃、お金がないときは、彼のつながりで、
バイトの残りのパンを配給してもらったりして、生き抜いた。
そんなこんなで、返済必要な奨学金だけで、
実家からの仕送りなどは全くナシで、
大学の授業料は毎回免除申請をし、一度成績を落とし、
半額の5万くらい発生したが、その後、試験には力を入れて、
あとは、すべて全額免除となった。
というわけで、ほぼ4年間を自活して生活していくことができた。
ミスドで知り合ったボーカリストの紹介で、
LMC(ライトミュージッククラブ)に入部することができていて、
そこでドラムを覚えた。
一か月スティック代金1500円と部費だけで良く練習した。
先輩方のドラムセットのお陰でした。
定期演奏会や、ライブ活動をいろいろとやらしてもらった。
昨年にはここまでメタボなドラムになってしまいましたが!
3年の時、
”国家公務員Ⅰ種を物理で受験してみたら、一次試験に合格した”
しかし、二次試験は妹を連れていき、町を案内させられたら、
面接に間に合わなくなって、終了・・・・
(辺鄙な地方の官僚にならなくよかったか、わるかったか?)
単に、共通一次で80%ほどあったから、余力だろう。
ここで公務員になってれば、皆が修士を出たところで、足並みを
同年齢でそろえることができたチャンスだったが・・・
4年の講座は、光物性研究室を選択した。
毎日、ストック・バージャー炉で、結晶作りの日々。
4年の夏は、バブルのなごりで、旅費会社持ちで二社くらい、企業訪問。
日立超LSIの技術開発部に注目した(日立の中央研究所で仕事ができる!)
大学院を受験→ 合格
奨学金が無利子のものが出ないと判明。。(試験をサボりすぎた)
超Lの奨学金の面接を受けたが、失敗。。。。
実験中いきなり10年前の先輩の自作のESR装置の電源システムが故障した後、
復旧できなくなり、テーマを変えた。
実験で、二度小さな試験管アンプルを破裂させた。
手さぐり実験の結果を卒論にまとめた。
・大学院を中退することに
大学院に進学後も、授業料は免除になったが、
奨学金はもらってなかったので、
バイトをする必要があったので、
朝はコンビニ、夕方は家庭教師の生活となった。
しばらくして、後輩がバンドのドラムをやってほしいとやってきて、
彼のオリジナルバンドで北陸大会に出場したりもした。
彼は後に、同じ講座に入り、卒業後、日本IBMに就職したという、
頼もしいキーボーディストであったので、
そのとき断ることはしなくてよかったと思う。
研究の方は、精神的にも、物理的にも方向性が見つからず、
お金もなく、
実家からはもう就職して欲しい、
とクレームもあり、中断することに決意した。
技術開発部の先輩のつてで、中途入社で日立超LSIに就職。
この先輩と同姓同名の方は今社長している!
ところが、配属先は期待していた技術開発部でなく、
設計部(武蔵工場の隣)で高速SRAMの設計を手伝うことになってしまい、
半年はショック状態だった。
しかも、翌年、
・父が肺がんで3カ月の闘病後、急死した。
それでも、量産のお手伝いをした、1M高速SRAM、HM621100は高く売れたようだった。
特に、投入といって、製品サンプルを数十~数千個、お客さんに納品するお仕事は、
お金になることが実感できるので、もっとも働きがいを感じるところだった。
次第にプログラムに対するアレルギー反応も無くなってきたので、
SRAMで頑張ろうと思い始めていた。
研修期間の総決算のテーマで連名IEEE
こっちからも見れます
このときの指導員の先輩Mさんは、ルネサスにヘッドハントされてる!!
一年先輩のNさんや、上長だったAさんは今どうしているか、
インターネット検索では、ヒットしないので不明。
A上司は島根県に同姓同名発見。地元にUターンしたのか?
毎月7万円とボーナス時に17万円の仕送りで、兄弟姉妹を支えた。
幸い、小松市か国が、自衛隊の騒音対策で、
防音のガラスとサッシのフレームに工事してくれた!が、それは一階だけ。
確認したら、やはり二階の障子窓は木造のフレームが曲がっていて、
工事不可能でそのままだった・・・・
妹が女子高に通い使っていた時は、無事勉強できたか不明?!
でも彼女はいつもクラスで一番だったと聞いたので、
福生市拝島社員寮で、いつも安心していた。
連名した特許たち
SRAMや、半導体メモリの仕事自体のビジネス環境が大きく変化したらしく、
上司が他のグループに移動。(インテル戦略にはめられただけだったのか)
大学の専門がSRAMなど半導体ではないし、いまひとつの自分。
将来が見通せなくなる。
そのころ、
土日にK塾の東大OPENなどをたまに抜き打ち一夜漬けで受験し、
試験感覚を維持し始めた。
”5人兄弟姉妹すべてが96年春に学校を卒業でき、就職した!!”
そこで、
・再度理学部(化学か物理)で勉強したくなり、東大受験を決意、自己都合退社した
引っ越しは、弟が車と若者たちを出してくれて、助かった! オフィシャルサイトはこちら
まるでプリズン・ブレイクか!?
いやはや、父の死後、私には彼の学費を出す余裕はなく(下に女二人、男二人の兄弟姉妹では無理よね・・・)彼は早稲田に通学する資金源を失ったけどね・・・・・だから、マイケルと兄のようにはいかない。
前年のK塾の夏の東大OPENで理科二類がA判定あったが、
失敗(ろくに受験勉強してないからやはり伸びる現役に負けた)
そこで、一応YゼミのTSスカラシップ試験に合格し、格安で入学。
失業認定活動をしながら勉強。
すぐに再就職したのは巣鴨会館(パチンコ店)
遅番のホール店員はかなりきつかったね!ホールを走り回った・・・・
(近年の、ぐうたらパチンコスタッフを見ていると、
とてもイライラしたものだった:昨年から全く行かなくなったが)
【
”AM1時に帰宅後、
コインランドリーで洗濯しながら、数学テキストを解いた日々!”
AM9時(森先生や雨宮先生の数学講義で答え合わせ)
~PM2時(宇野先生の化学講義の途中)まで通学
PM3時から、JR巣鴨駅前で仕事・・・
】
これの繰り返しの約5か月、
それなりに数学力がついていたのだろう。
模試はいつもお金のいらない、Yゼミの入試プレ・公開模試だけだったが、
どうにか、ランキング入りし続けた。
夏の東大OPENは、文系で受験したら、
文科三類はC判定だった(日本史地理受験)
数学だけが 57点/80点中で、
約50位にランクインだった。このころはまだ計算力も元気だったらしい・・・
(文系に負けるんだ・・・とは思ったが、
小松明峰高校文系で、数学が苦手だった我ながらには感心した。
高校の先生もさぞ不思議だったろう・・・・
”人間、好きなことを、楽しんで努力すると、伸びるよ!!”)
再就職手当でMacのパフォーマーを入手し、
インターネットを電話回線で初めて始めていた。
その後、ホールのタバコの煙で、気管支炎になり、やばいなと思い、
パチンコ屋を退社。
冬から朝日新聞の吉祥寺のお店に、東大受験生として模試のA判定の成績を見せて採用され入店。
朝刊・夕刊を配達しながら、センター試験と、滑り止めの私立二校だけ受験した。
センター試験はいまいちで700点くらいだった/800点満点
理科大理学部応用化学科(センター方式)
→ 合格=同時にセンターのできが90%ちかく出来ているを確認することができ、二次試験に安心して進めれた。
その時点で、新聞奨学金で入学金28万円を納金。
後1校受験した
理科大理学部化学科(本試験)
→合格!
東大理科二類
→合格!
新聞屋の寮のアパートに「北陸新聞」の記者が取材に来た。。。
朝日新聞奨学生としての学生生活には、いろいろあり、
理科二類15組から、第二志望の物理学科に進学したものの、
成績が芳しくなく反省・・・・
平均7時間、毎日働きながらでは時間が足りな過ぎるとわかった。
・一年休学:派遣契約社員で東芝と沖電気でLSI評価の仕事をしたが貯金できず。
また、朝日新聞奨学生に舞い戻った。
休学証明書など
最後は、中途で退会したので、奨学金は9か月働いたのに全く出なかったが、
4年間、毎回申請した授業料免除は、なぜか毎回通り生活費だけでなく、
借金もあったので、いろいろ助かった。
現在、東大などでは、年収500万未満のご家庭は授業料全額免除の
スカラシップがあるそうで、そういうシステムがあれば、
厳しい新聞奨学生はしていなかっただろうし、
大学院まで進んだかもしれない・・・・・
・無事実質4年間、修学し、理学物理学科を卒業
・就職難の2002年春、あてがないときに、あるベンチャー企業が拾ってくれた。