小松明峰にした理由は2つ。
①偏差値が50で安全だから。
滑り止めの学校は私立で、親が経済的に負担できないので、失敗は許されないから。
②私の代でちょうど3期生であり、新生小松明峰野球部は希望に燃える夢があったし、監督であったKさんが、中3の春、実家の裏の運動場で入部を誘ってくれたので、高校ではレギュラーをとって、甲子園を目指せると信じ込んだから。
偏差値62の小松高校は、TOPは東大・京大レベルの3年生がおり、伝統的な街一番の進学校。私はそんなことは知らないし、
日々の衣食住すら不自由なボロヤの生活だったから勉強のことなど頭になく、
芦城でレギュラーだった子と、かぶらずにレギュラーを取ることだけを考えていた。
言ってみれば、バリューチェーンでは価値の低いところを狙い、
じっくりと野球に特化して集中訓練し、上のバリューチェーンをマーケットディスラプトしようと試みていたのである。。。このころから、人生ベンチャー参加的だった。ただし、家族の誰も野球は好きでないし、応援もほとんどなかったので、
ぐらついたらすぐに放棄してしまうことになるのだが・・・・母はいつもどろどろの臭いユニホームを洗濯してくれていたので、ホントこれだけは申し訳なかった。
入学してみると、3年生部員はMさん一人。2年生部員は芦城時代からキャッチャーとして尊敬しているKさんを含む3人だけ。。。。
1年生で入部したなかで、中学で野球をやっていたのが、6人。
残りは、バレー部、サッカー部、バスケットボール部、陸上部から、
野球がカッコよさそうだからって・・・・
一部ロッキーズみたいなものだった。
K監督の練習は体の発達の遅い私にはとてもきついものだった。
食事もろくに肉など食べれず、炭水化物な生活だったので、もたなかった面もあるが、もともと運動用にそれほど優れた遺伝子ではなかったと思う。
へなちょこカーブを投げる、スピードの遅いピッチャーが、公式戦に出ているのをベンチから見ては、自分がピッチャーをやりたくなった。ところが、
そんなことは誰も進めたりすることがなかった・・・
身長はそのころ160cm弱しかなかったので、物理的にきついのだが、
卒業後、進学校の小松高校のピッチャーが160cmくらいなのを見て、
名乗り上げておくのだったと、少し後悔したものだった。
結局、公式戦には一度も出場することなく、2年生になって退部した。
日々の暮らしの不安もいっぱいあり、誰も相談してくれる友もいなかったし、
止めにくるものもいなかった。
(心のそこで、こんなメンバーで甲子園は無理だと考えているのが
見通せていたのか、どうなのか・・・もっとコミュニケーションのある仲間ができたらよかったのだが、その頃の私は内行的で、どうしようもなかった。
あの頃からすると、私の性格は、浪人時代に日経の新聞奨学生をし、
大学に入って、仲間とドラムという役割を演じながらバンド活動をすることができるようになり、一人絵を描くようなタイプから、脱皮し、
大学3年の頃少し変化した。それまでは、貧乏でどうしようもなく、
何の才能もなく、肩も壊し硬式野球がまともに出来なくなり、
暗く、鬱屈したものをずっと抱えていたが、そのころカタストロフィー的にそういうものが、一気に解消した。
そういうことが、小松明峰時代に、野球部の部員として体験できていたら、
私はずっとアマチュアで野球選手だったかもしれない。
新聞奨学生では専売所対抗野球大会にて、
軟式ボールで、ピッチャーで、一試合完封の形で、夢を果たした。
真夏の炎天下、投球配分の仕方を知らないピッチャー初体験の私は、
同日の連投で、崩れたが・・・・
その後、二度目の新聞奨学生では、サードを守った。
1年以上いた店では野球大会を二度。
このうち一回は、ブロック優勝するメンバーがそろった!!
これは楽しかった。やっぱり、メンバーがそろうことが大事。
ベンチャー企業は、はじめ社長は苦労する。
主に優秀な人材がみな伝統的な会社や大企業からでないからだ。
ザインエレクトロニクスの飯塚社長もそのような体験を述べられていた。
小松明峰にメンバーがそろって、野球を愛している生徒が心を通わせることができたなら、甲子園に行っていただろう。
私の卒業した年の4年生たちが、奇跡の所謂”無欲の勝利”で、
甲子園出場を果たしたのは、因縁的だったが、嬉しかった思い出である。
この年は、投手が良かった。最低限のスピードと安定した制球力があった。
野球も、工学技術も、
根性だけでは無理だと思います。
仲間と励ましあいながら、
艱難辛苦を乗越えるためにも、
”大好きなこと”を愛しましょう!!
格好や、親の見栄や、お金や、単なる競争意識だけでは選ばないように、
”大好きになれるもの”を見つけられることをお祈りします。
高校選びも、大好きな高校を選ばれんことを!!
①偏差値が50で安全だから。
滑り止めの学校は私立で、親が経済的に負担できないので、失敗は許されないから。
②私の代でちょうど3期生であり、新生小松明峰野球部は希望に燃える夢があったし、監督であったKさんが、中3の春、実家の裏の運動場で入部を誘ってくれたので、高校ではレギュラーをとって、甲子園を目指せると信じ込んだから。
偏差値62の小松高校は、TOPは東大・京大レベルの3年生がおり、伝統的な街一番の進学校。私はそんなことは知らないし、
日々の衣食住すら不自由なボロヤの生活だったから勉強のことなど頭になく、
芦城でレギュラーだった子と、かぶらずにレギュラーを取ることだけを考えていた。
言ってみれば、バリューチェーンでは価値の低いところを狙い、
じっくりと野球に特化して集中訓練し、上のバリューチェーンをマーケットディスラプトしようと試みていたのである。。。このころから、人生ベンチャー参加的だった。ただし、家族の誰も野球は好きでないし、応援もほとんどなかったので、
ぐらついたらすぐに放棄してしまうことになるのだが・・・・母はいつもどろどろの臭いユニホームを洗濯してくれていたので、ホントこれだけは申し訳なかった。
入学してみると、3年生部員はMさん一人。2年生部員は芦城時代からキャッチャーとして尊敬しているKさんを含む3人だけ。。。。
1年生で入部したなかで、中学で野球をやっていたのが、6人。
残りは、バレー部、サッカー部、バスケットボール部、陸上部から、
野球がカッコよさそうだからって・・・・
一部ロッキーズみたいなものだった。
K監督の練習は体の発達の遅い私にはとてもきついものだった。
食事もろくに肉など食べれず、炭水化物な生活だったので、もたなかった面もあるが、もともと運動用にそれほど優れた遺伝子ではなかったと思う。
へなちょこカーブを投げる、スピードの遅いピッチャーが、公式戦に出ているのをベンチから見ては、自分がピッチャーをやりたくなった。ところが、
そんなことは誰も進めたりすることがなかった・・・
身長はそのころ160cm弱しかなかったので、物理的にきついのだが、
卒業後、進学校の小松高校のピッチャーが160cmくらいなのを見て、
名乗り上げておくのだったと、少し後悔したものだった。
結局、公式戦には一度も出場することなく、2年生になって退部した。
日々の暮らしの不安もいっぱいあり、誰も相談してくれる友もいなかったし、
止めにくるものもいなかった。
(心のそこで、こんなメンバーで甲子園は無理だと考えているのが
見通せていたのか、どうなのか・・・もっとコミュニケーションのある仲間ができたらよかったのだが、その頃の私は内行的で、どうしようもなかった。
あの頃からすると、私の性格は、浪人時代に日経の新聞奨学生をし、
大学に入って、仲間とドラムという役割を演じながらバンド活動をすることができるようになり、一人絵を描くようなタイプから、脱皮し、
大学3年の頃少し変化した。それまでは、貧乏でどうしようもなく、
何の才能もなく、肩も壊し硬式野球がまともに出来なくなり、
暗く、鬱屈したものをずっと抱えていたが、そのころカタストロフィー的にそういうものが、一気に解消した。
そういうことが、小松明峰時代に、野球部の部員として体験できていたら、
私はずっとアマチュアで野球選手だったかもしれない。
新聞奨学生では専売所対抗野球大会にて、
軟式ボールで、ピッチャーで、一試合完封の形で、夢を果たした。
真夏の炎天下、投球配分の仕方を知らないピッチャー初体験の私は、
同日の連投で、崩れたが・・・・
その後、二度目の新聞奨学生では、サードを守った。
1年以上いた店では野球大会を二度。
このうち一回は、ブロック優勝するメンバーがそろった!!
これは楽しかった。やっぱり、メンバーがそろうことが大事。
ベンチャー企業は、はじめ社長は苦労する。
主に優秀な人材がみな伝統的な会社や大企業からでないからだ。
ザインエレクトロニクスの飯塚社長もそのような体験を述べられていた。
小松明峰にメンバーがそろって、野球を愛している生徒が心を通わせることができたなら、甲子園に行っていただろう。
私の卒業した年の4年生たちが、奇跡の所謂”無欲の勝利”で、
甲子園出場を果たしたのは、因縁的だったが、嬉しかった思い出である。
この年は、投手が良かった。最低限のスピードと安定した制球力があった。
野球も、工学技術も、
根性だけでは無理だと思います。
仲間と励ましあいながら、
艱難辛苦を乗越えるためにも、
”大好きなこと”を愛しましょう!!
格好や、親の見栄や、お金や、単なる競争意識だけでは選ばないように、
”大好きになれるもの”を見つけられることをお祈りします。
高校選びも、大好きな高校を選ばれんことを!!