創作 「不思議な半年」ー④
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それまでの私には信仰心と云うものは皆目なかった。人は死んだら土にかえる。それが自然界の営みだし、人間も動物である以上土にかえる。神を追求したことは無かったし育った家にも漠然としたものしかなかった。そんな程度の宗教心しか無かった。その頃は博多駅南に住んでいたので遠い油山の教会の新聞が配達されるのも少し変だった。がすぐに博多駅から油山行きのバスに乗った。普通であればそんな教会の新聞など特に気に掛けることなどなく、また出かけることもなかっただろう。少しの疑問もなく、躊躇もしなかった。そう、逃れることは出来なかった。
加藤副牧師は窓際に私を案内し、窓の外には沼があって副牧師の肩越しに遠く沼に浮かんだ一羽の白鳥が見えた。私はそこに鳥飼美由紀がいるのではと思い、紅茶を運んできた若い女性を思わず見たりもした。
ここに来た経過を副牧師に話すと、それは神の仕業だとは思いませんかと言われた。いいえ人間の仕業かと思います。多分5万数千名の組織力を使ってやっていることですと私は答えた。そのあと「人間の愛は価値依存の愛です。」相手の髪が美しいと思うのも価値です。と言われた。私は何故か鳥飼美由紀の事を言われたような気がした。
「それは神の仕業とは思いませんか?」と副牧師に言わせることができる。と今では思う。その日はそれで終わり、その後は日曜日ごとに通った。しかし油山は通うには少し遠すぎた。三月になり、川本の理不尽な言動に衝動的に辞表を出し私はM運輸を退職した。わずか半年の勤務だった。めくるめくあの出来事を残念ながら上手く表現することは私には不可能だ。その後、何故という疑問だけが残った。「何故私にという疑問」
神を見たわけでもなく声を聴いたわけでもありません。文才は無いので注意深く読んでいただきたい。その後は特に啓示めいたものは無いのでこの事の結論としては「憐れんでくださった」のだというものだった。聖書には私はいるではなく、「わたしはある」とあります。或いは神の存在をただ知らせただけのものかも知れません。憐れむべき人は世の名に大勢いるだろうとは思います。それから十数年後の10月15日に私はカトリック教会にて洗礼を受けて今に至ります。社会保険事務所に行く途中に木造の古い教会があった。ここが良いなと私は思った。社会保険事務所の帰り神父を訪ねようと門をくぐった。昼間の教会にはバザーの支度だったらしい夫人が3名いた。入り口には一台の白いセダンが止まっていて、そのナンバーは78-78だった。暫くしてから気がついたがその教会はM運輸の営業所からの帰り道何時も通っていた国道の傍にあった。「人間の愛は価値依存の愛だ。」という加藤副牧師の言葉だけが心に残った。神の愛は・・・。
主は遠くから彼に現れた
わたしは限りない愛をもってあなたを愛している
それゆえ、わたしは絶えずあなたに
真実を尽くしてきた
エレミヤ書・1-3
ーおわりー