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校正ゲラを送った稲葉氏からはいっこうに返事がこなかった。
一度電話をいれたが、不在だった。また体調が悪くなったのか。これでは秋口までには本になりそうもない。期限を遅らせればそれですむことだけれど、かたづかない気持ちだ。それに、赤塚さんも家にもどっていないらしい。亭主からは何度も電話がきた。東京に戻ったのだという。八月は関西から博多あたりまでのトラック便があってすぐにまた不在になるといってきた。本当に心当たりから調べてほしいと懇願された。書き置きなんかありませんでしたか、と刺激的なことを聞いてみた。とくにはないが、着替えとか服がすこしなくなっているようだという。このあいだの経費で足りなかったら、帰ってきたら払うともいわれた。着手もしてないのだから、もらうわけにはいかない、というと、「なんとか頼みます」と言われた。それでは、赤塚さんが最近勤めたらしい保険会社がどこだったかぐらいは調べてみましょうとデタラメなことを言って電話を切った。赤塚さんの隠れ家を訪ねてみるつもりだった。十万円の封筒も赤塚さんに渡してしまおうと思った。なにか口裏をあわせておかねばならぬことがあるかもしれない。なにもマズイ関係になっていたわけではないが、赤塚さんの長期不在の言い訳が必要だろう。そんなこと、おせっかいにもほどがあるような気もしたけれど。こういうことにズルズル巻きこまれていくのはついものことだった。
日が落ちてから、紅花舎のシャッターをおろして、外堀通りから神楽坂へあがり、適当な脇道にはいりこんで赤塚さんの「家」を訪ねていった。毎度のように、しばらくは迷いに迷って、目印の医院をみつけるまで小一時間もかかった。日は落ちても昼間の熱気は路地のあたりにもうっと漂って、汗がにじみでくる。風がないのだ。夕食時のせいか、小さな民家から煮物の匂いがした。
見覚えのある垣根が見えた。小じんまりした古い平屋。赤塚の名前がついている丸い玄関灯は消えたままだった。赤塚さんがいれば、明かりがボォーと薄闇に浮かびあがっているはずだ。勤めからまだ帰っていないのだろうか。引き戸に手をかけてみたが鍵がかかっていた。ためしに植木鉢の下をのぞいてみたが、鍵も隠してはいない。もっとも、鍵の隠し場所は、あの朝の方便であったのかもしれない。
いつまでも暗い玄関先に立っているわけにもいかなかったので、手帳を破って「連絡シテクダサイ。カミオ・トオル」と書いた紙きれを引き戸のすきまに挟んだ。今日の日付と時刻も書いておく。それ以上できることはないような気がした。