そのまま、フラリと夜の町にでた。本郷をぬけて、いつのまにか上野のちかくの路上を歩いている。大学の裏の細い道をくねくねとまがって、気がつくと不忍池のほとりだった。いつであったか、ミドリちゃんが、一度公園の池のボートに乗ってみたいといっていたのを思い出しているうちに、うかうかと道をたどってきてしまった。腹がすいていたのだから、手近な店に入ればよかろうものを、上野あたりで飯を食べようと思ったのだ。夏の夜道をミドリちゃんを連れてこんなところまで歩いてみたいような気がした。
なにか胸騒ぎがしたのだ。ミドリちゃんはもう帰ってこないかもしれない。幾人かの失踪者の列に入ってしまいそうな気がする。預けて行った布の袋の中身が気になりだした。アパートにもどったら、あけてみようかとも思う。いつになく、弱気になっているのに気がついた。それもこれも、不吉な感じのする稲葉峯生氏の手紙のせいだった。独りで含み笑いをもらす。誰かに見られたら気味悪がられる所作だろう。
結局。上野広小路あたりまで歩いて、手近な居酒屋でビールをあおるだけだった。焼き鳥の串を五本も平らげると、もうじゅうぶんだった。ミドリちゃんがいれば、ネギマとか、せめて漬物でも食べなさいというだろうな、と思って、またおかしくなった。たった数日の不在なのに、なんだか懐かしいような気もしてくる。酒を飲んでもすこしも気分が変わっていないのだった。
「おい、なんだっけ、あの変な立ち走りするトカゲって」
「う?」
「ほら、よくテレビに出てるだろ」
「走るのかい?」
「そうだよ、水の上だったかな」
「俺、夜勤が多いからテレビあんまり見ないよ」
近くで飲んでいる二人連れがそんな話をしていた。なんのことか、こちらもてんでわからない。
「うんじゃ、オリンピックなんかも見ないんだ」
「そりゃあ、見るさ。ロサンゼルスなんだろ、こんど」
「ああ、マラソンで金メダルかもな」
「誰よ、それ?」
「えっ、知らないの?」
こっちも知らなかった。そうだ、今年はオリンピックの年だった。そう気がついて、また変な胸騒ぎがしてきた。子どものときから、オリンピックの年にはいい思い出がなかったせいだ。それとも、毎年のように嫌なことはあったけれど、それがオリンピックと結び付くと、強く心に残るからかも知れない。
「それよか、明日、中山に行くの?」
「いいよ、かったるいよ。場外でいいさ」
それが競馬の話であるのはすぐにわかる。
「明日、休みかあ・・・」
「休みでもカネがないとなあ」
酔客たちは、しみじみとつぶやいて静かになった。