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「おう、神尾くん、いいところに来た。いま電話しようとしてたんだ」
丸尾社長がデスクのむこうから、体をゆすって立ち上がってきた。社長はどうやら入院をまぬがれて、週一度の通院と減量を言い渡されていた。夕方からの酒も禁じられたらしい。事務所にはほかに誰もいなかった。ミドリちゃんの姿もない。
「なんか新規の仕事がないかと思って。進行中のゲラが著者からもどってこないんです」
「ああ、あの二本な。金払いはいいけれど、原稿のほうが進行しなくてかなわないよな」
「あれっ、内山くんは?」
本当はミドリちゃんのことをたずねたかったのだが、退院したての内山くんのことをきいてみた。
「う? まあだ使いもんになんないよ。夏休みをとらした」
「そうですか・・・」
「でさ、月末の集金が三、四件あるんだけど、回ってくんねえかな。千代田区内が二つと、豊島区、それに蒲田にひとつあるんだ」
「すぐに行きますか?」
「うんにゃ、伝票がまだできてない。島ちゃんも休みだし、あとでカミさんに作ってもらうから、明日からだな」
「島ちゃんも夏休みですか?」
「いいや、なにかの研修会らしいよ。勉強会ていってたかな」
「そうなんですか」
「三日四日っていってたかな。土日がはいるけどよ」
社長はみずから麦茶の入ったボトルを冷蔵庫からだしてきた。
「あ、自分でやりますよ」
勝手はわかっているので、湯沸かし器のとなりの戸棚からコップをふたつとりだした。
社長は、「おう」といって、自分のデスクに腰をおろした。
「月末っていやあ、神尾くん、アパートのほうはだいじょうぶか? うちから出る手数料くらいじゃあもたないのとちがうかね」
なにが言いたいのかわからなかった。まさか丸尾印刷で雇ってくれるはずもない。こちらがギブアップしてしまったら、社長も助っ人がいなくなって困るからだろう。
「もって、ニ三カ月でしょうね。このままだと」
「そうか。夏場はこっちの仕事もすくないしなあ。バイト料くらいなら、いくらか出せるけどさ」
生かさず殺さずという言葉が頭に浮かんだ。
「すいません、お願いします」
「おう」と、丸尾社長は麦茶をグビリと飲んだ。
「病院のほうはどうですか」
すこしはイタワル素振りもしないといけない。
「ああ、要するに良くはならねえが、これ以上悪化させないってところだろうよ。すこし痩せたんだぜ。体重が二キロ落ちたよ。そしたら、腰はすこしラクになったな」
外見からはわからなかった。うなずいてみせながら、ミドリちゃんが出かけた研修会のほうが気になった。いったいどんな団体にはいっているのだろうか。簿記とかなにかのサマースクールでもなさそうだ。
電話がかかってきた。
「おっと」と、いって社長は体をのばして受話器をつかんだ。そのきっかけで、頭をさげてひきさがることにした。電話の応対をしながら、社長は「じゃあ、明日な」というそぶりで手をふった。