天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮  76

2011年03月10日 00時02分13秒 | 文芸

                              

 

 

「おう、神尾くん、いいところに来た。いま電話しようとしてたんだ」

 丸尾社長がデスクのむこうから、体をゆすって立ち上がってきた。社長はどうやら入院をまぬがれて、週一度の通院と減量を言い渡されていた。夕方からの酒も禁じられたらしい。事務所にはほかに誰もいなかった。ミドリちゃんの姿もない。

「なんか新規の仕事がないかと思って。進行中のゲラが著者からもどってこないんです」

「ああ、あの二本な。金払いはいいけれど、原稿のほうが進行しなくてかなわないよな」

「あれっ、内山くんは?」

 本当はミドリちゃんのことをたずねたかったのだが、退院したての内山くんのことをきいてみた。

「う? まあだ使いもんになんないよ。夏休みをとらした」

「そうですか・・・」

「でさ、月末の集金が三、四件あるんだけど、回ってくんねえかな。千代田区内が二つと、豊島区、それに蒲田にひとつあるんだ」

「すぐに行きますか?」

「うんにゃ、伝票がまだできてない。島ちゃんも休みだし、あとでカミさんに作ってもらうから、明日からだな」

「島ちゃんも夏休みですか?」

「いいや、なにかの研修会らしいよ。勉強会ていってたかな」

「そうなんですか」

「三日四日っていってたかな。土日がはいるけどよ」

 社長はみずから麦茶の入ったボトルを冷蔵庫からだしてきた。

「あ、自分でやりますよ」

 勝手はわかっているので、湯沸かし器のとなりの戸棚からコップをふたつとりだした。

 社長は、「おう」といって、自分のデスクに腰をおろした。

「月末っていやあ、神尾くん、アパートのほうはだいじょうぶか? うちから出る手数料くらいじゃあもたないのとちがうかね」

 なにが言いたいのかわからなかった。まさか丸尾印刷で雇ってくれるはずもない。こちらがギブアップしてしまったら、社長も助っ人がいなくなって困るからだろう。

「もって、ニ三カ月でしょうね。このままだと」

「そうか。夏場はこっちの仕事もすくないしなあ。バイト料くらいなら、いくらか出せるけどさ」

 生かさず殺さずという言葉が頭に浮かんだ。

「すいません、お願いします」

「おう」と、丸尾社長は麦茶をグビリと飲んだ。

「病院のほうはどうですか」

 すこしはイタワル素振りもしないといけない。

「ああ、要するに良くはならねえが、これ以上悪化させないってところだろうよ。すこし痩せたんだぜ。体重が二キロ落ちたよ。そしたら、腰はすこしラクになったな」

 外見からはわからなかった。うなずいてみせながら、ミドリちゃんが出かけた研修会のほうが気になった。いったいどんな団体にはいっているのだろうか。簿記とかなにかのサマースクールでもなさそうだ。

 電話がかかってきた。

「おっと」と、いって社長は体をのばして受話器をつかんだ。そのきっかけで、頭をさげてひきさがることにした。電話の応対をしながら、社長は「じゃあ、明日な」というそぶりで手をふった。