天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮 74

2011年03月03日 15時25分18秒 | 文芸

 神楽坂を下り始めた。すぐに外堀通りが見えてくる。アパートにもどろうか、会社のソファーで寝転がるかまよいながら、だらだらと歩いていると、車道をはさんだ反対側の歩道をのこちらにむかって歩いてくる男に気がついた。どこかであったような気がした。会社に出入りしていた男か、それとも丸尾印刷の取引先のひとか、どうにも思い出せない。ただ、その風体と顔つきには見覚えがあるような気がしたのだ。もちろん挨拶をかわすような間柄ではない。灰色の開襟シャツを着て、ショルダーバッグを肩にかけている。片手になにかをいれたビニール袋も下げていた。四十ずらみの丸顔の男で、口もとがまあるくとびたしているような感じだ。どことなく、猫のような顔つきをしている。ペロリと舌舐めずりでもしかねない。見たことはあるが、面と向かっては顔をあわせたくない種類の男だった。ひどく顔色が悪くみえるのは、青白い街灯のせいかもしれない。車道をはさんで、すっとすれちがった。ちらちら見ているのには気づいていないようだった。こちらは振り返って。後ろ姿をしけしげと見送った。なんで、思い出せもしないのにそんなに気になるのか不思議だった。男は毘沙門天の角を折れていってしまった。

 そうだ、いつかミドリちゃんと雨の夜に練馬のラーメン屋で会った酔っ払いに似ているのだ、と気がつく。酔いにまかせたみたいに、脱兎のごとくおもてにとびだしていった男だ。ふたりだけの話を聞きつけて、まるで勘定をふみたおすきっかけにでもしたように声をかけてきた男だ。よせばいいのに、自分も男の曲がっていた角までいって、横道をのぞきこんだ。ほんの一瞬だったが、男の姿はどこにもなかった。近くの家か店にでも入ってしまったのだろうか。これも物好きに、横道の次の角まで歩いていった。そこからもうひとつ細い路地がのびている。宵の口なのに、ひとけがない。すこしむこうに、入口に明かりを灯した高級そうな料理屋が見える。その手前から、灰色のずんぐりした猫がぬっと出てきて、スタスタ横ぎっていく。むかいの塀際で、しろりとこちらを一度にらむと、身をかかげめて塀のなかにもぐりこんでいった。

 


猫迷宮  73

2011年03月02日 19時28分24秒 | 文芸

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 校正ゲラを送った稲葉氏からはいっこうに返事がこなかった。

 一度電話をいれたが、不在だった。また体調が悪くなったのか。これでは秋口までには本になりそうもない。期限を遅らせればそれですむことだけれど、かたづかない気持ちだ。それに、赤塚さんも家にもどっていないらしい。亭主からは何度も電話がきた。東京に戻ったのだという。八月は関西から博多あたりまでのトラック便があってすぐにまた不在になるといってきた。本当に心当たりから調べてほしいと懇願された。書き置きなんかありませんでしたか、と刺激的なことを聞いてみた。とくにはないが、着替えとか服がすこしなくなっているようだという。このあいだの経費で足りなかったら、帰ってきたら払うともいわれた。着手もしてないのだから、もらうわけにはいかない、というと、「なんとか頼みます」と言われた。それでは、赤塚さんが最近勤めたらしい保険会社がどこだったかぐらいは調べてみましょうとデタラメなことを言って電話を切った。赤塚さんの隠れ家を訪ねてみるつもりだった。十万円の封筒も赤塚さんに渡してしまおうと思った。なにか口裏をあわせておかねばならぬことがあるかもしれない。なにもマズイ関係になっていたわけではないが、赤塚さんの長期不在の言い訳が必要だろう。そんなこと、おせっかいにもほどがあるような気もしたけれど。こういうことにズルズル巻きこまれていくのはついものことだった。

 日が落ちてから、紅花舎のシャッターをおろして、外堀通りから神楽坂へあがり、適当な脇道にはいりこんで赤塚さんの「家」を訪ねていった。毎度のように、しばらくは迷いに迷って、目印の医院をみつけるまで小一時間もかかった。日は落ちても昼間の熱気は路地のあたりにもうっと漂って、汗がにじみでくる。風がないのだ。夕食時のせいか、小さな民家から煮物の匂いがした。

 見覚えのある垣根が見えた。小じんまりした古い平屋。赤塚の名前がついている丸い玄関灯は消えたままだった。赤塚さんがいれば、明かりがボォーと薄闇に浮かびあがっているはずだ。勤めからまだ帰っていないのだろうか。引き戸に手をかけてみたが鍵がかかっていた。ためしに植木鉢の下をのぞいてみたが、鍵も隠してはいない。もっとも、鍵の隠し場所は、あの朝の方便であったのかもしれない。

 いつまでも暗い玄関先に立っているわけにもいかなかったので、手帳を破って「連絡シテクダサイ。カミオ・トオル」と書いた紙きれを引き戸のすきまに挟んだ。今日の日付と時刻も書いておく。それ以上できることはないような気がした。