よりみち散歩。

日々の暮らしのなかで心に浮かぶよしなしごとを、こじんまりとつぶやいています。お役立ち情報はありません。

ティツィアーノとヴェネツィア派展「ダナエ」を見て

2017年01月29日 | 美術
ティツィアーノとヴェネツィア派展を鑑賞する。

ルネサンス期の初期の絵は、ふくらみがなく人物も無表情であまり好みでないのだが、ティツィアーノは、柔らかさがあって好きだ。


ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《フローラ》


以前、イタリアのウフィツィ美術館で見た彼の絵は、とても肉感的な女性の美を余すところなく描いていた。
「触りたくなるような肌」と評される筆致がすばらしい。



ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ダナエ》

ダナエの父王は「生まれてくる孫にお前の命は奪われる」という神託をおそれ、娘を塔に幽閉した。

全能の神ユピテルは金の雨になって彼女と交わり、ダナエはペルセウスを産み落とす。

このペルセウスが蛇髪のメデューサを倒し、アンドロメダを娶るくだりも有名だ。


ミケランジェロはこの絵を見て「色彩も様式も気に入ったが、素描の修練が足りないのが悔やまれる」と称したそうだ。

彼の嫉妬なのか、皮肉なのか、素直な感想なのかはさておき、どのあたりに素描の乱れがあるのかしげしげと眺めてみた。

ダナエの胴が長すぎるのか。クピドの左足は確かに少し不自然な形になっているが、気になるほどではない。

(それをいったら≪裸のマハ≫の両胸などひどすぎる。首のデッサンも妙だ)


フランシスコ・デ・ゴヤ≪裸のマハ≫

ギリシア神話の中でも「ダナエ」や「白鳥とレダ」はよほど画家の創作欲をかきたてるのか、よく主題にされる。

ダナエといえば、クリムトの絵が官能的で印象深い。

(あまりにエロティックなのでアップしないが、興味のある方は「クリムト ダナエ」で検索を)


館内は(たまたまかもしれないが)イタリア旅行経験者が多かったようで、ヴェネツィアの映像を見ているとき「懐かしい」「あそこに行ったね」「もう一度行きたい」という囁きが耳に届いた。

私が訪伊したのは2000年。もう17年になるのか、と感慨深く懐かしく思い返した。


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彼の死を、本当の意味では嘆かない

2016年10月11日 | 美術
彼の死を、本当の意味では嘆かない。
こうなると思っていたし、彼が狂気との闘いに苦しんでいたことを知っていたから。



ゴッホとゴーギャン展に行ってきた。



この二人の画家が約2年間共同生活をし、その個性故に何度もぶつかり
最終的には訣別した、というのは有名な話である。

ゴッホが片耳の一部を切り、その後にピストルで自殺をする。

その知らせを受けたゴーギャンが残した一筆が冒頭のものである。


ヴィンセントと私は意見が合いません。絵に関しては特にそうだ(ゴーギャン)

ゴーギャンと私は、体中の熱という熱が消えゆくほどに感情を高ぶらせ、話しこんだものだ(ゴッホ)

ふたりの語りを読んでも、ゴーギャンの方が俯瞰している。

真の人生は30歳からようやく始まる。
最も活動的な時期なのだ。

人物を描きたい、もっと人物を!(ゴッホ)



意欲的に制作に取り組んだものの、彼の画家生命はおよそ10年で絶たれる。

しかし、かつての友にその情熱は伝播していることがわかる。

ゴッホとはまったく異なる筆致ながら、ゴーギャンもまた「ひまわり」を描いているからだ。

ゴッホの死から11年後。ゴーギャンはわざわざパリからひまわりの種を取り寄せ
この絵を完成させた。


ゴーギャン作<肘掛椅子のひまわり>


ゴッホのひまわりも、ゴーギャンのそれも、一番美しい時期を選択していない。

花びらが落ち、少し萎びているもの、種子だけのもの、首をうなだれているものなど
ある種の残骸にも似た様相を呈している。

椅子もゴッホが好んで描いたモチーフである。

この絵には、ゴーギャンからのレクイエム的なメッセージが込められているのだろうか。
それとも、リスペクト的なものだろうか。


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ダリ展(過去最大級・国立新美術館)

2016年09月19日 | 美術

国立新美術館

スペインのシュールレアリスムの画家、サルバドール・ダリの展覧会に足を運んだ。




写真や映像、金細工や彫琢を含めれば、250点にも及ぶ大回顧展。
過去最大級の規模である。

当日は連休の中日、しかも「高校生無料デー」という条件も手伝ってか、入場規制されるほどの盛況ぶりである。


初期の作品に、まったくダリらしさがないのに驚いた。
素人の、日曜画家程度の構図、画力のものもある。

ゴッホも初期はまったく作風が違っていた。
ピカソは14歳の頃に、子どもと思えないほどの、才気の萌芽が感じられる絵を描いていた。
画風が変化するのは珍しくない――というより普通は変遷を辿りゆくものだから、驚く話ではないのだが『常識的な』絵がやや意外だった。




<ラファエロ風の首をした自画像>

こちらは、ポスト印象派の影響を受けた筆致で、後年のダリの作風を予想させるものではない。


それ以外にも、点描を用いたスーラ風のものや、ピカソへの崇敬を思わせる絵など、試行錯誤し昇華していった痕跡がみとめられる。


会場が混雑しているのは、入場者が多いから、というだけではない。

ダリの絵は、メッセージ性が高く、謎が多く、主題が非常に複合的である。

芸術作品には「一目見て理解できるもの」「全く理解できないもの(或いは観覧者が理解を放棄したくなるもの)」がある。
後者は――例えば、キャンバスをカッターで引き裂いただけのものなど(私見である)。

ダリの絵は、そのどちらでもない。
後年の写実性の高い作風は、描きこまれているひとつひとつは理解しうるものであるのに、総合的に把握することは難しい。




<姿の見えない眠る人、馬、獅子>

この絵は、裸婦にも見えるが馬にも獅子にも見える物体が描きこまれている。
観覧者たちは、絵の前で一瞬戸惑いをおぼえる。

そこで説明文を読み、またその視線を絵に食い込ませ、ようやくひとつの解を得る。
それでも、彼のメッセージを完璧に理解してはいない。
もっと深淵なものが潜在する。

ひとつひとつの絵で、皆、逡巡をおぼえるため、どうしても列の進みは遅々となるのだ。




<ラファエロの聖母の最高速度>

これなども遠目では何を描いたか、判別しづらい。


今回の回顧展ではじめて知ったのは、ダリが「広島、長崎の原爆に大きな衝撃を受けていた」ということだ。

大きな災害により「自分の仕事に何の意味があるのか?」と創作意欲を失うクリエイターも多い。
「この現実を越えられるのか」と自問の末、身動きが取れなくなるのは、よくあることだ。

ダリが超人であるのは、その衝撃を己が作品に注ぎ込み、常に探求していたことである。




<ビキニの3つのスフィンクス>





<ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌>



いずれも「原子力爆発」がテーマに据えられている。

精神分析や科学、相対性理論にまで踏み込み、絵画や映像等にもその天稟を発揮していく。

その世界観には、ただ圧倒されるばかりである。


セルバンテスは「プティングの味を知るには、それを食べるしかない」という名言をのこした。
ダリの世界を些少なりとも知りたいなら、その作品に触れるしかない。


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ボストン美術館ミレー展

2014年10月26日 | 美術
ボストン美術館ミレー展を観に行く。

森林浴をしたような清々しい気持ちに満たされた。

種をまく人や農婦の休息風景など、心癒されるものが多い。

まだチューリヒ(六本木)、印象派(bunkamura)など観たい絵画が目白押しなので、
時間を作って行かねば!

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アートアクアリウム(美しい金魚たち)

2014年09月06日 | 美術
念願のアートアクアリウムを観る。

7月の連休中に立ち寄った時には「入場まで1時間待ち」と言われ
もう少し空いてから…と思って、平日休みが取れた時に足を向けたのだ。

入場制限はかかっていなかったものの、想像以上に観覧者が多い。
そしてその殆どがスマホ(カメラ機能)を使っている。

予定していた用事が早目に終わって、急きょ立ち寄ろうと思い立った私は
コンデジも一眼レフも用意していなかったので、ガラケーで撮影してみた。

                
          


観賞魚である金魚には野生の強さはない。

美しく意匠を凝らしたすべての水槽の下を、黒い台座が支えている。

水を清潔に保ち、水温や酸素量等を適正に保つために、スタッフの皆さんが
毎日努力をしているのだという。

人間が改良したいのちは、やはり弱いのだろうか。
儚い身体は、華美な姿態との代償か。

脆弱だからこそ守護すべきなのか、禁忌に踏み込んだゆえの麗容なのか…。

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