よりみち散歩。

日々の暮らしのなかで心に浮かぶよしなしごとを、こじんまりとつぶやいています。お役立ち情報はありません。

危険なポジティブ思考

2017年05月25日 | コラム
20代前半の頃だが、某学会の男性につきまとわれたことがある。
「神社は危険だ」
「間違った神様を祈ると大変」
「鳥居をくぐってはいけない」etc…。




思想や信教の自由というものがある。
彼が何を信奉しようと容喙する気はない。
だから、他者の嗜好に嘴を突っ込むのはやめてほしい、とはっきり明言した。

しかし言われたことしか理解できないタイプらしかった。

私が友人と待ち合わせていたら、私に内緒で「約束を変わって」と相手に頼み、当然のような顔をして現れた。
驚いて、不機嫌になって黙した私の気配に気づかない。
「人の約束をぶちこわしたと、わかっている?」と叱り飛ばしたら、宇宙語を聞いているような顔をし
「やめた。今日、話すような雰囲気じゃない」とぼそっと呟いた。

どうも会話が成立しない。
妄想の世界から抜け出ていないように見えた。

「あなたに全く関心がない」というと
「正直な気持ちを打ち明けてくれてうれしい、ありがとう」と返ってくる。
何を言っても無駄な人種はいるものだ。

こういう場合は「三十六計逃げるに如かず」だ。
関わり合いにならないのが最善である。

人間、誰しも想像力もしくは妄想力の中で生きている。
想像と現実の区別がきちんとつけられるのが常識人だと思う。

リアルなA子を、妄想のA子に無理に沿わせようとするのは、典型的なストーカーだ。
何を言っても、何を見ても、自分のいいように変換してしまう。
ある意味、危険なポジティブ思考である。


              


なぜこの話を思い出したかと言えば、あるブロガーさんのつきまとい被害記事を目にしたからである。
メールも出入りも拒否し、あげく嘲弄の趣をもってネタにしているのに、
なお「彼は私の魂の恋人」と都合よく解釈しているのだった。
他人事ながら(いや他人事だからこそ)苦笑するしかない。


こうした妄想は、頭の中だけにとどめたほうがいい。
他者を巻き込む妄想は、かなり暴力的だ。

それにしても、受容の時代を実感する。
数年前なら、こういう手合いは「正常さに不自由している人」として白眼視されたものだ。

私も歳月を経て、経験すべてがネタになるので、人生は興趣に満ちていると思うようになった。


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