膨大な情報から真実を読み解く能力をリテラシーと呼ぶ風潮がある。何だか、これはおかしいぞ?と思い続けている。信頼できる情報?真実?どれも、怪しい。全て当然として怪しい。 *リテラシー自体は読み書き能力ってなっている。
インターネットを始めとして、情報化社会とは情報を共有できる社会と僕は認識している。僕は全く事情を知らないが、何となくこういう場でも実感はできる。権力者は情報を駆使し国を治めている。情報を駆使すれば国を治められるんだと思う。だって、アメリカなんか盗聴国家なんでしょ。更に軍事などで扱われる情報は時に大金を生んじゃったりする。まだまだ、個人レベルで扱える情報は大したことのないものかもしれないが、昔から思えば大した進歩だ。それを、一夜にしてテクノロジーが実現したというのも痛快で面白い。
ただ、何にでも良い面と悪い面があるのは有名な話だ。ダイナマイトがそうだったし、プルトニウムもそうだ、身近にある包丁だってそうだし、ロケット・パンチもそうだ。花瓶や灰皿なんか場合によっては「鈍器のような物」とまで呼ばれちゃうし、犬も猫も、酒と泪も、男も女も、パイロットとスチュワーデスも、ワンちゃんもミスターも、自動車も忍者も石鹸も、当然ですが…!良い面と、悪い面がある。
読む自由について考えたんだった。
インターネット、出会い系、公序良俗に反する主張、様々なフェティシズム、ぼやき、叫び、不可解、のろけ、伝説、戯言、虚言、風評、様々なものがその辺に転がっている。未熟な子供などが、それらを真に受け信頼を寄せたりする。気違いが、実行に移しちゃったりする。若い女の子が罠にかかったりする。多分、その他にも色々あるんだろう…。
でも厳然と、それらを読む自由は、あるのだ。しかも、読み取るムラは個性に直結する気配がある。それだけではないだろうけど。では、まず!「読む自由」とは何か? …じゃなくて「自由」そのものの特性について、僕が考えたことを書こうと思ったんだった。
人間が自由に振舞えるのは、その人の精神世界においてだけである。生まれながらにして自由だという人は居ない。生活の中で、場合に応じ、与えられた自由を、行使しているに過ぎない。
与えられる自由とは?誰から与えられるのか?分かり易いのが「周りの人間関係が与える自由」だと思う。「ジョークを言う自由」などがそうだ。これに加えてその人の生活様式が選別してくれる。でかい話だけれど、大きな社会は小さな社会に自由を与えてる、小さな社会は更に小さな社会に自由を与えてる、メェーさんは小さなメェーさんに自由を与えてる、牧草大臣は家畜次官に自由を与えてるetc…、そして最後には個人に自由が与えられる。「はい、どうぞぉ!」と渡されるものじゃないけど、最後は身の周りにあるものが自由を与えてくれる感じだ。
例えば、うんこをする自由は社会資源に大きく頼る。社会に生きている以上、その辺で…ってな訳にはいかない。大きな通りで便意をもよおし、じゃあ。。。変態だ。如何に切迫した状況を説明しても、絶対に怒られると思う。その自由を行使するならトイレを探してやるべきだ。そう制限されるのだ。いくら頑張ったって、社会が許さない自由を行使した場合は処罰を受ける。逆に砂漠の真ん中はどうだろう?周りの状況がその場で用を足すことを許している。誰も怒らないからと言って、砂漠がそれを許しているのかと言われれば、分からないと答えるほかないのだけれど。多分、奴なら、…許して、くれる。
つまり、何を言いたいかというと、場所と状況に応じて色んな形の自由を僕は与えられているってこと。個人が自由ではない理由を分かってもらえたと思うんだが。だから、読む自由も完全に自由ではないのだ。個人個人の生活様式が自ずと自由の大きさを判別し与えてくれる。母親が子供のエロ本を見て見ぬ振りをするように。社会がアホなコンパニーを見逃すように。そう考えれば、読み解く能力などの話にはならない。リテラシーの問題にはならないのだ。黙ってても、自然に制限される自由を信頼するのがベストのような気がする、…するけど、実際は甘いのだろうね。
(注:制限されない個人においては社会に属していないと言えると思う。ここでは自然と与えられる自由を自由と定義するので、ここではそのような人は自由であるとは言わない。)
もう…ワタシ、沸け分カンナくなッ、ちゃツテル、よ。
インターネットを始めとして、情報化社会とは情報を共有できる社会と僕は認識している。僕は全く事情を知らないが、何となくこういう場でも実感はできる。権力者は情報を駆使し国を治めている。情報を駆使すれば国を治められるんだと思う。だって、アメリカなんか盗聴国家なんでしょ。更に軍事などで扱われる情報は時に大金を生んじゃったりする。まだまだ、個人レベルで扱える情報は大したことのないものかもしれないが、昔から思えば大した進歩だ。それを、一夜にしてテクノロジーが実現したというのも痛快で面白い。
ただ、何にでも良い面と悪い面があるのは有名な話だ。ダイナマイトがそうだったし、プルトニウムもそうだ、身近にある包丁だってそうだし、ロケット・パンチもそうだ。花瓶や灰皿なんか場合によっては「鈍器のような物」とまで呼ばれちゃうし、犬も猫も、酒と泪も、男も女も、パイロットとスチュワーデスも、ワンちゃんもミスターも、自動車も忍者も石鹸も、当然ですが…!良い面と、悪い面がある。
読む自由について考えたんだった。
インターネット、出会い系、公序良俗に反する主張、様々なフェティシズム、ぼやき、叫び、不可解、のろけ、伝説、戯言、虚言、風評、様々なものがその辺に転がっている。未熟な子供などが、それらを真に受け信頼を寄せたりする。気違いが、実行に移しちゃったりする。若い女の子が罠にかかったりする。多分、その他にも色々あるんだろう…。
でも厳然と、それらを読む自由は、あるのだ。しかも、読み取るムラは個性に直結する気配がある。それだけではないだろうけど。では、まず!「読む自由」とは何か? …じゃなくて「自由」そのものの特性について、僕が考えたことを書こうと思ったんだった。
人間が自由に振舞えるのは、その人の精神世界においてだけである。生まれながらにして自由だという人は居ない。生活の中で、場合に応じ、与えられた自由を、行使しているに過ぎない。
与えられる自由とは?誰から与えられるのか?分かり易いのが「周りの人間関係が与える自由」だと思う。「ジョークを言う自由」などがそうだ。これに加えてその人の生活様式が選別してくれる。でかい話だけれど、大きな社会は小さな社会に自由を与えてる、小さな社会は更に小さな社会に自由を与えてる、メェーさんは小さなメェーさんに自由を与えてる、牧草大臣は家畜次官に自由を与えてるetc…、そして最後には個人に自由が与えられる。「はい、どうぞぉ!」と渡されるものじゃないけど、最後は身の周りにあるものが自由を与えてくれる感じだ。
例えば、うんこをする自由は社会資源に大きく頼る。社会に生きている以上、その辺で…ってな訳にはいかない。大きな通りで便意をもよおし、じゃあ。。。変態だ。如何に切迫した状況を説明しても、絶対に怒られると思う。その自由を行使するならトイレを探してやるべきだ。そう制限されるのだ。いくら頑張ったって、社会が許さない自由を行使した場合は処罰を受ける。逆に砂漠の真ん中はどうだろう?周りの状況がその場で用を足すことを許している。誰も怒らないからと言って、砂漠がそれを許しているのかと言われれば、分からないと答えるほかないのだけれど。多分、奴なら、…許して、くれる。
つまり、何を言いたいかというと、場所と状況に応じて色んな形の自由を僕は与えられているってこと。個人が自由ではない理由を分かってもらえたと思うんだが。だから、読む自由も完全に自由ではないのだ。個人個人の生活様式が自ずと自由の大きさを判別し与えてくれる。母親が子供のエロ本を見て見ぬ振りをするように。社会がアホなコンパニーを見逃すように。そう考えれば、読み解く能力などの話にはならない。リテラシーの問題にはならないのだ。黙ってても、自然に制限される自由を信頼するのがベストのような気がする、…するけど、実際は甘いのだろうね。
(注:制限されない個人においては社会に属していないと言えると思う。ここでは自然と与えられる自由を自由と定義するので、ここではそのような人は自由であるとは言わない。)
もう…ワタシ、沸け分カンナくなッ、ちゃツテル、よ。