ぱられる・びじょん発刊にあたり、目的、意思を『ぱられる・びじょん宣言』に込めてここに明らかにしたい。
ぱられる・びじょん発刊の動機は、世の中に潜むB面的なものを表現として完成させたいという理由からであった。私が私の周りに普通にある「イマジネーションをぶつけ合うことが出来る場所」に恵まれたことは言うまでもないが、むしろそれだけという感じもしたりする。
B面的なものは何時もそんな場所から生み出されてきた。それが商品として世に出ることもあれば、灯油で湿らせたおがくずのように一瞬のうちに燃え上がり熱を発するだけに終わるものも多くあった。特に音楽に関するものが燃え上がるだけに終わることが多かった、3コードを延延と繰り返し、そこにリズムが重なり、大声が混じる、空間そのものを表現するとも言えるこの活動は、世に出すことを考えてもいいかもしれない。
編集に関わる人々は、光を分割する作業の積み重ねる時間を採用せず、イマジネーションを分割し積み上げる時間軸を大切にしている感がある。その点を踏まえて「ぱられる・びじょん」と言うのは秀逸な言い当てだと思う。
絶え間なく発せられるイマジネーションを、現実世界に当てはめる日常を我々は「ぱられる」と呼び、実際にそれを半ば仕事にしている。詰まらない日常を無防備に消費する、リアルの世界の住人にこの「どんちゃんとした騒ぎ」の面白さが伝わることを願ってぱられる・びじょん宣言としたい。
2006年2月16日 14:30 蛇村 蟹吾
ぱられる・びじょん発刊の動機は、世の中に潜むB面的なものを表現として完成させたいという理由からであった。私が私の周りに普通にある「イマジネーションをぶつけ合うことが出来る場所」に恵まれたことは言うまでもないが、むしろそれだけという感じもしたりする。
B面的なものは何時もそんな場所から生み出されてきた。それが商品として世に出ることもあれば、灯油で湿らせたおがくずのように一瞬のうちに燃え上がり熱を発するだけに終わるものも多くあった。特に音楽に関するものが燃え上がるだけに終わることが多かった、3コードを延延と繰り返し、そこにリズムが重なり、大声が混じる、空間そのものを表現するとも言えるこの活動は、世に出すことを考えてもいいかもしれない。
編集に関わる人々は、光を分割する作業の積み重ねる時間を採用せず、イマジネーションを分割し積み上げる時間軸を大切にしている感がある。その点を踏まえて「ぱられる・びじょん」と言うのは秀逸な言い当てだと思う。
絶え間なく発せられるイマジネーションを、現実世界に当てはめる日常を我々は「ぱられる」と呼び、実際にそれを半ば仕事にしている。詰まらない日常を無防備に消費する、リアルの世界の住人にこの「どんちゃんとした騒ぎ」の面白さが伝わることを願ってぱられる・びじょん宣言としたい。
2006年2月16日 14:30 蛇村 蟹吾
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