出雲大社=縁結びの神様~嘘だあ~~
ホンマ、
出雲、
雲が立ち上る国、
なんと詩的で情緒的な
素敵さ、
出雲平野から四国山脈を見ると、
まさしく、
『山から雲が煙のように出る』
かのように見える。
出雲の国、
古事記に記されているのは
『国譲りの神話』が有る、
これは勝利者(天孫族)側からの記述で有る。
勝利者側からは都合の良いように作られるのが世界の常識。
簡単に云うなら、
『国譲りの神話』は、
『国獲りの物語』
国を奪われた当時の出雲の主、
大国主命は、
今の出雲大社で処刑された。
当時、
出雲地方は強大な国家として成り立っていた。
その力の根源は鉄、
出雲の山奥に良質の砂鉄が摂れた。
それを大陸から渡って来た一族が発見し、
鉄の精製を始めた。
この一団の事、
今の黒竜江、烏蘇里(ウスリー)あたりに占拠していたツングース族の中、
最も勇敢にして進取の気性に富んでいたものは、
夏季の風浪静かなる日を選んで、
船を間宮海峡或いは日本海にうかべて、
勇ましい南下の航海を 試みた。
樺太は最初に見舞った土地であったろう。
彼等の船は更に蝦夷島を発見して、
高島付近に門番(オトリ・・・小樽)を置き、一部は上陸し、
他は尚も南下して海獺の多い土地を発見し、
そこを海獺(モト・・陸奥)と命名し、
海岸づたいに航海を続けて、
入海多く河川多き秋田地方に出たものは、
そこに天幕を張って仮住し、
鮭の大漁に食料の豊富なことを喜んだであろう。
そこを彼等は鮭(ダワ・・・出羽)と呼び慣らしたので、
ついに長くその地の地名となった。
陸奥・出羽は、
しかしながらツングース族の最後の住地ではなかった。
彼等は日本海に沿って南下し、
あるいは直接母国から日本海を横切って、
佐渡を経て越後の海岸に来り、
そこに上陸し、
あるいは更に南西に航行して出雲付近まで付近まで進んで行ったであろう。
こうした移動を、私はツングース族の第一次移住と呼んでいる。
これは紀元前1800から1000年位の間に行われた、
と思われる。
(西村真次「大和時代」より)
この一団は出雲地方に鉄の精製を基盤に強大な国を作った。
その国の名を
『トヨアシハラノナカツクニ』
しかし、
渡来して、この出雲に来た人数は、
天照の軍団からすると少数、
天孫族はその領土の版図拡大をしていた時期、
この鉄を大量に生産する出雲地方の出雲族を早く征服しなければ
その勢力が拡大する。
天孫族は
そこで『国譲り』の交渉をした。
最後の交渉の談判の場が
『稲佐ノ浜』で行われたと古事記では、
タケミカミズチノミコトが使者。
使者は浜に矛を突き立て、
『否・然』
と迫る。
その時の出雲の主が
『大国主命』
この時の談判で
出雲王は今後、
天孫族の政治にはノータッチを永遠にしないと約束をした。
この国譲りの後、
出雲の王族は奈良の三輪山の麓に身柄を移された。
その後、
大国主命はどうなったか、
大国主命は出雲の国に残った。
政治の受け継ぎみたいなものだったのだろう。
天孫族から出雲の国の長官として、
赴任してきたのが、
『天穂日命』
長官の軍営が
今の『大庭神社』
ところが、
天穂日命、大国主命らから、
まさしく、
篭絡された、
『3年も報告もせず、』
天孫族は
困った、
今度は『天穂日命』の息子を派遣した、
この息子、
確か、出雲族の娘を娶った。
天孫族は怒った、
『大国主命』が存命する以上、
出雲の占領は上手くいかない、
それはとりもなおさず、
鉄製品が天孫族に来る量が少ない。
鉄製の多くの武器が出雲族が得たらどうなるか?
天孫族は大国主命に
『汝、応に天日隅宮に住むべし』
と断罪された。
大国主命は殺された、
今の出雲大社がそこ、
かくして大国主命は『神となった』
出雲の国の長官は天孫族から派遣された人物がなり、
今の出雲の祭主も天孫族で有る、
祭主の一族、『千家』も当時から綿々と続く一族、
出雲大社は
『出雲族が当時はこの地の主』
で有った事の証、
天孫族がそのお詫びで大国日命を祀っている。
ホンマ、
出雲、
雲が立ち上る国、
なんと詩的で情緒的な
素敵さ、
出雲平野から四国山脈を見ると、
まさしく、
『山から雲が煙のように出る』
かのように見える。
出雲の国、
古事記に記されているのは
『国譲りの神話』が有る、
これは勝利者(天孫族)側からの記述で有る。
勝利者側からは都合の良いように作られるのが世界の常識。
簡単に云うなら、
『国譲りの神話』は、
『国獲りの物語』
国を奪われた当時の出雲の主、
大国主命は、
今の出雲大社で処刑された。
当時、
出雲地方は強大な国家として成り立っていた。
その力の根源は鉄、
出雲の山奥に良質の砂鉄が摂れた。
それを大陸から渡って来た一族が発見し、
鉄の精製を始めた。
この一団の事、
今の黒竜江、烏蘇里(ウスリー)あたりに占拠していたツングース族の中、
最も勇敢にして進取の気性に富んでいたものは、
夏季の風浪静かなる日を選んで、
船を間宮海峡或いは日本海にうかべて、
勇ましい南下の航海を 試みた。
樺太は最初に見舞った土地であったろう。
彼等の船は更に蝦夷島を発見して、
高島付近に門番(オトリ・・・小樽)を置き、一部は上陸し、
他は尚も南下して海獺の多い土地を発見し、
そこを海獺(モト・・陸奥)と命名し、
海岸づたいに航海を続けて、
入海多く河川多き秋田地方に出たものは、
そこに天幕を張って仮住し、
鮭の大漁に食料の豊富なことを喜んだであろう。
そこを彼等は鮭(ダワ・・・出羽)と呼び慣らしたので、
ついに長くその地の地名となった。
陸奥・出羽は、
しかしながらツングース族の最後の住地ではなかった。
彼等は日本海に沿って南下し、
あるいは直接母国から日本海を横切って、
佐渡を経て越後の海岸に来り、
そこに上陸し、
あるいは更に南西に航行して出雲付近まで付近まで進んで行ったであろう。
こうした移動を、私はツングース族の第一次移住と呼んでいる。
これは紀元前1800から1000年位の間に行われた、
と思われる。
(西村真次「大和時代」より)
この一団は出雲地方に鉄の精製を基盤に強大な国を作った。
その国の名を
『トヨアシハラノナカツクニ』
しかし、
渡来して、この出雲に来た人数は、
天照の軍団からすると少数、
天孫族はその領土の版図拡大をしていた時期、
この鉄を大量に生産する出雲地方の出雲族を早く征服しなければ
その勢力が拡大する。
天孫族は
そこで『国譲り』の交渉をした。
最後の交渉の談判の場が
『稲佐ノ浜』で行われたと古事記では、
タケミカミズチノミコトが使者。
使者は浜に矛を突き立て、
『否・然』
と迫る。
その時の出雲の主が
『大国主命』
この時の談判で
出雲王は今後、
天孫族の政治にはノータッチを永遠にしないと約束をした。
この国譲りの後、
出雲の王族は奈良の三輪山の麓に身柄を移された。
その後、
大国主命はどうなったか、
大国主命は出雲の国に残った。
政治の受け継ぎみたいなものだったのだろう。
天孫族から出雲の国の長官として、
赴任してきたのが、
『天穂日命』
長官の軍営が
今の『大庭神社』
ところが、
天穂日命、大国主命らから、
まさしく、
篭絡された、
『3年も報告もせず、』
天孫族は
困った、
今度は『天穂日命』の息子を派遣した、
この息子、
確か、出雲族の娘を娶った。
天孫族は怒った、
『大国主命』が存命する以上、
出雲の占領は上手くいかない、
それはとりもなおさず、
鉄製品が天孫族に来る量が少ない。
鉄製の多くの武器が出雲族が得たらどうなるか?
天孫族は大国主命に
『汝、応に天日隅宮に住むべし』
と断罪された。
大国主命は殺された、
今の出雲大社がそこ、
かくして大国主命は『神となった』
出雲の国の長官は天孫族から派遣された人物がなり、
今の出雲の祭主も天孫族で有る、
祭主の一族、『千家』も当時から綿々と続く一族、
出雲大社は
『出雲族が当時はこの地の主』
で有った事の証、
天孫族がそのお詫びで大国日命を祀っている。
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