http://www.sankei.com/reg…/news/150721/rgn1507210014-n1.html
終戦の年の6月19日深夜から20日にかけての静岡大空襲。
母はそこにいた。
米軍は、静岡市の戦闘機のプロペラなどを製造する軍需工場を標的に大規模な空襲を展開……
焼夷弾は13,211発、死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸
学徒勤労として送られ軍需工場で働いていた少女たち。
当時15歳だった母はその中のひとり。
必死に火をまたいで逃げたこと。
防空壕の中の煙が苦しかったこと。
安倍川で遺体の焼くにおいの凄かったこと。
やっと生き延びた母、数日後やっとの思いで実家に着く。
全滅と聞かされあきらめていた祖母、目の前の母を幽霊を見るような目で見ながら存在を確かめ体を崩して泣いた、母も泣いた。
そんな話を少し呆けはじめた母が何度もしてくれる。
母の命があったから私がいる、息子もいる。そして、孫もいる。
命のつながりは奇蹟であるように思う。
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